Category : 皇室
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■天皇譲位特例法のおぞましさ

  妥協の産物としての天皇譲位特例法





  天皇譲位特例法が国会で成立した。
 
 おぞましい限りの法律だと思ふ。

 天皇譲位特例法は「特例法」などと謳つてゐるが、この法律が近い将来、天皇といふ制度を根底からくつがへす火種になるのは目に見えてゐる。

 天皇譲位特例法で最もおぞましいものは、いふまでもなく、衆参両院の委員会で採択された附帯決議の中に「女性宮家の創設」が明記されたことである。

《政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、皇族方のご年齢からしても先延ばしすることはできない重要な課題であることに鑑み、本法施行後速やかに、皇族方のご事情等を踏まえ、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること。》

 「安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等」といふ文言について、政府・自民党側は、「安定的な皇位継承」と「女性宮家の創設」は切れてゐるので別の問題であると釈明する。「女性宮家の創設等」の「等」には、戦後皇籍離脱した旧宮家の復帰といふ意味なども籠められてゐるのださうな。

 特例法の国会審議では与野党が、附帯決議の内容で合意した後、委員会審議に入ると取り決めてゐた。附帯決議の内容で合意しなければ審議に入れず、特例法の今国会成立が危ぶまれるといふ政府の弱みに付け込んで、附帯決議に「女性宮家の創設」を盛り込ませるべく徹底抗戦したのが民進党の野田幹事長だつた。

 「女性宮家」推進勢力からすれば、附帯決議に「女性宮家の創設」を明記させたのは画期的な勝利といへるだらう。「女性宮家創設」の橋頭保を築くことができたのだから。

 特例法の正式名称は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」となつた。政府の当初案にあつた「陛下」が消えたのも、譲位恒久化を目論む民進党への譲歩である。

 この結果、特例法は、正式名称は「天皇」、「天皇陛下」は今上天皇の思ひなどを条文化した第一条のみで使はれ、第二条以下では「天皇」と呼称されるといふ世にもグロテスクな姿となつた。

 かくのごとき政治の妥協の産物として成立した、おぞましい天皇譲位特例法。

 そもそも、天皇に関する法律だから、「静かな議論を」とか「国会で全会一致を」とかいふ自民党政府の方針が間違つてゐたのである。

 本音では日本に天皇なんて必要ないと考へてゐる政党や国会議員(共産党、社民党、民進党議員の半分はこれに該当するだらう)をすべて取り込まふとすると、どのやうな現象が起きるか、天皇譲位特例法はその例証をつぶさに見せてくれた。
 
 民主党政権時代に首相として女性宮家創設を画策したのが野田で、野田首相に「女性宮家創設は急務。これは陛下の思し召しでもあります」とささやいたのが宮内庁長官の羽毛田だつた。
 
 羽毛田及び後任の宮内庁長官の風岡、さらに前侍従長の渡辺允などすべて「女性宮家」推進派である(陛下の「忠臣」を看板にして女性宮家のアジテーターと化したのが渡辺だ)。
 
 つまり、「女性宮家」推進勢力の中心に位置するのがほかならぬ宮内庁なのである。

 「女性宮家」推進派とは、改めて説明するまでもなく、「女性天皇」「女系天皇」推進派が看板をかけかへたのにすぎない。
 
 宮内庁を中心とした勢力が、天皇廃絶派と足並みを揃へて推進する「女性宮家」。
 
 この構図は、特例法の制定過程で、より鮮明になつたといへる。
 
 悠仁親王がをられるからなどと安閑としてゐられる場合ではないのだ。






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■『天皇と宮内庁の「背信」』出版のお知らせ


 Kindle版『天皇と宮内庁の「背信」』を出版しました。

 内容及び目次は下の如くです。

 テーマは、すでに譲位すると決意してゐた天皇が、なぜ「御陵と喪儀に関する所感」を明らかにしたのか―といふ問題です。

 「御陵と喪儀に関する所感」は、「自分は天皇として崩じる」といふ前提で語られてゐます。「自分は天皇として崩じる」といふのは、「終身天皇」の宣言でもあつたわけです。

 この問題は本ブログでも取り上げたことがありますが、本書はすべて新たに書き起こしたものです。

 譲位を決意しながら、一方で、「終身天皇」と宣言した天皇。国民に対する「背信」ともいふべきこのやうな事態がなぜ出来したのか、その謎解きに迫つたのが本書です。

 譲位問題と御陵・喪儀問題とは密接に結びついてゐて、御陵・喪儀問題は譲位問題のテストケースでもあつた、といふのが本書の結論です。

 いろいろ調べてみると、宮内庁が御陵・喪儀問題の公表にあたつて、姑息極まりない小細工を様々に弄してゐたことも分かつてきました。そのへんのことも図版入りで詳しく説明してあります。

