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Category : 毛沢東
■天安門事件と天皇訪中




  ▼ 中共の「広告塔」として利用された天皇訪中
    「日本を突破口にせよ」ー鄧小平の対日工作



 天安門事件31周年の日に、ネットで当時の動画などを見てゐたら、天安門に掲げられた毛沢東の肖像画の上部に学生ら数人がとりついてゐる画像が目に入つた。毛沢東の肖像画を取り外そうとしてゐるやうにもみえる。事件後の天安門広場の映像では、毛沢東の肖像画は依然として天安門に鎮座してゐたから、学生らの毛沢東肖像画撤去の試みは失敗に終はつたのであらう。

 天安門広場とその周辺を埋め尽くした100万のデモ隊は人民解放軍の戦車により一夜のうちに鎮圧された。中共政府は厳重な報道管制を敷いたが、CNNなどの画像が流失し、天安門広場の流血事件を世界が知ることになつた。

 軍投入の最終決定を下した鄧小平は、「200人の死が中国は20年の安定をもたらすだらう」 と指導部に語つた。(実際に死んだのは、鄧小平の予測人数の少なくとも10倍と今では見積もられてゐる。)

 事件の全貌は闇に包まれてゐたものの、戒厳部隊により学生らの虐殺が実行されたことは明白だつた。鄧小平の改革・開放路線を支持してゐた欧米諸国も、中共政府が一党独裁の本質を露はにした流血事件を目の当たりにして、対中制裁に踏み切ることになる。これにより、中国に対する海外からの資金援助や投資などは全面的に停止された。

 日本政府は、昭和63年(1988年)に竹下首相が訪中した際、第三次円借款(90―95年度、総額8100億円)の供与を約束してゐたが、これを凍結した。

 海外からの資金流入が途絶えてしまつたら、中国の経済は成り立たない。経済封鎖された中共政府が、経済封鎖を打開する突破口として目をつけたのが日本だつた。

 天安門事件当時の日本の政局は、混乱の極にあつた。事件二日前の6月2日、竹下首相がリクルート疑惑などで退陣、後継の宇野首相も参院選敗北で69日の超短命政権にをはり、海部政権に引き継がれるといふ慌しさだつた。政権づくりに忙しい自民党幹部たちにとつて天安門事件などまるで関心がなかつたといつていい。

 天安門事件から一カ月後の7月はじめ、中共政府は北京に駐外大使を集め会議を開いた。

 そこで共産党指導部が駐外大使に指示したのは、
  「我が国への経済制裁に大しては、矛盾を利用して、より多くの工作を行ふ。」
  「対外工作の中心となるのは日本である。まず日本に経済制裁を取り消させ、徐々に他国にも広げてゆく。日本工作を重視せよ。」
 といふ方針であつた。

 当時、中共政府の外相をつとめてゐた銭其琛は回顧録の中で、
「日本は西側の対中制裁の連合戦線のもつとも弱い輪であり、中国が西側の制裁を打破する際におのずとよい突破口になつた」
 と当時を振り返つてゐる。

 外務省のチャイナスクールを形成する幹部たちは、天安門事件を共産党独裁国家による人権弾圧ととらへた欧米諸国とは異なつて、天安門事件を単に中国の内政問題と考へてゐた。中国政府が日本政府を御しやすしとみたのも無理はない。
 
 中共政府は、竹下登が退陣後も隠然とした力を保持してゐるのに気がつき、竹下派(経世会)幹部に対する篭絡作戦を集中的に展開した。

 これが功を奏して、日本政府は平成2年(1990)11月、円借款の凍結解除を正式決定する。

 中共政府は、対中経済制裁を解除させる第一作戦に成功した。

 次の作戦目標は、天皇の訪中に定められた。

 銭其琛は書いてゐる。

 「天皇訪中が実現すれば、西側各国が科した中国指導者との交流禁止令を打破できることになる。」

 中共政府は天安門事件が起きる前から、日本政府に対して天皇の訪中を働きかけてゐた。円借款の凍結解除に成功した後、今度は天皇訪中を対中封鎖全面解除に向けた最大戦略と位置付けて、天皇訪中工作を猛然と繰り広げることになるのだ。

