Category : 『入江相政日記』を讀む
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『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第二十四回)

◆皇后腰椎骨折事件(第四回)
 
 ●侍医長候補杉村の追放に成功

 杉村昌雄の手記《「皇后陛下の腰痛」前後》からの引用を続ける。

《皇后さまのお腰の具合は、現在でもあまりおよろしくはないらしいが、私は、お怪我されてすぐこのときに、十分なお手当をして差し上げあげられなかったことがその原因の一つに違いないと思っている。ギブスベッド、コルセットについで、牽引、マッサージも腰の治療に欠かせないのだが、牽引装置を購入したり、マッサージ師をよぶことについても、侍医長が反対した。》

 杉村によると、《皇后さまがお怪我をされた前後から、私を両陛下のおそばから遠ざけようとする動きが出始めていた》といふ。

 杉村の追ひ落としを図つたのは侍従長入江相政と侍医長西野重孝の二人だ。

《・・・・その年の暮、入江侍従長が侍医の部屋に突然やって来た。
「先日、貴方はひとりで宇佐美長官に会いましたね。これは貴方の栄達昇進を目的とした自薦行為とみなします。この一件だけでも、私は貴方を侍医長にはしません。だから、来年三月には。必ず辞職しなさい」
 強引かつやぶから棒な辞職勧告であった。》

 年が明けた昭和五十三年一月七日、今度は、侍従次長の徳川義寛がやつてきた。

《貴方が速やかに退職するなら、俸給も一級昇格させてあげます。そして、退職金もそれにもとづいて払ってあげます。ただし、これは三月末までに退官した場合です。さらに、三月で辞めれば、貴方も御用掛として、今後も宮内庁に出入り出来るようにしてあげます。だから、一日も早く辞表をお出しなさい。」》

 侍従次長の徳川義寛は侍従長入江相政の腰ぎんちやく的存在で、入江の差し金で執拗に杉村に辞任を迫る。しかし杉村は頑強に抵抗し、昭和五十三年の一年中辞任攻防劇が繰り広げられる。明けて昭和五十四年一月三十日。入江の意を受けた侍従次長徳川義寛が杉村に再び退職金減額などを持ち出して辞職を迫る。

《「貴方の退職金を倍くらいにするように、私が人事院にいいました。だから、今月中に辞表を出して下さい。どうしても命令に従わなないのなら、七十歳の叙勲もとりやめてしまいますよ。また、宮内庁でも宮内庁病院のひら職員として扱い、いまの一級職から二級職に格下げしますよ。そうすれば退職金も半分ですからね」》

《二月一日、侍従長の代理の侍従職の事務主管から電話があった。
「明日から宮内庁に出仕してはいけません。午前中に辞表を出しなさい。理由は、貴方がやめない限り、四人の侍医の最も下の人を一級職に出来ないからです。侍医長は特別職なのでいつまでも在職していいから、貴方に辞めてもらうのです。天皇、皇后にもいっさいお目にかからないで下さい。」》

 結局、杉村昌雄は昭和五十四年二月五日に辞表に捺印させられた。

《同じ事務主管から電話で呼び出され、侍従次長のところに連れていかれた。そこには、徳川氏のほか、入江侍従長と宮内庁の秘書課長がいた。この三人と事務主管が、目の前のザラ紙に書いた仮の辞表に判こを押せと迫るのである。一時間ほど粘ったが、結局、脅迫的雰囲気の中で、捺印をさせられてしまった。印鑑は、役所備え付けのチビた三文判。私の出勤簿に役所のほうで押していたものだそうだ。》

《こうして私はついに二十有余年にわたる侍医の職を辞めさせられた。それ以来、私は両陛下におめにかかっていない。私が辞めさせられて一ヶ月ぐらいたったとき、天皇さまが、
「なぜ、近ごろ杉村はこないのか」
 と、仰せられたということをある人から耳にした。》

