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『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第六回)


◆天皇とニクソンの会見(其の三)

 ●ニクソンショックに関する記述がない?『入江相政日記』●


 昭和天皇とニクソン大統領の会見が行はれた九月二十七日の入江日記には、前回紹介したアンカレッジにおけるセレモニーの説明の前に、次のやうな記述がみえる。

 昭和四十六年九月二十七日

《すばらしい天気。一年に何度といふやうなものである。(略)八時二十五分菊の間お立ち。現旧奉仕者多数お見立てのうちを八時三十五分御出門、途中大変な警戒。(略)東宮様お見立て。総理の御挨拶。お言葉もよかつた。九時三十五分離陸。ゆふべはよく寝たのでいい気持ちである。十時半より朝食。十一時二十分より五十五分まで福田外相奏上。この頃、朝来の記録をしつかりとる。》

 「十時半より朝食」といふ記述に注目されたい。朝七時に起床した天皇皇后は御所内での朝食を省略して、皇居であはただしくお見送り行事を済ませ羽田空港に向かつた。そして離陸して約一時間後に、天皇は機中で食事をされたのだ。天皇が行幸の前に朝食を抜いて、乗り物の中で食事をとるなど前代未聞のことだつた。

 本稿(第四回)に引いた八月七日の日記を、もう一度読んでみよう。

《長官が官長と予と残つたところで、アラスカへニクソンが迎へに来るといふこと報告、予はお上にとつては大変おとくなことだから是非実現させようといふ。その為に御出発が早まつても機中でお食事をすればいいと述べる。》

 「お上にとつては大変おとくなことだから是非実現させよう」「御出発が早まつても機中でお食事をすればいい」―この時の入江の発言がそのまま採用され、出発当日のスケジュールが全面的に組み直されたことが分かる。

 「十時半より朝食」といふ記述からは、「俺こそがこのスケジュールを決めたのだ。天皇と米大統領との会見を実現させたのは俺だ」といふ功名心が透けてみえる。(「朝来の記録」を「しつかり」とつたのはそのためだ)。総理大臣といへども(当時は佐藤栄作だつた)天皇に向かつて申し上げにくいだらう、「陛下の御予定にアメリカが割り込んで来たので、御出発を早めることになりました。ついては御所での朝食は抜きにして、お食事は飛行機に乗つてからお召し上がり下さい」とは。たしかに、侍従長だからこそ天皇にこんな無理を頼めたといへる。

 さてそれでは、入江侍従長は、天皇と大統領との会見を強硬なまでに要求してきたアメリカ側の思惑をどのやうに考へてゐたのだらうか? さう思つて、第一次ニクソンショック(訪中発表、七月十五日)と第二次ニクソンショック(金ドル交換停止、ドルショック、八月十五日)の『入江日記』の記述を探してみると、これがないのである。七月十五日も八月十五日も記事が抜けてゐる。

 入江は日記を毎日つけてゐたから、当然七月十五日と八月十五日の記事も存在してゐるはずだ。それが割愛されたのは取捨選択の結果である。記事の取捨選択の方針は入江の生前に朝日新聞側とかなり詰めてゐたから、七月十五日と八月十五日の記事の割愛にも入江の意向が反映されてゐるとみてよい。
 
 入江にとつて「不都合な真実」が含まれる記事は割愛され、そうでない記事は残された。さう考へても間違ひはないはずだ。あとで取り上げる皇族批判の記事などを残したのは、入江が皇族批判を「不都合な真実」とは考へてゐなかつたことを示してゐる。

 『入江日記』をよく読むと、入江にとつての「不都合な真実」にも二種類あるやうで、ひとつは、存在する記事自体が「不都合な真実」である場合、もうひとつは、記事が存在しないことが「不都合な真実」にあたる場合だ。つまり、その日に言及があつて然るべき事柄への言及が存在しないことが「不都合な真実」にあたつてしまふといふケースである。

 『入江日記』から七月十五日と八月十五日の記事が外されのはもしかすると、後者の「不都合の真実」によるものではないだらうか? つまり、七月十五日の記事にも、八月十五日の記事にも、ニクソンショックに関する記述がまつたく見当たらなかつたとしたら。天皇と米大統領の史上初めての会見が実現した歴史的な年だといふのに、会見を「実現」させた天皇側近の日記に「ニクソン訪中」の一言さへ存在しなかつたとすれば、読む人はどう受けとめるだらう?(ちなみに『入江日記』には、ニクソンショック翌日の七月十六日の記事は載つてゐて、妻の動静はじめ、さして重要とも思はれぬ内容が綿々とつづられてゐる。)