 天皇訪中が実現すれば、対中封鎖解除に役立つのみならず、天皇から「謝罪とお詫び」の言葉を引き出すことができれば、歴史認識問題における勝利にもつながる。さらに、天安門事件後は日本国民の間にも反中国意識が広がつてゐたから、「天皇を取り込めば日本国民の心もつかめる」といふ計算もあつた。

 天皇訪中に対しては自民党内に強固に反対する勢力が存在した。天皇訪中に反対する大規模な集会が開催されたほど国民の間にも反対の声は強かつた。

 天皇訪中工作において、中共政府が攻略のターゲットにしたのが自民党副総裁の金丸信だつた。自民党のドンと呼ばれた金丸信は政界の最大実力者である。当時の宮澤政権を操つてゐたのは竹下派で、竹下派の親分が金丸信だつたから、金丸信は煮え切らない宮澤首相に「さつさと決断せよ」と迫り、天皇訪中を飲ませたのである。

 金丸信はもともと親台湾派だつたが、中共側は天安門事件直後から金丸に接待攻勢をかけて「そろそろ北京に行きませんか」とささやき、平成2年(1990)8月に金丸の北京訪問を実現させた。北京では楊尚昆国家主席、江沢民国家主席、楊尚昆国家主席、李鵬首相がそろつて会談に臨んで金丸を持ち上げた。

 訪中した翌月、金丸信は日本社会党の田辺誠らと訪朝団を結成し、団長として北朝鮮を訪問した。金日成は訪朝団を平壌のスタジアムに招待し、数千人が参加するマスゲームを見せて金丸を感激させる。金日成は金丸を二人だけの会談に引きずり込み、北朝鮮側の通訳だけを入れた会談で、金丸から日朝交渉での日本側の賠償の言質をとつたとされる。これ以降、北朝鮮側はこの時の金丸発言を賠償請求の根拠とすることになるが、日本側にはなんの記録も残つてゐない。金日成は、マスゲーム程度の歓待で舞ひ上がつてしまふ「自民党のドン」の性格を見抜いてゐたのである。

 平成4年(1992年)10月23日、天皇は皇后ともに中国を訪れた。

 この日の夜、北京の人民大会堂において歓迎晩餐会が開かれ、天皇のお言葉が語られた。

 これより6年後の平成10年、中国国家主席の江沢民が訪日した。中国元首としては初めての訪日であつた。

 江沢民は天皇主催の宮中晩餐会でスピーチした。

 「不幸なことに近代の歴史上、日本軍国主義は中国をはじめとしアジア諸国の人民に巨大な災害をもたらした。われわれは痛ましい歴史の教訓を永遠にくみとらなければならない。」

 外交儀礼に反するどころか、日本敵視あらはな江沢民のスピーチは参列者たち(天皇を含め)を凍りつかせた。
 宮中晩餐会に先立つて行はれた日中首脳会談でも、江沢民は小渕首相に対し、まくしたてた。

 「日本軍国主義は何度も中国人民に深刻な済南をもたらす侵略戦争を引き起こした。」 

「日本の閣僚は靖国神社に参拝して歴史を歪曲し、日本の右翼勢力は日本軍国主義が起こした南京大虐殺を否定するデマを流してゐる。」
 
「中日間の歴史問題をめぐる紛争は、日本側の一部勢力が挑発したものだ。」

 中国国内で反日教育や抗日施設の建設など反日政策を大々的に推し進めたのが江沢民政権である。江沢民の反日政策は以後の政権に引き継がれ、今の習近平政権に至つてゐる。

 習近平の国賓としての来日は延期になつたものの、習近平は国賓として訪日を諦めてゐない筈である。コロナウィルス禍の元凶としてアメリカはじめ世界中から指弾されてゐる今、日本の国賓として迎へられ、天皇とともに宮中晩餐会に臨むことの絶大な政治的効果を一番弁へてゐるのは習近平に相違ない。


