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『入江相政日記』を讀む―君側の奸の宮中処世術研究―(第二回)

●学習院教授から侍従に転身


 入江相政(すけまさ)は明治三十八六月二十九日、子爵入江為守の三男として東京・麻生に生まれた。母信子は伯爵柳原前光の長女で、前光の異母妹の愛子(なるこ)は大正天皇の生母である。昭和天皇には祖母にあたる。つまり、入江相政は昭和天皇と、はとこの関係といふことになる。

 父の入江為守は明治元年、冷泉家の冷泉為理(ためただ)の次男として京都に生まれ、冷泉家分家の入江家に養子となる。養父の入江為福(ためとみ)も柳原家から養子に入つた人で、柳原前光のいとこにあたる。

 冷泉家については、入江相政自身の説明を引用しよう。(『いくたびの春 宮廷五十年』)

《冷泉家は、藤原道長の六男の長家を元祖とする御子左家で、遠祖には、俊成、定家、為家というような歌人を出した関係もあって、歌を歌学とする大納言家で、代々歌の道で、皇室に仕えていた。》

 京都の冷泉家本家には、藤原定家自筆の「明月記」をはじめ、国宝、重文級の典籍二万点が所蔵されてきた。これらの典籍は八百年もの間勅禁とされ、入江家の御文庫には、当主とその長男しか入ることを許されず、相政の父為守(三男)も中には入れてもらへなかつたといふ。

 為守は貴族院議員を経て、東宮侍従長として皇太子(昭和天皇)に、のち皇太后大夫として貞明皇后につかへる。

 学習院初等科・中等科・高等科に学んだ相政は大正十五年、東京帝国大学文学部国文学科に入学(当時学習院に大学はなかつた)、大学では古典文学渉猟に明け暮れる。一時は大学に残つて文学研究の生活を送ることも考へたが、母校の学習院から「卒業したら来ないか」と声がかかり、昭和四年、卒業と同時に学習院の講師となる。 昭和八年に学習院の教授に昇格するが、翌年、学習院から「侍従になれといふ話がある」と聞かされる。

《私はもともと、一生、楽しんで、のどかに好きな本を読んで暮らそうと思って、文学部へ行った。・・・・・今になって、種類も性質も全く異なった職場へ移るうというのはどうだろうか》(前掲書)と迷つた末、父親に相談すると、「お前のいいと思うようにしろ」といはれる。結局、入江はこの話を受け入れ、昭和九年十月、宮内省侍従職侍従の身分となり、その後半世紀に及ぶ侍従人生をスタートさせる。

 宮内省入りしてまもなく入江は日記をつけ始め、刊行された『入江相政日記』(平成二年、朝日新聞社)は昭和十年一月一日の日記から始まる。

 
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『入江相政日記』を讀む―君側の奸の宮中処世術研究―(第一回)

 今の若い人は知らないと思ふけれど、過ぎし昭和の御代、天皇の行幸があつて新聞などに行幸の写真が掲載されると、必ずといつていいほど天皇の背後に怪僧のやうな風貌をした人物がぬつと立つてゐたものである。大きな鼻を持ち、顔を体も天皇よりひと回りもふた回りも大きくて、天皇の従者のなかでもひときわ目を引いたこの人物が入江相政なのだつた。

 入江相政は侍従、侍従長として天皇につかへること五十年。天皇と宮中にまつはる文章を書きまくり、出版した本が二十余冊。「天皇の語り部」を持つて任じ、昭和天皇の側近中の側近として国民に知られてゐた。

 例へば、入江が侍従長在職中に出版された岸田英夫著『侍従長の昭和史』(昭和五十七年、朝日新聞社刊)の次のやうな記述などは、当時の入江に対する国民の一般的な見方をよく示してゐる。

《「天皇の弁当を食べた話」「泳いでいて天皇を蹴とばした話」・・・など、たしかに、入江のエッセーから浮かび上がってくる「人間天皇」は、これまでの「聖徳謹話」とはひと味違ったものだった。(略)多くの人びとは、入江によって天皇のこと、宮中のことを知った。その意味で、入江が天皇の語り部として果たした役割は大きい。》

《侍従長は天皇の側近として常に「黒衣」でなければならぬ、という従来のイメージから大きくはみ出して檜舞台に立つ主役(スター)になった。》
 
 朝日新聞記者として入江に接した岸田は、《君臣水魚の交わり》といふ周囲の声も紹介し、《皇室と国民を結びつけるうえで貴重な存在》《(天皇が)くつろいで過ごせる“風の如き”入江》とこの侍従長に最大級の賛辞を惜しまない。

 岸田が書いてゐる「泳いでいて天皇を蹴とばした話」といふのは、入江の処女随筆集『侍従とパイプ』に収録されてゐるエッセー(お上を蹴った話)で、葉山の御用邸の前の海でもぐつて遊んでゐた時の逸話である。