 これは十分ありうることである。この公家の末裔である侍従長の関心事は、天皇が欽仰を受けること、そして天皇の傍に侍立する自分も欽仰の余光を受けることにしかなかつた。文学関係以外の本などほとんど読んだこともなく、国際情勢などまるで関心の外。日本の頭越しの米中和解もアメリカの思惑も頭の片隅にさへなかつたと思はれる。

 国際情勢にはまつたく疎いこの侍従長が好んだものは、宮中政治だつた。七カ国訪欧が予定されてゐたこの年、彼は宮中における「魔女狩り」の問題で頭を一杯にしてゐた。

                (この項続く)


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『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第五回)

◆天皇とニクソンの会見(其の二)

 ニクソンの戦略
 天皇と会ふのは単なるジェスチャー


 天皇とニクソン大統領との会見が行はれた昭和四十六(1971)年、日本とアメリカの関係は冷え切つてゐた。米国が日本に繊維輪出の自主規制を迫つて日米繊維交渉が長期化する中、六月には沖縄返還協定が調印されたものの、七月にニクソンが訪中を発表し、八月には米ドルと金の交換を停止するといふニクソンのダブルショックが日本を襲ひ、その渦中に米側から提案されたのが天皇とニクソンとの会見であつた。

 米国の意図は明白だつた。大統領が首都ワシントンDCから5400キロも離れたアラスカの地まで赴き、天皇を最大級の厚遇をもつて出迎へる。このやうな「前例のない歓迎」で日本を喜ばせ、中国を訪問しても日本を見捨てないといふシグナルを送ること。

 ウオーターゲート事件で知られたやうに、当時ホワイトハウスにおける会話はすべて秘密録音されてゐたが、ニクソン大統領は七月末に大統領執務室でキッシンジャー補佐官らを前に次のやうに語つてゐる。

《 アンカレジに行き、 天皇と会ふ。 これは単なるジェスチャーである。》

《ヒロヒトだけれども、 私にとつて、 ここ (ワシントンDC)への訪問を約束するより、 アンカレッジ に行く方がよつぽどいい。 日本の公式訪問は面倒だし、 アンカレッジに行くことは厭はない。 それにはカリフォルニアから飛びたい。九月下旬にカリフォルニアにゐることに対する言ひ訳にもなる。少し飛べばアンカレッジだ。 この方法であれば、ここまで天皇を招待するよりは、 ずつとよいジェスチヤ―を示すことができる。》

 さらに大統領は、 アンカレッジで天皇と「昼食か夕食」を摂ることを提案し、 キッシンジャーは 「日本に対して、 とてつもないインパクトになるだらう」 と答へた。

 ハルドマン補佐官は「アンカレッジでは演奏隊や赤い絨毯、 報道陣や大きな拍手で天皇は歓迎される。テレビも大々的にとりあげるだらう」と天皇歓迎パフォーマンスの効果が絶大であることを予測した。

 ニクソンは回顧録の中で、七月十五日の訪中発表は《今世紀における最大級の外交的不意打ちのひとつ》だつたと自賛し、当時の日本の反応について次のやうに述べてゐる。

《日本が特にやっかいな問題を提起した。事前に通告を受けなかったことが不満だというのだった。しかし、われわれにとって、ほかの方法はなかった。こんどの計画全体を流産させかねない情報漏れの危険をおかし、他国には知らせずに、日本だけに知らせるというわけにはいかなかった。》
     (『ニクソン回顧録①栄光の日々』小学館)

 アメリカにとつて大切なのは翌年に控へたニクソン訪中の成功だつた。 アメリアは国連の中国代表権問題で台湾の代表権を維持するためには日本の支持を必要としてゐた。日本にヘソを曲げさせないためには、大統領が天皇をアンカレッジに出迎へることぐらゐなんでもないことだつた。

 米側は天皇のアンカレッジ滞在時間を長くするよう要求し、折衝の末、滞在は当初の一時間から二時間に延長された。そのために天皇の皇居出発時間も四十繰り上げられ、朝食は機中で摂ることになつた。

  昭和四十六年九月二十七日、 天皇皇后はエレメンドルフ空軍基地に降り立つ。 歓迎式典でニクソン大統領は「歴史的な会談は、将来にわたつて日米の偉大な両国民が太平洋地域および世界の全国民のための平和と繁栄を目ざして友好的に協力し合ふといふ決意を示すものであります」と挨拶した。天皇と大統領は空軍司令官公邸に移動し、通訳のみで会見した。(会見の内容は非公開)