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■「殺せ、もつと殺せ!」―毛沢東「大殺戮」の軌跡(3)




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   ▼一年間に380万人を処刑した「反革命鎮圧」運動





毛沢東が「反革命鎮圧」運動に本格的に乗り出したのは1950年10月のことだつた。

 この年の6月25日、北朝鮮軍が南進して朝鮮戦争が勃発。毛沢東は10月25日に人民義勇軍を投入し、朝鮮戦争に参戦した。

 闘争至上主義の毛沢東にとつては、反革命勢力の鎮圧も戦争も同じものだつた。目標は敵を殲滅することのみなのだ。

中共政府は1950年10月10日、反革命懲治令を出し、全土で反革命分子狩りが大々的に展開された。

 農村部では地主を殺し、都市部では反革命分子を殺す―これが毛沢東の清算闘争の基本的な考へ方だつた。

 中国全土で、反革命のレッテルを張つた人物とその「走狗分子」の逮捕と処刑の嵐が吹き荒れた。

 北京、天津、青島、上海、南京、広州、武漢、重慶などの都市では、数万人収容のスタジアムや体育館で、反革命闘争大会が開催された。

 会場には赤旗が林立し、「反革命分子を殺し尽くせ!」といふスローガンが怒涛のやうに叫ばれた。「反革命〇〇」と書かれた白布を首からかけられた者たちをひざまづかせて、罪状を読み上げ、死刑を宣告する。大会場では死刑の宣告者が数百人になることもあつた。

 闘争大会のセレモニーが終はると、かれらは上半身裸でトラックに詰め込まれ、沿道の群衆の罵声を浴びながら刑場へと運ばれる。刑場にも群衆が集められ、群衆たちは銃声が轟くたびに拍手と歓声を浴びせた。

 この頃、上海の共産党委員会は、「反革命分子を1500人殺害する」といふ処刑計画書を党中央に提出した。これを見た毛沢東は「1500人は少なすぎる。もつと殺すべきである」と指示を出した。
 
 毛主席の指示に慌てた上海市党委員会は、党員、軍事警察、労働者などで3万5000人の逮捕部隊をつくり、ある日、8300人を一斉逮捕した。このやうにして上海では、一年間に2万5000人以上を逮捕、その一割にあたる2500人を処刑して、毛沢東の期待に応へた。

 毛沢東は、広東省のある地区の党委員会に電報を送つた。
「反革命分子3700人を殺したことは素晴らしい。あと3000人乃至4000人を殺すともつと良いだらう。」

 湖北省の党委員会が中央の公安部に、「2万人を逮捕した」といふ報告書を送つた。この報告書の中に、「幹部の間ではパニックと大混乱が起きてゐる」といふ文言があつた。これを読んだ毛沢東は公安部長の羅瑞卿を呼びつけ、「このやうな報告は見たくない」と叱り飛ばした。
 (羅瑞卿はのちに文化大革命で毛沢東によつて粛清され、飛び降り自殺を図つた。両足を骨折したみじめな姿で糾弾集会に引き出され、獄中で悶死した。)

 毛沢東は、各地区から上がつてくる反革命分子殺害計画を細かくチェックし、目標数値を上げるやう命じた。

 この結果、全国の党委員会は、「処刑目標人数を〇〇〇〇人に引き上げました」「目標の〇〇〇〇人を達成いたしました」との報告書を競つて党中央にあげた。地方の党幹部たちは、最後は目標数値を達成するために、反革命分子だらうが何だらうが、手当たり次第に捕へ、処刑した。

 ある地区では、数十人の人名リストがあつたので、その全員を逮捕して処刑したところ、そのリストは「反革命」とはまつたく関係のないことがあとから分かつた。もともと反革命分子の選定基準などあつてないやうなものだから、同じことだつた。
 
 「反革命鎮圧」運動でどれほどの人間が殺されたのであらうか?