《私が辞任してから、一年半も侍医の中には外科医がいなくなってしまった。老齢で拝診のとき直立さえおぼつかない西野侍医長と、全く専門が異なる侍医たちが、皇后さまの骨折の予後をお世話申し上げていたのである。なんとも申し訳ないことではないか。》

 入江が一年半も外科医を不在のまま放置したのはなぜか? それは、新任の外科医がくれば、皇后の措置について関する杉村昌雄の主張が正しかつたことが露見してしまふからである。皇后の腰椎骨折事件は最後まで国民の目から隠蔽しなければならなかつた。
 
 侍従長入江相政は杉村昌雄をなんとしても侍医長にしたくなかつた。杉村が侍医長に就任すると、「直立さえおぼつかない」ヨボヨボの西野侍医長と違つて、実力者侍医長となつて、宮中における自分の権力を脅かす可能性があつたからである。杉村追放劇の本質は侍従長入江による敵対勢力排除工作といふことになる。入江は、女官今城誼子を追放することによつて、皇后の影響力を排除することに成功し、今また侍医杉村昌雄を追放することによつて、実力者侍医長を阻止することに成功したのである。

(この項続く)



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『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第二十三回)

◆皇后腰椎骨折事件(第三回)
 
 ●天皇に嘘八百を吹き込み皇后の帰京に反対させる

 杉村昌雄の手記《「皇后陛下の腰痛」前後》から引用を続ける。

《陛下のお部屋のそばに事務官の事務室がある。そこに何故か入江相政侍従長が私を待っていた。私が、
「皇后さまは東京にいらっしゃらないことになりました」
 と、声をかけると、侍従長は、
「あ、そうか、それはよかったな」
 と、返事をしたのである。この「よかったな」という言い方に、私はぴんときた。「社会情勢が不穏」などと申しあげ、天皇さまのお気持ちを変えてしまったのは、入江侍従長であるにちがいない。では、なぜ、侍従長は皇后さまが東京に帰られることに反対したのか。それは一にも二にも、
皇后さまがお怪我されたことが広く国民に知られ、自分たちのご奉公の至らなさが明るみに出ることをおそれたからではないだろうか。
現に、当時の新聞記事には、皇后さまのお怪我は、「軽い腰痛」「軽度のぎっくり腰」と書いてある。記事は宮内庁の発表にもとづいて書くのであるから、国民にウソの発表をし、だましたということになる。》

 皇后に急遽帰京されたりすると、皇后の骨折が国民に知れ渡つてしまふ。この事態を阻止するために入江は天皇を利用しようと考へた。「社会情勢が不穏」だとかあることないこと天皇に吹き込み、皇后の帰京に反対するよう仕向けたのだ。この程度のことで天皇を丸め込むことなど入江にとつてはわけもないことだつだ。天皇はまたしてもこの陰謀家の詐術にはめらたのだ。

 ちなみに、「入江日記」では、皇后骨折当初の記事は次のやうになつてゐる。

 骨折当日の七月十七日
《・・・・出勤したら、冨家君に侍医室によび入れられる。大変とのこと。皇后さま今朝お腰の故障とのこと、大変なさはぎだが、要するにぎつくり腰だらうと思ふ。》

 入江は天皇皇后に供奉して那須に滞在してゐた。

 七月十八日
《・・・出勤。皇后さま大変およろしいとのこと。卜部、田中、冨家退邸。山本、小林、西野参邸。皇后さまのレントゲン、腰椎が一つ老化してつぶれてゐるとのこと。》

 卜部、田中、山本、小林は侍従、冨家は侍医、西野は侍医長である。侍従や他の侍医らの名前は出てくるのに、侍医で唯一の専門家である杉村の名前は出てこない。

 七月十九日
《・・・帰り道で皇后さま急速に御混乱と聞かされショック。昨夜原田[女官]西野会談の結果といふこと。・・・・西野さんによれば原田さんのショックは少し間違ひだつたらしいとのこと、まあよかつた。・・・・》