 入江はこの日に日記に次のやうに記した。

《定時アンカレッジ空港。大統領は懸命にお上をおいたはりしてゐる。閲兵の後、別の台上にて大統領の挨拶、お上のお言葉。その後同車にて司令官公邸。写真の後、N氏と四十分間お話。・・・・・大統領は予に二十八年前の時あなたはゐたか、「ゐた」と言つたら、喜んで、あの時は副、今度は大統領で最高の喜びといつてゐた。》

 大統領が天皇を「懸命にお上をおいたはりしてゐる」と無邪気に感動してゐる天皇の側近。これこそがアメリカが期待した日本人の反応といへた。


                  (この項続く)
『入江相政日記』を讀む
―天皇側近の人間学的研究―(第四回)

◆天皇とニクソンの会見(其の一)

 ◎日本にとつて「迷惑千万」な会見がなぜ実現したのか?
 ◎宮内庁方針を決定したのは国際政治音痴の入江侍従長


 昭和天皇とニクソン大統領との会見がアラスカの地で行はれたのは今から四十二年前の昭和四十六年、三島由紀夫が自決した翌年のことだつた。

 外務省が三月八日付けで行つた外交文書の公開で、この時の昭和天皇とニクソン大統領との会見について、福田赳夫外相が「非常識な提案で、わが方としては迷惑千万である」と不快感をあらはにしてゐた事実が明らかになつた。

 世界を驚かせたニクソンの電撃的訪中発表から半月あまり、頭越し外交と不満をつのらせる日本への懐柔戦略として、アメリカは訪欧途次の天皇にニクソン大統領が会見することを計画した。そして日本側に天皇のスケジュール変更を執拗に迫つた。これに対して福田外相は、会談一週間前の牛場駐米大使宛の公電において憤懣やる方ない思ひを次のやうにぶちまけてゐる。

 《米側はアンカレッジが欧州諸国御訪問の途中のお立ち寄りにすぎないことを忘れたかの如き非常識な提案を行う有様で、わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい。
 本来は儀礼的行事である今回の御会見はTop4(天皇、皇后、ニクソン大統領夫妻)の御会談が主であるべき。これを写真撮影に終始させるような考え方はわが方としては到底受け入れられない。
 政治的会談ならば単独会談に続いて随員を加えての会談も考えられるが、今回の場合、随員は御挨拶以外には何らの役割を有しない。この部分にTop4よりも長い時間をかけることは、日本人に天皇陛下を政治会談に引込まんとしたとの印象を与えるのみで、米側にとつても決して望ましいことではない。》

 外務大臣が「非常識」で、「迷惑千万」と考へてゐたにもかかはらず、なぜ日本側はアメリカの要求を受け入れたのだらうか? それは、天皇の御意向が伝へられたからである。福田外相は八月十一日、牛場大使に次のやうな極秘電文を発してゐる。

《上聞に達したところ、大統領が多忙の日程を都合してアンカレッジまで出迎えの労をとることを申し出られた厚意を深く多とされ、喜んで同地でお会いになる旨、御沙汰があった。》

 この公電は、日本政府に会見受け入れを最終的に決断させたのは、天皇の「御沙汰」だつたことを示してゐる。天皇がニクソンに会ひたくないと言へば、日本政府は会見を拒否したことだらう。

 さて、それでは、天皇はなぜ大統領との会見を受け入れたのだらうか? 天皇が外国首脳との会見などの問題について御自分だけで判断を下すことはありえない。この疑問に答へてくれる資料は、今回の外交文書の中には見つからない。今のところ、この問題で一番参考になるのは『入江日記』の次の記述である。

 昭和四十六年八月七日。
《イギリスのリターンの招待客のこと。終り頃にみんな帰つたあと、長官が官長と予と残つたところで、アラスカへニクソンが迎へに来るといふこと報告、予はお上にとつては大変おとくなことだから是非実現させようといふ。その為に御出発が早まつても機中でお食事をすればいいと述べる。》

 天皇の政治利用といふことに敏感だつた宇佐美長官はこの時も、天皇とニクソン大統領との会見には内心乗り気でなかつたと言はれる。しかしこの席で宇佐美長官は自分の意見は何も口にしなかつた。結局、入江侍従長の意見がそのまま宮内庁の方針として採用されることになつたのだ。それは宮内庁の見解として天皇に上奏され、天皇はそれを「裁可」された。そして外務省は、天皇が大統領と会見するといふお言葉を「お沙汰」として承るといふ流れになる。