 本書によつて、宮内庁といふ役所のデタラメぶりを知つていただければと思ひます(あへて天皇とは申しません)。

 「宮内庁といふ役所」といつても、宮内庁の圧倒的多数の職員は皇室の伝統を守るべく職務に精励してゐて、悪いのは他省庁から天下つた(横すべりした)官僚たちであることを付言します。

 従つて、本書のタイトルを正確に表現すると、『天皇と天下り宮内官僚たちの国民に対する「背信」』といふことになります。

  

●『天皇と宮内庁の「背信」』 千葉展正著 (Amazon Kindle版)

(内容紹介)

天皇が宮内庁の側近らに譲位の意思を明らかにしたのは平成二十二年にさかのぼる。天皇の譲位への意思は固く、宮内庁は天皇譲位に向けて水面下で動き始めた。関係者の間で譲位の時期について了解された頃、宮内庁から不可思議な発表がなされた。御陵と喪儀に関する天皇の所感が明らかにされ、宮内庁は陛下の「お気持ち」を体現すべく、合葬と火葬の検討に着手する―。それはまた、今上天皇による、天皇として崩じるといふ意思の表明でもあつた。しかしこの時、天皇が既に譲位を決断してゐたとしたら? 譲位を決断してゐながら、一方で、天皇として崩御すると言明した天皇。これは天皇及び宮内庁の国民に対する「背信」ではないのか? 譲位問題と御陵・喪儀問題が複雑に絡み合ふ中で、天皇と宮内庁はなぜ国民への「背信」を犯すに至つたのか、その深層に迫る。



◎目次

 ・はじめに
 ・第一章 謎めいた御陵・喪儀問題の発端

  ▼御陵・喪儀問題をめぐるドタバタ劇
  ▼宮内庁が発表した「天皇陛下」の「御陵・御喪儀」
  ▼「天皇としての喪儀」について語つた天皇

 ・第二章 今日展開してゐた譲位問題

  ▼早くから固まってゐた「平成三十年譲位」
  ▼平成二十五年には官邸に報告

 ・第三章 御陵問題「天皇の感想」への疑念

  ▼天皇の「感想」の中に仕込まれた「嘘」
  ▼姑息な陵墓面積の比較方法の変更
  ▼陵墓の面積は「従来の半分」と強弁した宮内庁
  ▼御陵と葬送方法の制度化に成功した天皇
  ▼譲位問題のテストケースとしての御陵・喪儀問題










■「自分は上皇になる」と言ひ出したのは今上天皇である(続)

 なぜ天皇は「自分は太上天皇になる」と言はなかつたのか?




 天皇の譲位後の呼称をどのやうにするかといふ問題で、有識者会議の出席者たちが触れたがらぬことがひとつある。それはほかならぬ今上天皇御自身が、譲位後にどのやうな称号で呼ばれることを望んでゐるかといふことである。

 それは既に明らかになつてゐる。

 天皇が望んでゐる称号は「上皇」である。

 「自分は上皇になる」
と天皇が発言されたといふ証言がある。

 その証言とは―。

 平成22年7月22日に御所の応接間で開かれた「参与会議」の席上、天皇は
「天皇の務めを十分果たせないやうな事態に至る前に譲位したい」
と切り出し、続けて、
「自分は上皇になる」
と言はれたといふものだ。

 天皇が初めて譲位の意向を表明したのがこの時の参与会議で、会議における天皇の発言はかなりの部分がすでに明らかなつてゐる。参与会議の出席者たちがマスコミにしやべつたからである。