 ある調査は、1950年10月からの一年間に、「反革命鎮圧」運動で処刑された人間の数を380万人と推定してゐる。

 この間に逮捕・投獄・迫害された人間の数は数千万人にのぼる筈である。


     (続く)

■「殺せ、もつと殺せ!」―毛沢東「大殺戮」の軌跡(2)




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    ▼「両牛分屍」「自掘墳墓」による農民処刑
     「土地改革」清算闘争の大屠殺




 毛沢東が1949年に権力を掌握していち早く着手したのが「清算闘争」だつた。

 清算闘争とは、共産党支配に反抗する者を除去するための運動である。

 土地改革、反革命鎮圧、抗米援朝、三反五反、思想改造、反革命粛清、反右派整風などの名を冠せられたこれら運動のは、国共内戦時代から支配地ではすでに行はれてゐた。

 中華人民共和国は法治国家ではない。「運動」を法令に代行させるのだ。これが毛沢東のやり方だつた。、

 法令に拠るのではなく、群衆を利用して共産支配の反対勢力、反抗的な者を除去する。それが清算闘争である。

 「土地改革」と名づけられた清算闘争とはどのやうなものだつたか。

 共産党による農民向けプロパガンダは次のやうなものだつた。

《 農村人口の1割に満たない地主と富農が、8割の土地を所有して、人口の9割を占める貧農を搾取してゐる。これら特権階級は取り除かれなければならない。》
 
 実際には、中国にはヨーロッパのやうな封建土地貴族はをらず、ロシアのやうに土地に縛られた農奴もゐなかつた。しかし共産党は農民たちを、適当な理由をつけて、富農、中農、雇農、貧農などの「階級成分」に区分した。

 そして、地主たちを 「訴苦大会」といふ名の闘争集会に引きずり出して、虐殺したのである。

 「土地改革」清算闘争は、満州を皮切りに始まつた。

 共産党が大屠殺の手先として利用したのは、土匪、乞食、アヘン常習者らの反社会的分子である。

 共産党が郷村に入ると、真つ先にこれら反社会的分子を「基本群衆」に組織した。

 共産党が農民たちを集めて「訴苦大会」を開催する。地主らを壇上に並ばせて、まず「基本群衆」が共産党幹部に教へられた通りに、この地主たちがどんなひどいことをしたかを話す。そして他の「基本群衆」に、「殺せ、殺せ」と叫ばせるのだ。

 どの郷村でも、毎晩のやうに「訴苦大会」が開催された。

 地主たちは、文化大革命時にみられたやうに、紙製の高い帽子をかぶらせられ、胸には「悪覇同地主〇〇」と書かれた布が下げられた。

 「訴苦大会」に不可欠なのは、「群衆らを発狂せしめる」ことである。共産党は群衆の熱狂度を高めるために、地主たちを他地区の集会に引き出す方法を思ひついた。農民たちが見知つた地主だと同情心が起きてしまふ。見知らぬ地主だと憎悪心を煽りたてやすいといふ計算である。

 このやうにして大屠殺はエスカレートしていつた。

 地主の罪状を並べたてると、「基本群衆」が「銃殺」「銃殺」と連呼する。「大会主席」が、「人民の合意によつて銃殺に処する」と宣告する。土改隊員たちはただちに地主たちを会場の外に引きずり出し、穴の前で銃殺する、

 満州のある郷村では、「望郷台」で処刑する提案がなされた。地主を高い樹木に吊るしあげ、この男が「搾取」してきた郷村をながめさせてから殺す、といふアイデアである。しばらく吊るしてから縄をゆるめ、地上に落下させる。一度で死なない場合は、死ぬまで何回も落とした。