 先の日記から十日後の八月十七日の日記に入江はかう書いてゐる。

《・・・・・ニクソンがアンカレッジにお出迎へすることの本決まりを聞く。》

 つまり、外相さへ拒否したがつてゐたニクソンとの会見が、侍従長の鶴の一声で事実上受け入れが決まつたといふ裏事情が見えてくるのである。ここで重要なのは、天皇の「御沙汰」を決定づけたのは、宮内庁長官ではなく侍従長の意見だつたといふことだ。この侍従長は救ひやうのない国際政治音痴だつた。

                 (この項続く)

『入江相政日記』を讀む
 ―君側の奸の宮中処世術研究―(第三回)

◆権力志向、皇室伝統改廃、蓄財についての弁明



『入江相政日記』は平成二年五月に朝日新聞社から刊行された。全六巻。侍従に就任して二ヶ月後の昭和十年一月一日の記事からはじまつて、死の前日の昭和六十年九月二十八日の記事で終はつてゐる。

 昭和六十年九月二十八日(土)
《暁方二時のを寝過ごして三時になつてから薬のむ。熱は高くても七度止り。気分もよくなり、腹も空くやうになつた。朝軽く一膳。ゆうべから今朝にかけて一杯の電話、応接に遑なし。》

 その二日前の九月二十六日に退任の記者会見をしたばかりなので、電話がひつきりなにしにかかつてきて「応接に遑なし」といふ状態が続いた。

 ところが翌二十九日に入江は急死する。寝室のベッドで意識不明になつてゐるのに家人が気づき、病院に搬送するも息をひきとつた。満八十歳。

 自殺説など死因については当時さまざまに取りざたされたが、そのことは本稿の最後にまた触れることにしよう。

 日記の出版については、死の七年ほど前に朝日新聞社との間で、天皇崩御のあとに朝日新聞社から刊行することでほぼ合意してゐる。

 昭和五十三年九月十八日の日記。

《六時迄ゆつくり相撲を楽しんで六時に出て吉兆。朝日の秦正流、一柳編集局長、中村出版部長、それに伊藤、岸田。久々で吉兆は何ともいへずおいしかつた。少し話し込んで九時半辞去。送られて帰宅。》

 吉兆で朝日新聞による接待。入江の日記の発行元がなぜ朝日新聞社なのかといふと、宮内記者会に長く在籍してゐた朝日の岸田英夫が入江日記の存在に気がついて、社をあげて入江に刊行を働きかけたからである。

 半世紀に及ぶ日記は膨大な量に及び、朝日新聞側が内容を取捨選択して六巻にまとめたのが『入江相政日記』である。朝日新聞は入江に日記の抜き書きを依頼したものの、入江はこの作業に音をあげ中途で放棄した。

 日記を毎日つけてゐたとされるが、刊行本では一ヶ月の日記のうち、五、六日程度しかない月も珍しくない。ざつとみたところ、『入江日記』に収録されてゐるのは原本の三分の一以下ではないだらうか。基本的に入江や遺族にとつて都合の悪い記述は割愛されたと考へるのが自然だらう。皇族に対するあけすけな悪口も、入江にとつてマイナスにならないと判断したからこそ公開したと思はれる。これは『入江日記』を讀む際、一番留意すべき点である。

 『入江日記』を監修した入江の長男為年は、第一巻に「父の日記」といふ文章を寄せてゐる。

《「入江は陛下のことを書きすぎる」「仲間扱いして不遜だ」と非難した人もあった。父は「恐れ多い、勿体ない、だけでは国民の方々の天皇陛下への理解は得られない。米搗飛蝗(コメツキバッタ)でよいのなら、こんな楽なことはない。非難するだけなら子供でもできる」と憤慨していた。》

《父はこうもいった。「侍従長になろうとか、なりたい、とか思ったことは一度もない。気がついたらそうなっていた、ということで、もし欲があったらこうはいかなかったろう・・・・」》

 これら入江の言葉にはどこまでも自己弁明の臭みがつきまとふ。ある時期から入江は日記を自己弁明のツールとして意識してゐたのではないかと思ふ。入江日記を権力志向、皇室伝統改廃、蓄財についての弁明といふ観点からながめてみるとなかなか興味深い事実が浮かびあがつてくるのだ。







プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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