 杉村が天皇に召されたといふ記事もなければ、入江が天皇に拝謁したといふ記事もない。

 皇后骨折事件とそれに続く杉村追放事件については、杉村が文藝春秋昭和五十七年十月号に《「皇后陛下の腰痛」前後》を発表したほか、杉村氏が翌昭和五十八年八月に亡くなつたあと、週刊文春が杉村の残したメモや手記をもとに《天皇元侍医・杉村昌雄氏が遺した“宮内庁告発”手記》と題する短期連載記事を三回にわたつて掲載してゐる。日記にヘタなことを書き残せば薮蛇になりかねない。そこで入江は、都合の悪い部分については、この外科医の存在そのものを抹殺することにしたものらしい。

 杉村の手記は続く。

《しばらくしてから、私は西野重孝侍医長に、「なぜ、あなた方は、軽い腰痛などと発表したのか。これでは正しい論議が出来ませんね。真実を発表すると自分たちに責任がふりかかってくるからか」
 と、たずねた。すると西野侍医長は、
「いや、そんなことはないよ。骨折だといえば国民がびっくりするから、きみなんかの手の届かない人たちの間で協議して、ああいう風に発表したんだ」
 と、答えたものである。「きみんなんかの手の届かない人たち」というのは、侍従長、侍従次長、そして侍医長自身のことを指すのだろう。こういう医療の素人たち(西野氏は内科医である)が、「国民をびっくりさせない」という口実のもとに、当の怪我人の皇后さまから、十分な治療を受ける機会を奪ってしまったのだ。》

 侍医長の西野重孝は入江より年上だが、入江の謀略仲間みたいなもので、皇后の骨折問題についても、入江の手先となつて隠蔽工作に従事してゐる。

 侍従長入江と侍医長西野は、皇后の治療に関する杉村の提案をことごとくつぶしにかかつた。

《暑い夏での治療は、それは大変だった。腰の骨折を治すには、ギブスベッドというものが必要だが、なにせ暑いので皇后さまはお汗をおかきになる。それでギブスの調子が悪くなつてしまうのだが、そこを苦心してやっとお作りした。ところが、やはり治療に不可欠のコルセットになると、これは専門の医療器具屋の職人でないと出来ない。普通、医師がそういう人に頼んで作ってもらうのだ。にもかかわらず、それもいかんという。「職人などに頼むと、皇后さまがお怪我だということが、外に漏れてしまう」と、侍従長はいうのである。
 私はあきれはててしまったが、やむをえず「それでは私が作りますが、一人ではどうしようもない。私の家内も医師ですから、家内に手伝わせます」といった。そうしたら、それも駄目だといわれた。
「きみの奥さんは女がだろう。女に治療してもらうのは、皇后さまもお嫌いだろうから、別のものに手伝わせてくれ」》

 やむなく杉村は、医学部の学生だつた次男を那須によんでコルセット作りを手伝はせる。

 (この項続く)

『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第二十二回)

◆皇后腰椎骨折事件(第二回)
 
 ●天皇の御意思を豹変させたもの


 皇后の腰椎骨折事件の顛末については、詰め腹を切らされた侍医の杉村昌雄が文藝春秋昭和五十七年十月号に発表した《「皇后陛下の腰痛」前後》と題する爆弾手記によつて、その全貌が明らかになつてゐる。

 昭和三十年九月から侍医(外科)の職にあつた杉村昌雄は昭和五十二年七月の皇后腰椎骨折事件の後、入江侍従長らによる杉村追放工作の犠牲となり、昭和五十四年二月に退任に追ひ込まれた。
 
 杉村は昭和五十七年四月に『天皇さま お脈拝見』(新潮社)といふ著書を刊行した。二十年以上に及ぶ侍医生活をつづつた一種の宮中見聞録だが、この本では辞職に至る経緯についてはまつたく触れられてゐない。しかし、杉村は《私を辞職に追い込んだ宮内庁の体質、もっと具体的には両陛下のおそば近くに仕える人々の不可解な体質を変えなければ、天皇、皇后両陛下があまりに気の毒だからである》として、天皇側近らによる腰椎骨折隠蔽工作と杉村追放工作の一部始終を手記の形で暴露するに至る。