 地主の両足を二頭の牛・馬に縛りつけ、反対方面に走らせる股裂きの刑もよく行はれた。このやりかたは「両牛分屍」と称された。

 ある闘争会では、地主を馬の尾に縛りつけて。死ぬまで馬を走らせた。

 ある闘争会では、懐妊してゐる女地主を仰向けに寝かせ、亭主に腹を踏ませて殺した。

 「自掘墳墓」というのもあつた。地主たちに穴を掘らせてから、その中に突き落とすのである。

 「冷蔵」と称された方法は、地主を半殺しにした上で、雪の中に埋めて凍死させるといふものだつた。

 「訴苦大会」による虐殺をからうじて免れた地主たちも、一切を奪はれた。かれらは、乞食になるか、自殺した。

 「放手群衆」「加強領導」のスローガンが満州を荒れ狂ひ、満州は阿鼻叫喚の大地と化した。

 「土地改革」清算闘争は満州から中国全土に広がり、その犠牲者は全土で少なくとも300万人と見積もられてゐる。
  
 毛沢東が「人民公社」といふ名の農民収奪組織をつくる前の時代の話である。




   (続)
 

■ 「殺せ、もつと殺せ!」―毛沢東「大殺戮」の軌跡




     毛沢東
    


    ▼「殺せ、もつと殺せ!」―人類最大の虐殺者としての毛沢東




 世界の共産党支配の実態を克明に分析した『共産主義黒書』によると、20世紀に共産主義政権により抹殺された犠牲者(死者)の数は次のやうになる。

 中国      死者6500万人
 ソ連      死者2000万人
 北朝鮮     死者 200万人
 カンボジア   死者 200万人
 ベトナム    死者 100万人
 アフガニスタン 死者 150万人
 東欧諸国    死者 100万人
 アフリカ諸国  死者 170万人

 この数字は、処刑、死刑、強制収容所での死、強制労働による死、飢餓による死などを含む総計であるが、1億人近い死者の半分以上を中国が占めてゐることが分かる。

 国内を収容所群島化したスターリン治下のソ連の死者が2000万人であるが、毛沢東中国の死者はソ連の3倍以上といふことになる。

 『共産主義黒書』の原著が出版されたのは1997年だが、中国における死者6500万人といふ数字も今ではかなり過少な数字のやうな気がする。

 毛沢東の中国における死者は、文化大革命の死者が2000万人。これは毛沢東死後に中国共産党が公式に認めた数字である。

 文化大革命時をはるかに上回る死者を出したのが、大躍進(1958―62年)時代の大飢餓と虐殺による犠牲者である。その数は2000万人―3000万人といはれてきたものの、その後大飢餓時代の研究が進み、最近では4500万人といふのが定説になつてゐる。

 文化大革命時代の死者が2000万人、大飢餓時代の死者が4500万人となると、これだけでも6500万人になつてしまふ。

 1949年の中華人民共和国成立以来、毛沢東は、農業集団化、社会主義改造運動、百花斉放運動、反右派闘争などを繰り広げ、その度に反対派を投獄、処刑、虐殺してきて、その時代の犠牲者だけでも数百万を数へる。

 毛沢東は1930年代に共産党の実験を握つた後、粛清につぐ粛清、虐殺につぐ虐殺を重ねてきたから、政権をとる以前の毛沢東に殺された犠牲者の数だけでも膨大なものになる。

 毛沢東はその生涯に一体どれほどの人間を殺したのか?