 参与会議の出席者は天皇、皇后のほか、参与の3人、それと羽毛田信吾宮内庁長官、川島裕侍従長だつた。

 天皇譲位問題で、宮内庁が策定したマスコミ戦略がある。それは、まづNHKにスクープさせ、宮内庁がいつたんそれを否定し、天皇の「お気持ち」表明のあと、譲位をめぐる天皇の過去の発言をマスコミに一斉にリークするといふ巧妙なものだつた。

 NHKにスクープさせて天皇の「お気持ち」表明の下地をつくり、正式表明のあとは、天皇の譲位の決意がいかに強固なものであるかを国民にアピールするためにマスコミへのリーク作戦を全開させる。これが宮内庁の描いたシナリオだつた。
たのだ。

 平成22年7月22日の参与会議における天皇の発言も、出席した参与らの口からマスコミに語られたものだが、もちろんそんな話を参与らが勝手にマスコミにリークするわけがない。

 それらの証言はすべて宮内庁との綿密な打ち合はせの上になされたものであつたらう。参与らの証言はいはば宮内庁のお墨つきのもの、宮内庁公認の証言とみていい。

 つまり、天皇が「自分は上皇になる」と発言されたといふ参与の証言も、宮内庁「公認」の証言といふことになる。 

 重大な決意をもつて臨まれたであらう参与会議の席で、天皇が譲位の意向を明らかにすると同時に、譲位後の称号をも披歴したといふ意味はすこぶる大きい。「上皇」といふ称号も考へ抜かれた末のことであらう。

 有識者会議で、太上天皇も上皇も意味は同じなどと幼稚な意見を開陳してはばからなかつた「専門家」たちは、次のやうな疑問を持たなかつたのだらうか?

 なぜ天皇は「自分は太上天皇になる」と言はなかつたのだらうか、と。

 「太上天皇」とは本来、譲位した天皇に自動的に付与される称号だつた(太上天皇の称号を辞退する天皇が出たため、以後、新帝がたてまつるのが例となつた)。

 譲位を認めない今の皇室法制には譲位後の称号の規定はないが、過去の先例に倣ふなら、「太上天皇」で十分なはづである。

 譲位した天皇に「上皇」の称号を認めると、上皇と天皇の「二重権力」になるといふ議論があるけれど、歴史上、上皇と天皇の関係は「二重権力」などといふものではない。権力のヒエラルヒーといふ点からみると、上皇は絶対的に天皇の上に位置してゐた。院政が続いてゐた頃、上皇は天皇の継承者を思ひのままに決めることが出来たのである。

 もちろん、現在の法制下では天皇の継承順位は規定されてゐるから、新「上皇」といへど天皇の継承問題に関与する余地はないが、私には、今上天皇が「上皇」といふ称号に前(さき)の天皇といふ以上の意味を籠めてゐることは確かなことのやうに思はれる。




■「自分は上皇になる」と言ひ出したのは今上天皇である
 「譲位後の呼称」論議が触れたがらぬ天皇の「真意」




 天皇譲位に関する有識者会議で、天皇の譲位後の呼称をどうするかといふ問題が議論されてゐる。

 「前天皇」とするか、「上皇」と呼ぶか、「太上天皇」と呼ぶかといふ話である。

 3月22日に開催された第10回有識者会議では、意見を聞かれた3人の専門家(なんだらうね、一応」)たちは、ひとりが「上皇」派、二人が「上皇=太上天皇」派だつた。

 本来「上皇」は、「太上天皇」の「上」と「皇」をとつて、「太上天皇」を略したものだから、「上皇」と「太上天皇」は同じ意味だからどちらでもよいといふのが「上皇=太上天皇」派の意見である。

(「上皇」と呼ぶべきだと述べた人物(本郷恵子・東大資料編纂所教授)は「太上」には無上や至上の意味があるので、天皇との関係で上下感を生まぬやう「上皇」を使用した方がよいといふ珍説を開陳した。どうしても「上皇」を使ひたいので、「太上」の方に難癖をつけるといふ高等戦術を思ひついたものらしい。)