 以下、杉村の《「皇后陛下の腰痛」前後》から、皇后の皇后腰椎骨折事件の経緯をふりかへつてみよう。

《あれは昭和五十二年七月十七日のことである。東京の私のところに、那須の御用邸にいた侍医の冨家崇雄氏から電話がかかってきた。皇后さまが、朝方、お東所(お手洗いのこと)で転んで怪我をされたというのである。冨家さんは内科医だったが、皇后さまのお苦しみ様は大変なもので、
ぎっくり腰といったものではない。かなりのお怪我だとみて、すぐに外科医の私に連絡してきたわけである。》

《翌日、私は那須に飛んで行った。皇后さまは痛みですっかり興奮され、冨家さんがお飲ませ申し上げた鎮痛剤も、全然効果がみられない状態でおられた。私は早速、前の日に冨家さんたちが撮っていたレントゲン写真を拝見したが、明らかに第一腰椎の圧迫骨折であった。いうまでもなく重傷である。》

《私は、外科医として最善の治療をさせていただくべく、まず、皇后さまをもっと設備の整った、気持ちのいいところにお移ししようと考えた。
この年の那須は非常に暑かった。その暑い中で、皇后さまはなんと窓を締め切った部屋に寝ておられたのである。私があきれて、なぜ窓を開けないのかと女官さんたちにたずねると、外から見えると困るからという。見えてもなんでも、通風をよくしないと、お体のためによくないといっても、なかなかいうことをきかない。》

《そこで、私は天皇陛下に申し上げた。
「医師として申し上げますが、医師にとって大事なことは患者の苦痛を取り除き、生命を救うために最善の治療をいたすことでございます。そのことを考えますと那須では皇后陛下に十分なお手当をさせていただくことは不可能と存じます。速やかに東京にお連れし、宮内庁病院に入院していただき、大きなレントゲンで写真をお撮りしたり、立派なギブスベッドにちゃんとお寝かせするようにしたいのですが」
 そうすると、天皇さまは、
「杉村のいうことはもっともである。そのように取りはからってくれ。」
 と、はっきりおっしゃった。そこで、私も、
「すぐ手配をいたします」
 と、ご返事申し上げた。》

 天皇への拝謁は、杉村が那須に到着した夜のこと。ところが、次の日の夜、天皇からお召があつた。

《すぐに参上すると、陛下は、それまで拝見したこともないような厳しいお顔とお声で、
「杉村は患者のために東京に連れ帰ったほうがいいといったが、東京に帰ったら患者は大変なショックをうけるし、ちっとも患者のためにならんではないか」
 と、おっしゃったのである。私は驚き、かつお言葉を返すのも申し訳ないと思ったが、医師としての信念にもとづき、こう申し上げた。「皇后さまは、そのようなことでショックをお受けになるようなことはございません。私としては、皇后さまのご苦痛を軽くするのが第一と考えますので、昨日申し上げたように致したいと存じます」
 しかし、陛下は重ねて、次のようにおっしゃる。
「杉村の申すことは誤りである。ショックを受けるとともに、いま宮内庁病院には東久邇の叔母(明治天皇の第九皇女・聰子さん)が入院しているというではないか。そんなところに良宮を入院させるわけにはいかない。それに、現在、日本の社会情勢は非常に不穏であるというではないか。その中を、良宮を東京まで連れていくことは出来ない」
 私は、病院の御料病室は当然個室なのに思ったし、社会情勢が不穏であるという話も聞いたことなかったが、これ以上は不遜になると判断し
、「さようでございますか。それは残念でございます」
 と下がろうとした。すると陛下は、
「杉村、待て。ここでちゃんと返事をしていけ」
 と念を押される。そこで私は、
「はい。お言葉を返すようでございますが、私は侍医である前に医師であります。私個人の信念は昨晩申し上げたとおりでありますが、しかし、どうしてもそうしてはならんとおっしゃるなら、皇后さまにはお気の毒でございますが、那須で治療させていただくことにいたしましょう」と、ご返事して、お部屋から出た。》

 天皇の御意思を一夜にして豹変させたものはなにか?