 ヒトラーやスターリンが及びもつかない数の人間を殺したことだけは間違ひはない。

 「殺せ、もつと殺せ!」

 これが生涯を通じての毛沢東のモットーだつた。

 毛沢東は暴力と残虐の礼賛者だつた。

 『真説 毛沢東』の著者ユン・チアンは、「暴力への嗜好は毛沢東の性質から生じたもの」であると分析してゐる。

 革命の初期、毛沢東は残虐行為を見聞すると、「かつてない爽快さを覚える」と打ち震えた。

 暴力と残虐によつて恐怖を植え付けることが人民支配の手つ取り早い方法であることを毛沢東は知つてゐた。

 農民の煽動活動を指導してゐた頃、毛沢東は、「農村では、どの村でも恐怖現象をつくりださなければならない」と語つた。

 革命時に党内抗争が激化したころ、毛沢東は反対派にAB団(アンチ・ボルシェビキ)のレッテルを張つて殺しまくり、「すべての県、すべての地区でAB団を大量に殺戮せよ」と命じた。

 政権をとつた後でも、毛沢東の虐殺嗜好性癖は抑制されるどころが一層過激に発揮された。

 人民共和国成立後ほどなく、毛沢東は全党に向けてこんな指令を発した。

「農村では人口の千分の一を殺し、都市では1千分の〇・五を殺すのがよい」

 大躍進時代の初期、大量飢餓死の報告を聞いても、毛沢東は平然と言ひ放つた。

 「死は結構なことだ。土地が肥える」

 この頃、党大会ではこんな発言もした。

 「世界大戦などと言つて大騒ぎすることはない。人が死ぬだけだ。人口の半分が殲滅されるといふ程度のことは中国の歴史では何度も起こつてゐる。人口の半分が残れば最善であり、三分の一が残れば次善である。」

 毛沢東にとつて、人民が100万人死ぬのは、ネズミが100万匹死ぬのと変はりはなかつた。

 毛沢東と殺戮といへば、日中戦争時、日本軍が南京に入城した際、毛沢東はこんな意見を披瀝してゐる。

 「日本軍は戦術的に間違ひを犯した。城内で殲滅すべきだつたのだ。」

 軍民問はず城内のすべての人間が殺されたといふ「南京大虐殺」の話は、国民党軍のプロパガンダだつた。毛沢東はそれをよく知つてゐたのである。
(戦後、中共政府が南京大虐殺の数字を誇大に宣伝し始めたのは、毛沢東死後、江沢民政権になつてからである。)
 
 話が逸れた。

 革命時代、中国共産党はスターリンから資金と指導を受けてゐた。テロル、粛清、洗脳、強制収容所といつた弾圧手法の多くを毛沢東はスターリンから学んだが、毛沢東が独自に編み出したものも少なくなかつた。

 強制収容所の種類、洗脳の手法、拷問方法などは、ソ連にはみられない多様なものが考案された。

 大飢餓時代、食糧を全部出せと農民を拷問することが日常化してゐたが、人民公社の党役人たちには、新たな拷問方法を考へることが奨励された。かれらは「俺は70考へた」「俺は150」と自慢しては、それを農民に試して死に追ひやつてゐたのである。

 大飢餓時代の人肉食の記録はおびただしく存在するが、毛沢東支配を通じて、共産軍の兵士や役人が虐殺した人間の腹を断ち割つて、内臓を分けて食べたなどといふ話も珍しくはない。

 毛沢東の時代は、人間の残虐性の底知れぬ怖さを我々に教へてくれる。

 中華人民共和国をつくりあげたのは毛沢東である。

 毛沢東が分からなければ天安門虐殺事件は理解できない。

 毛沢東が分からなければチベット弾圧は理解できない。

 毛沢東が分からなければ習近平の中国も理解できない。

 そして毛沢東を理解するためには、毛沢東による大殺戮の歴史を知らなければならないのである。


      (続く)

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Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト・評論家。皇室問題やフェミニズム問題に取り組む。三島由紀夫研究家。國語問題研究家。


フェミニズム論の著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

皇室関連の著作としては『天皇を喰ひ物にした侍従長』『天皇と宮内庁の「背信」』など。

執筆には正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を使用、当ブログも正仮名遣ひを用ゐる。

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