Category : 二十一世紀に讀む三島由紀夫
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■21世紀に讀む三島由紀夫


 天皇弑逆と刺青
 昭和45年の三島由紀夫「年譜」を讀む





 11月25日は、ある世代以上の日本人にとつて特別な意味を持つ日である。私ももちろんその中に含まれる。

 昭和45年11月25日に起きたあの事件を語る人は必ず、事件を知つた時、自分がどこで何をしてゐたかを語る。

 私は東京の中央線の御茶ノ水駅のホームにゐた。大学1年生で、授業を終へて下宿への帰路、駅の階段からホームに降り立つた時、サラリーマンたちが新聞をむさぼるやうに読んでゐた。
 
 一人の男に近づき、新聞の見出しに目を凝らした。「三島由紀夫」「自衛隊乱入」「割腹」「自決」―。

 「乱入」といふ聞きなれない言葉と「割腹」「自決」の因果関係がよくわからず、頭は混乱した。三島由紀夫が死んだらしいことだけは理解できた。

 そのあと、夢遊病者のやうになつて下宿にたどり着いた。
 
 次の日、駅の売店で朝刊をすべて買ひ求め、スクラップブックを作つた。ここから私の三島由紀夫遍歴が始まつた。

 あれから少なからぬ三島由紀夫の評伝や回顧録の類ひに目を通してきたが、三島由紀夫の軌跡を考へる時、私が最近もつぱらひもとくのは「年譜」である。

 「決定版三島由紀夫全集」第42巻に収録されてゐる「年譜」には、日付を追つて文筆その他の活動、私的出来事等が簡潔に記されてゐる。(膨大な作品目録は本巻に別に収録)

 三島由紀夫の評伝の類ひは概して評者の思ひ入れが強すぎて、うつかりすると評者の迷路につき合はされるだけに終はる。冗冗しい評伝などより、「年譜」の簡潔な記述をたどる方が見えてくるものが多い。

 さて今日は、「年譜」の昭和45年のところをもう一度読んでみることにしよう。
 
 昭和45年

《1月14日(水) 前年暮に新居に移った村松剛宅で誕生日を迎える。NHKテレビの「生活の知恵」(午後7時30分~8時)に八千草薫、島田一男らとともに出演。「男らしさ・女らしさ」について。21日も。》

 決起の年。1月あたりはまだこんな呑気なテレビ出演にも応じてゐたのだ。

《1月中旬 「楯の会は宝塚の兵隊である」と発言した防衛庁長官・中曾根康弘から釈明の電話があったことを、山本舜勝に電話で告げる。》 

 中曾根康弘のことはあとにも出てくる。

《1月末 韓国空軍の元少将と山本舜勝を自宅に招く。元少将の辞去後、やりますか、と言う三島に対し、やるなら私を斬ってからにして下さい、と山本は返答する。》

 山本舜勝は旧軍あがりの元陸将補。一時は三島が最も信頼した人物だが、最終的に三島は山本を見限る。「韓国空軍の元少将」が出てくるが、三島は朴正熙政権下の韓国に渡り、韓国軍関係者とも接触があつた。

《2月10日(火)頃 村松剛に電話で、木村俊夫官房副長官を通じて佐藤栄作首相から楯の会を支援する(毎月100万円)という申し出があったことを伝える。》

 佐藤首相は中曾根防衛庁長官とともに、事件の直後、三島を狂人扱ひしたことでよく知られてゐる。

《4月27日(月) 中曾根康弘主催の政治団体・山王経済研究会例会で講演(「現代日本の思想と行動」。》

 三島は中曾根の釈明を容れたらしく、中曾根の政治団体で講演してゐる。

《小高根二郎「蓮田善明とその死」を携えて山本舜勝宅を訪問。私の今日はこの本によって決まりました、と言う。》

 先般、「花さかりの森」を含む三島初期の作品の原稿が、蓮田善明の遺族宅から発見されたといふ報道があつた。

《6月13日(土) ホテルオークラ821号室に、三島、森田必勝、小賀正義、小川正洋が集合。三島は、自衛隊は期待できないから自分たちだけで実行する、その方法として、自衛隊の弾薬庫を占拠してこれを爆破すると脅すか、東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集合させ、自分たちの主張はを訴え、決起する者があれば、ともに国会を占拠して憲法改正を議決させることを提案。討議の結果、総監を拘束する方策を取る。さらに三島は、11月の楯の会2周年記念パレードを総監に観閲してもらい、その際、総監拘束を実行しようと提案。》   

 決起の方法は煮詰まつてきたが、この時点では、国会占拠といふ計画も三島の頭にあつた。

 ちなみに、「年譜」にある楯の会関係の記述の多くは、裁判の検察冒頭陳述に拠つてゐる。

《7月13日(月) 吉兆で保利茂官房長官の招きによる会。村松剛、木村俊夫官房副長官、安岡正篤同席。この頃、三島は保利と数回懇談し、防衛に関する意見を述べた。(「武士道と軍国主義」「正規軍と不正規軍」)。保利が三島に接触したのは自民党内に翌年の東京都知事選に三島を推す動きがあることを踏まえ、三島の考えを内々に確かめるため。》

 三島は政治家になる気は毛頭なかつた。ただ、自民党政治家の中でも保利茂にだけは信を置いてゐた。この時の東京都知事は美濃部亮吉だつた。

《9月15日(火) 三島、森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の5名は、千葉県野田市の興風館で行われた忍者大会を見物し、帰途、両国のイノシシ料理店ももんじ屋で会食するなどして同志的結束を固める。》

 忍者大会とはまるで見世物みたいだが、、正式には「戸隠流忍法演武会」といつた。三島は戸隠流忍法を日本民族の誇る忍法武道と高く評価し、自分でも戸隠流忍法を習ひたいといふ希望を持つてゐた。(板坂剛「極説三島由紀夫」)