        (この項続く)
『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第二十一回)

◆皇后腰椎骨折事件(第一回)
 
 ●皇后の腰椎骨折はなぜ国民に隠蔽されたのか?


 侍従長入江相政は、皇后に忠誠をつくした女官今城誼子に魔女のレッテルを張つて宮中から追放することに成功した。この事件は皇后の精神に甚大な衝撃を与へ、これ以降、皇后の認知症は加速度的に進行する。

 しかし、入江が皇后に加へた迫害はこれにとどまらなかつた。

 今城追放事件から六年後の昭和五十二年、皇后陛下腰椎骨折事件が起きる。皇后が那須御用邸のお東所(手洗ひ)で転倒し、腰椎を骨折したのだ。しかしこの皇后の腰椎骨折は国民には隠蔽され、宮内庁は「軽い腰痛」「軽度のぎつくり腰」と虚偽の説明で押し通した。側近の責任問題になるのを回避するためだつた。

 隠蔽工作の首謀者はいはずと知れた侍従長入江相政である。皇后に万全の治療をと主張する外科医(侍医)の云ふことを無視して、入江は隠蔽工作を最優先させる。のみならず、詰め腹を切らせる形で、この侍医杉村昌雄の追放を画策するのだ。

 皇后の腰は完治することはなかつた。この時満足な治療を受けられなかつたことが後遺症として残り、皇后は終生杖の離せない身体になつてしまふ。

 侍従長入江は、今城追放事件では皇后の精神に致命的なダメージを与へ、皇后陛下腰椎骨折事件においては、皇后の身体に致命的なダメージを与へたことになる。

 皇后が腰椎を骨折した翌月、那須御用邸におけるある日の皇后の様子を入江は日記に記す。

《皇后さまからお電話、「通用門に犬がこつちとを見て立つてゐる」「およろしうございましたね」と申上げたら「みんなのおかげで」と、何も妙なところはおありにならない。》(八月二十一日)

 認知症がもたらす皇后の常軌を逸した言動。それを冷然と書き残す侍従長。

 昭和五十二年の日記の「年末所感」では、入江は本音をさらけ出してゐる。

《皇后さまのぎつくり腰、お気の毒さまではあるがハーフ・リタイアメントがこの為非常に具合よく行はれることになつた。・・・》

 皇后の病名が腰椎骨折と知ってゐながら「ぎつくり腰」で通す厚顔ぶり。《ハーフ・リタイアメントがこの為非常に具合よく行はれることになつた》と腰椎骨折をむしろ歓迎する口吻がうかがへる。《お気の毒さま》もないものだ。

 入江相政にとつて大事なのは「天皇商売」なのである。天皇は「商売道具」だから向き大事にする(内心は馬鹿にしてゐる)が、「天皇商売」には皇后や他の皇族の存在は邪魔なのだ。天皇を自在にあやつるためには皇后や皇族はゐない方がいい。宮中祭祀破壊工作の最大の障害だつた皇后が「ハーフ・リタイアメント」してくれるのは入江にとつて願つてもないことだつた。

 (この項続く)





『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第二十回)

◆魔女騒動(その十四)
 
 ●皇后の認知症進行にほくそ笑む侍従長


 皇后が、侍従長―侍従次長―女官長ラインによる皇后包囲網が築かれてゐると知つた時には遅かつた。裏工作をやらせれば天才的な能力を発揮する入江の謀略の前に皇后は屈し、最終的に今城罷免を受け入れることになる。天皇の《仰せ》に逆らふことはできないのだ。

《侍従次長と一緒に皇后さまに拝謁・・・□□罷免のこと申上げる。なんの抵抗もなく御承知になる。長官、永積、西野に報告。名古屋の後藤先生にも報告。・・・「山を抜く力も失せて今朝の雪」》(六月十六日)

