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『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十八回)

◆魔女騒動(その十二)
 
 ●天皇をワナにはめた侍従長
  霊能者が丑の刻の詛ひ


 年が明けて昭和四十六年、天皇皇后がこの年の秋にヨーロッパを訪問する日程が固まりつつあつた。

 皇后は、この訪欧に女官今城誼子を同行したいと当然考へた。一方、侍従長入江は今度の訪欧を今城を葬り去る好機と考へた。今城の訪欧同行を阻止するともに、これを機に今城を退官させようといふ作戦を練つた。しかし、皇后がこれを簡単に受け入れるわけがない。そこで入江はある策略をめぐらした。この計画に天皇を利用することを思ひついたのである。この天皇攻略作戦にはあの霊能者後藤至良が深く関与し、次のやうな手順で実行に移された。

《後藤先生からの明治さまの御像の掛物を六畳の床にかける。出勤。》(二月二日)

《五時パレスホテル。江藤淳の出版記念会。あとあるいて帰る。おどん。小木曾夫妻。入浴。すぐ寝る。二時に後藤先生のお電話。》(二月四日)

《長官室へ行き打ち合はせの結果お召で御前に出る。こまごまとしたことが終つてから外国のお供のことに触れ魔女はどうもいけない、とかくおつれになるが今度を機会に段々お遠ざけにならないといけないと申し上げたら、その通りだと仰せになつた。お立派なもの。前々からおこまりになつてゐたものを思はれる。このこと長官に報告。》(二月十二日)

《二時頃名古屋の後藤先生から電話。昨日申上げのことなど言つたら喜んでいらつしやつた。》
》(二月十三日)

 日記の文面だけ読んでもさつぱり分からないと思ふ。この文面に隠されたものを読み解くにはある物語を知らねばならない。

 この頃、天皇が案じてゐたことのひとつに、皇后の不可解な行動のことがあつた。この皇后の行動について、元侍医の杉村昌雄は『天皇さまお脈拝見』(昭和五十七年)の中で、次のやうに記してゐる。

《皇后さまは〝信仰〟をお持ちでもある。
 一時期はことに熱心になされた。吹上御所の裏の方に、小さな祠がしつらえられていて、そこには〝明治天皇〟がおまつりしてあるのだと、聞いた。皇后さまは、毎朝、そこにお参りなさるのである。
 しもじもで、願かけするとき、他人と口をきいてはならぬ、口を開いたら、その場で願いはかなわなくなる、とよくいう。
 それと同じかどうか、皇后さまも、お参りの途中では、決して口をおききにならない。
 一度、あまりに早い時刻にお出かけになり、それを係りのものが気がついた。
「皇后さま、どちらに?」
 やはり、なにも聞えぬふうをなさって、そのままお行きになったそうである。
 雨の日も、風の日も、である。あるときなぞ、御所にお戻りになった時の御様子が、おみ足ははだしで、お顔は泥だらけ。お召しのものも、びしょびしょにぬれていらっしゃる。どこかで、お転びになったのだ。・・・・》
 
 かうした皇后の行動について皇室ジャーナリストの河原敏明が詳しいレポートを残してゐる(『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』『良子皇太后』)ので、それを紹介しよう。

 皇后はある時期、吹上御所裏手の寒香亭といふ東屋に、毎朝お詣りをされてゐた。天皇の顔面痙攣に心を痛めた皇后が、天皇の痙攣症の治癒を願ふあまり、ある新興宗教に傾斜を深めて、毎朝願掛けをされてゐたのであつた。

 その新興宗教を大真協会といふ。皇后を大真協会の信仰に引き入れたのは、皇后の姪の久邇正子である。亡兄久邇朝融(あさあきら)の長女が正子。昭和四十三年十一月、新宮殿の落成の後、皇后は久邇正子ら亡兄久邇朝融の六人の子を御所に招待した。その席で皇后は、天皇の顔面痙攣について心配してゐることを話した。これを聞いた正子は、自分の信仰する大真協会の霊示について皇后に詳しく説明した。