《9月 銀座の第二浜作に徳岡孝夫を招く。右と左の両方から金を貰った林房雄への批判や自衛隊への失望を語る。(以下略)》

 二十数年に及ぶ交友を続けてきて、「林房雄論」(近代文学評論の傑作といはれる)まで書いた林房雄への怒りは激しかつた、と徳岡は回想してゐる。

《10月7日(水)  「天人五衰」執筆のため後楽園を取材。事実上絶縁状態になっていた村松剛は、伊沢甲子麿に仲介を頼み、四谷の蔦屋で三島と会食。君は頭の中の攘夷をまず行う必要がある、と三島は村松に言う。(村松剛「三島由紀夫の世界」》

 村松剛の「三島由紀夫の世界」によると、この場面でのやりとりは次のやうなものだつた。

 ―ソウルでは、フランス語で講演をしたそうだね。
 ―どうしてそれを知っているの?
 ―ドナルド・キーンから聞いたんだよ。
 ―それよりも、「天人五衰」の最終章を書き上げたそうじゃないか。
 ―え、だれにきいた。
 ―「果たしていない約束」を読んで、驚いたんだよ。あの文章はただごとじゃないです。心配になって、こうした時間をつくってもらった・・・
 ―ふーん。きみにも日本語がわかるのか。フランス語しかわからないのかと思っていた。
 ―なんて失礼な。(伊沢)
 ―そのことばは撤回してほしい。
 ―きみは頭の中の攘夷を、まず行う必要がある。、

 家族ぐるみの付き合ひをしてきた無二の親友(と村松は思つてゐた)から放たれた侮蔑の言葉と,翌月の三島決起は村松をうちのめし、立ち直つて「三島由紀夫の世界」の筆をとるのに17年の歳月を要した。

《10月 磯田光一に、本当は宮中で天皇を殺したい、と言う。(磯田光一・島田雅彦「模造文化の時代」)また、この頃、浅草の刺青師(彫長)に刺青を彫ってくれるよう頼むが、断られる。》

 天皇弑逆と刺青。三島由紀夫のヤクザ映画愛好は有名だが、刺青は三島に似合ふのか似合はないのか。

《11月4日(水) 三島は中山正敏から最後の空手指導を受ける。陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地に体験入隊(リフレッシャーコース)。6日まで。訓練終了後、三島らは御殿場館別館において、他の楯の会会員、自衛官らとひそかに別れを惜しむ。この期間中に、三島は川端康成宛に最後の手紙(万一の時は後のことをよろしく頼むとの文面)を出すが、川端は一読後焼却。》

 三島が後事を託す手紙を書いたのは川端康成のみである。晩年の三島は、川端のノーベル賞への執着を見て半ばこの恩人を軽蔑し、周辺には平気で酷評した(「よく生きてゐるよ」「あの人はもう作家とはいへない」等)とも伝へられるが、書簡の上では川端に対して終生礼節を保つた。

 11月に入つてからの日録は、楯の会の打合せの記事が続くが、その合間にも文学関係の用談、「三島由紀夫展」開催、パーティ出席、そして知人との面談(最期の別れ)等を目まぐるしくこなしてゐる。

 11月25日の日録には、2ページ半が費やされてゐる。

 この中で私が目をとめたのは次の記述だ

《警視庁は、東京牛込署内に「楯の会自衛隊侵入不法監禁割腹自殺事件特別捜査本部」を設置。》

 さうか、捜査本部の名前はこんなに長い名前だつたのか。 

「楯の会自衛隊侵入不法監禁割腹自殺事件特別捜査本部」

 捜査本部の名称を警察の隠語で「戒名」と呼ぶが、この戒名には三島の名前が入つてゐないことに今気がついた。






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【二十一世紀に讀む三島由紀夫】

 
(第1回)「私の中の二十五年」



《私の中の二十五年を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を變へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らてゐる。生き永らてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。》

《二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つていゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。》

《私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大國が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。》
(「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」 サンケイ新聞 昭和四十五年七月七日)


 三島由紀夫の「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」が新聞に掲載された昭和四十五年七月七日といへば、自決の四ヶ月ほど前にあたり、「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大國」といふ言葉とともに、文学作品を別にすれば三島由紀夫のエッセイでは最も引用される文章といへるかもしれない。(三島の友人の村松剛は「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない」といふ表現を本人の口から聞いたことがあると書いてゐる。)

 戦後民主主義に冒された日本社会への呪詛。それに対して自分は何をしてきたのか。

《否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。(中略)その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、といふ考へが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながらそこから利得を得、のうのう暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる。》

 村松剛の指摘するやうに(『三島由紀夫の世界』)、全体が苛立たしげな文体で、交友についてもこのやうに語られる。

《私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失った。原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚といふ徳が欠けてをり、果ては上田秋成や平賀源内のやうになるのがオチであらう。》

 村松は「私の中の二十五年」には「彼の文章の特色である諧謔や逆説は、ここには影もない」と言ってゐるけれど、「果ては上田秋成や平賀源内のやうになるのがオチであらう」というくだりにわずかに諧謔が顔をのぞかせるてゐるのではないか。

 上田秋成は心を許した友も門弟もなく徹底した孤独の中で小庵に七十三年の生涯を閉じ、晩年人間不信に陥りつまらぬことから殺傷事件に及び五十一歳で嶽死したと伝へられるのが平賀源内だつた。

 三島由紀夫は上田秋成にも平賀源内にもなるはずもなかつた。なぜなら、彼はこの文章を書いたとき、楯の會會員とともに行動を起こし自分は切腹することを既に決めてゐたからである。

 

プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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