 皇后に今城の罷免を伝へる。早速、教祖後藤先生に勝利報告の電話を宮内庁からかける。この頃、宮内庁の侍従長室と名古屋の天声おまかせ道場との間には、事実上ホットラインが開設されてゐたと思はれる。今城と皇后追ひ落とし工作の指令はすべて名古屋から出てゐた。

《昼前次長より魔女に申し渡し。「もう五六年つとめようと思つてゐた」など言つた由。・・・事は済んだと思はれる。》(六月十七日)

 七月二十九日、今城誼子は正式に退官する。(※注)

《二時半□□前女官退官につき両陛下に拝謁。・・・これですつかり済んだ。》(七月二十九日)

 そしてこの後、本稿の第四回で紹介したニクソンのアラスカ訪問の記事につながつてくるわけである。

 昭和四十六年八月七日。

《イギリスのリターンの招待客のこと。終り頃にみんな帰つたあと、長官が官長と予と残つたところで、アラスカへニクソンが迎へに来るといふこと報告、予はお上にとつては大変おとくなことだから是非実現させようといふ。その為に御出発が早まつても機中でお食事をすればいいと述べる。


 二十年も近侍した側近を奪はれた皇后の悲しみは深く、退官する今城に皇后は手紙をかいてゐる。(河原敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』)

      ***********

         今城誼子に賜る

 苦労をかけて気の毒でした。大宮様より伺つて居りました通り誠実な人でした事を証明します お上の御身を思ひよくお仕へ申し私の為にも蔭になり日向になりよく尽してくれました
この度御上にざんげんする者あり残念なことですが退職させる様な事になりましたが良き時期に再任します 外に居ても気持は今まで通り頼みます 大変勝手なことですがよろしく頼みます

  昭和四十六年六月三十日
        良子(拇印)

      ***********

 手紙には次の二首の御歌も添えられてゐた。

 神々も守りますらむ大君につくしし人に幸多かれと

 己が身を忘れて我につくしたる人の身の上幸あれかしと

 日付が六月三十日とあるのは当初の退官予定日。河原敏明によると、元女官の久保八重子は「これが最後といふ日、皇后さまはお部屋で泣いていらつしやつたさうです」と語つた由。

 自分の一番信頼する側近を奪はれた衝撃で、皇后が精神に変調をきたしたことは想像するに難くない。訪欧の翌年(昭和四十七年)の日記の「年末所感」に入江は記す。

《この方[皇后]はヨーロッパの頃からそろそろだつたが、このごろはひどいことになつておしまひになつたらしい。女官長などはアメリカなんかたうてい駄目といはれる。そんなものかもしれない。これが目下の最大の悩みである。長年魔女におどされつづけてきたいらつしやつたことから来るお気落ちとでもいふものか。》 

「ひどいことになつておしまひになつたらしい」といふのは、認知症の進行を指す。まるで他人事のやうな口ぶりである。皇后の認知症進行に自分が一役かつたといふ自覚などはじめからない。といふより、冷血侍従長にとつて皇后の認知症進行は内心歓迎すべき状況だつたといへよう。

 オクの権力を手中にした入江の野望は、宮中祭祀を廃絶せしめることだつた。ウルトラシントイズムに凝り固まつた連中が仰々しく繰り広げる、くだらない祭祀。天皇の出御をやめさせれば、宮中祭祀は自然消滅する。入江にとつて皇后は、自分の祭祀廃絶工作を事あるごとに妨害するいまいましい存在以外の何者でもなかつた。その皇后に認知症が進行する。入江が嬉しからぬわけがない。


(※注)今城誼子は退官して二十二年後の平成五年二月十二日、養女に看取られつつ八十四年の生涯を閉じた。『入江日記』が刊行されたのが平成二年。自分が邪悪な魔女として陰湿極まりない攻撃を受ける『入江日記』を、今城は生前どのやうな思ひをもつて読んだらうか。河原敏明は『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』の中で、今城誼子が新興宗教「真の道」とも何の関係もなかつたことを明らかにしてゐる。


     (「魔女騒動」終り)
プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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