《岩の根を観察しながら少し向きをかえようとして左足を強く蹴った。すると何か弾力のあるようなものにひどくあたった。もちろん岩ではないし、またその辺にそんな大きな魚がいるはずもない。おかしいと思って浮いたら、そのあたりに泳いでいる人はだれもいなくて、お上だけしかいらっしゃらない。/「今蹴ったんじゃあございませんでしょうか?」ときまりきったようなことをうかがったら、「うん」とおっしゃった。「これはどうも」ということになったのだけれど、泳いでいる時なので頭を下げるわけにもいかない。/陛下の蹴られ損ということになっておしまいになったが、水中のこととてたいしてお痛くはなかったろうと、これはただ私が考えているだけのことである。》

 実に他愛もない話なのだが、天皇を蹴つたなんてことを書いた記録は日本の歴史上存在しないから、このエピソードだけで一本のエッセーができあがつてしまふのである。たしかに、このやうなエッセーを読めば誰しもそこに《君臣水魚の交わり》の情景をみる。国民の目に天皇と入江の関係が《君臣水魚の交わり》としかうつらなかつたのも無理はない。しかし、国民は「天皇の語り部」のもうひとつの姿を知らなかつた。すなはち宮中の最高権力者としての姿を。

 私は「正論」の平成十八年十二月号に《入江相政と富田朝彦―“宮中のラスプーチン”に翻弄された宮内庁長官》といふレポートを寄稿した。その前に、「富田メモ」の問題を追及した《「富田メモ」はボスたちへの身びいきに満ちたメモワール》といふ文章を同誌の平成十八年十一月に書いたのだが、富田メモの問題を追つてゆくと、富田メモが侍従長入江相政の存在と密接に結びついてゐることに気がついた。そこで富田メモ問題の第二弾として《入江相政と富田朝彦》を書いたのである。

 警察官僚出身の富田朝彦が宮内庁入りした時、入江は侍従長として宮内庁の最高権力者として君臨してをり、宮内庁次長・長官の職にあつた富田は、終始入江の圧政に苦しめられた。しかし昭和六十年九月に入江が侍従長を退任(退任発表の三日後、正式退任の二日前に死去)したことで、富田は入江の圧政から解放された。「天皇の語り部は死んだ。これからは自分が天皇の語り部になる」と彼は決心し、それから天皇の発言を無茶苦茶にメモにとり始めた。天皇発言のメモ魔に変身した宮内庁長官の残したのが、あの判読不明の「富田メモ」にほかならない・・・・といふのが《入江相政と富田朝彦》の骨子である。(ついでに言へば、天皇発言メモを整理せずに判読不明のまま残したのは意図的にさうしたのであると私は推理した。)

 宮内庁長官の上に君臨した侍従長が、皇族方の非難をよそに、天皇の宮中祭祀への出御停止を独断で進めていつた―これが国民の知らない「天皇の語り部」のもう一面の姿である。

 このレポートを書いた時は、宮中祭祀廃絶と侍従長入江の関係を指摘するにとどまつたのだが、その後、日本史を天皇と権臣といふ関係から調べてみると、この入江といふ人物が国史上存在した権臣のあるタイプにそのままあてはまることに気がついた。天皇をあがめたてまつる忠臣のやうにみえながら、裏では天皇を徹底的に利用しようとした権臣のタイプ、天皇の権勢確立に尽くしてゐるやうにみえながら、その実、自分の権勢拡大を目的としてゐた権臣のタイプ。蘇我氏、藤原氏にいくらでもみられたこの権臣タイプの系列に連なる人物、入江相政はまさにこのやうな人物ではないのか?
 
 蘇我馬子や藤原摂関家などの権臣と比べると、昭和の侍従長はたしかに小物には違ひないが、この権臣が昭和のある時期、宮中を牛耳つて天皇をコントロールし、週刊誌天皇制を推し進め、三種の神器と宮中祭祀を憎悪し、宮中祭祀を廃絶一歩手前のところまで追ひ込んだのは事実なのだ。宮中祭祀をなさらない天皇、宮中祭祀と切り離された天皇は天皇ではない。

 この公家出身の側近が宮中祭祀を廃絶に追い込むために宮中でいかに立ち回つたか、金のためにいかに天皇を利用したか、さうした側面からもう一度『入江相政日記』を讀み直してみようといふのが、この《『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―》の狙ひにほかならない。

 天皇側近の残した日記類などの記録は、時の天皇の意思などを研究するために使はれることが多いが、本稿では『入江相政日記』を入江相政といふ人物そのものを研究する材料としてみてゆく。入江相政を天皇の忠臣を演じた人物としてとらへ直す、「君側の奸の宮中処世術研究」とはそのやうな意味である。







プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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