 さてここで、「上皇」といふ呼称について考へてみたい。

 「上皇」といふ呼称はたしかに「太上天皇」に由来するもので、「上皇」の正式な称号はあくまでも「太上天皇」である。

 しかし、歴史の上での使はれ方としては、「太上天皇」イコール「上皇」ではない。

 我が国の歴史において、「上皇」といふ呼称は半ば公称化されてゐたことをみんな忘れたふりをしてゐる。

 白河天皇は譲位後、白河太上天皇と呼ばれたわけではない。白河上皇である。

 鳥羽天皇は譲位後、白河太上天皇と呼ばれたわけではない。鳥羽上皇である。

 鳥羽上皇の執政の時代を鳥羽院政といふ。

 鳥羽院政の頃、「天下を政(まつりごと)するは上皇御一人なり」といはれた。

 院政の院とは、もともと上皇の御所を意味し、上皇の別称としても使はれるやうになつたのだ。鳥羽上皇イコール鳥羽院である。

 上皇という呼称は院政と分かちがたく結びついてゐる。

 「上御一人」(かみごいちにん)といふのが本来の天皇の在り方だが、院政の時代は「上皇御一人」だつたのだ。

 天皇の歴史からみて、いかに院政の時代が変則だつたかが分からうといふものだ。

 院政の時代の最高権力者は上皇と呼ばれた。太上天皇ではない。このことをまづ確認しておかなければならない。
 
 「太上天皇」も「上皇」といふ呼称も意味は同じだからどちらでも構はないなどといふのは、「上皇」といふ呼称の歴史上の使はれ方を故意に閑却した方便にすぎない。


  (この項続く)
■三笠宮崇仁親王殿下薨去


 「薨去」といふ言葉を忌避するマスコミの病理



三笠宮崇仁親王殿下薨去に関する報道では、正しく「薨去」といふ言葉を使つたのは、ほとんど産経新聞のみといふ有様で、他のマスコミは例によつて「逝去」「ご逝去」で逃げた。

 共同通信などはひどいもので、薨去の第一報の見出しは、
「三笠宮さま、都内の病院で27日朝死去」
といふものだつた。
(その後の詳報では、見出しに「逝去」を使用した)
 
 もつとも、逝去も死去も、一般人に用ゐる言葉であることに変はりはなく、相手を敬つていふ時に使ふのが逝去だ。

 だから、弔電などでは、
 「ご母堂様のご逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します」
ともつぱら「ご逝去」を使ふ。

 あらゆるマスコミが皇族の訃報に一般人に用ゐる言葉である「逝去」を使ひ続けるのは、いふまでもなく、マスコミには皇室用語はなるべく使はないようにしようといふ暗黙の取り決めが存在するからだ。

 記者たちが薨去といふ言葉を知らないわけではない。

 宮内庁は皇族の訃報には一貫して「薨去」を用ゐてゐるのだから。

 宮内庁のホームページの記事はかうある。

《崇仁親王殿下薨去について

 崇仁親王殿下には、本日午前8時34分、聖路加国際病院において、薨去(こうきょ)されました。》

 大手マスコミではただ一社、正しく「薨去」を使用した産経新聞も、皇族の訃報記事で「薨去」を使用したのは、平成26年の桂宮宜仁親王殿下の訃報記事からだ。それまでは他のマスコミと同じやうに「逝去」「ご逝去」を使つてゐたから、会社として方針転換したと思はれる。

 昭和13年刊の「皇室辞典」(冨山房)によると、
「崩御」は、
「天皇、太皇太后、皇太后、皇后の神去りましたことをいふ」
とあり、
「薨去」は、
「前記のほかの皇族方並に王公族方の場合を申し上げる。また従三位以上の有位者の場合にも用ゐる」
とある。

 これらは大正15年に公布された皇室喪儀令にある規定で、宮内庁は戦後も皇室喪儀令を準用してゐるから、「崩御」も「薨去」も公的に活きてゐる言葉だといふことになる。この事実をどれほどの日本人が知つてゐるだらうか?

 昭和天皇の崩御に際して、「天皇死去」と見出しをつけたのは共産党の赤旗だつた。

 死去よりは逝去の方がマシと多くの人は考へるかもしれないが、私にいはせれば、皇室用語を忌避もしくは敵視する点においては一般紙も赤旗もそんなに変はらないと思ふ。


 言葉を正さなければ、皇室の世俗化現象はとどまることを知らないだらう。





プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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