 大真協会は函館に本部があるミニ教団(神道系)で、会首である椿麗寿の暗示・神霊術を看板に信者を増やしてゐた。久邇正子は二十年来の信者で、婦人部次長をつとめてゐた。

 皇后はこの後、幾度か正子を御所に召し、大真協会について詳しく説明を受け、「よろしく頼みます」と正子に伝へた。たびたび召された正子は、北白川女官長には帰り際に睨むような目をされ、御所に上がりにくくなつた。しかし女官の松園英子も実は大真協会の信者だつたので、皇后は松園を介して指導を受けるやうになる。松園英子は久邇家の親戚筋にあたり、やはり正子が入信させてゐた。

 皇后は雨の日も風の日も毎朝、寒香亭に熱心に詣でられた。やがてこれに気づいた天皇が、「宮中には賢所があるから、わざわざお詣りする必要はない」と数度にわたつてたしなめた。しかし皇后は寒香亭参拝をやめようとはしなかつた。皇后からすれば大真協会のことも、ましてや願かけの目的も天皇に告白できるはずもない。天皇には、なにかに憑かれたやうに詣でる皇后の姿が不可解、かつ不気味に映つたにちがひない。

 丁度この頃、訪欧の計画が浮上したのである。入江にある計画がひらめいた。それは、「皇后の寒香亭参拝は魔女=今城の仕業である」と天皇に信じ込ませるといふ奸計である。

 以上のことを頭において、先の入江日記の記事を検証してみよう。

《後藤先生からの明治さまの御像の掛物を六畳の床にかける。出勤。》(二月二日)

《五時パレスホテル。江藤淳の出版記念会。あとあるいて帰る。おどん。小木曾夫妻。入浴。すぐ寝る。二時に後藤先生のお電話。》(二月四日)

《長官室へ行き打ち合はせの結果お召で御前に出る。こまごまとしたことが終つてから外国のお供のことに触れ魔女はどうもいけない、とかくおつれになるが今度を機会に段々お遠ざけにならないといけないと申し上げたら、その通りだと仰せになつた。お立派なもの。前々からおこまりになつてゐたものを思はれる。このこと長官に報告。》(二月十二日)

《二時頃名古屋の後藤先生から電話。昨日申上げのことなど言つたら喜んでいらつしやつた。》
》(二月十三日)

 巧妙な手品のナゾを解くカギは、「午前二時」「明治天皇御像」「おこまり」― という三つのキーワ―ドである。

 まづ入江が、教祖後藤から送られてきた明治天皇の御像の掛物を床に掛ける。皇后が詣でる寒香亭に祀られてゐるのが明治天皇の御像であることを想起されたい。つまり、今回のまじなひは皇后の寒香亭参拝に関係してゐる。

 その二日後、後藤から「おさとし」の電話を受ける。時刻は午前二時。このあと、天皇拝謁の翌十三日、後藤からの電話があつた時間も午前二時なのは偶然ではない。

 午前二時は丑の刻。丑の刻参りの時刻である。丑の刻参りとは、丑の刻(午前一時から午前三時)に、憎い相手に見立てた藁人形を神社の御神木に五寸釘で打ち込むといふ呪術である。誰かに呪ひを懸けるために、後藤はこの時刻を選んだのであらう。呪詛されたのは今城誼子か皇后か?

 さて、舞台装置を整へてから、入江は天皇拝謁に臨んだ。ここで入江は、後藤から教示されたことをしやべつたはずだが、もちろん日記には尻尾をつかませるやうなことは全部カット。日記には肝腎の話がすつぽり抜け落ちてゐる。皇后の寒香亭参拝のこと。そのことと今城の関係について。《前々からおこまりになつてゐたものを思はれる》といふのは、実は皇后の寒香亭参拝のことを指すのだ。

 要するに、入江=後藤連合軍は天皇に対して、皇后の寒香亭参拝を今城の仕業と思はせることに成功したのある。

 (この項続く)





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『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十六回)

◆魔女騒動(その十)
 
 ●三島由紀夫と入江相政


 昭和四十五年の日記の続き。

 新嘗祭から二日後の十一月二十五日、三島由紀夫事件が起きた。 

《三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乗り込み蹶起をうながして切腹。介錯で首をおとされたとの事。分からない事件である。一時四十分拝謁。一旦自室にかへつてゐたらお召し。新嘗祭について甘露寺さんが申上げたことをお気に遊ばしてのこと、併し大したことはない。》

 拝謁とあるのは三島事件に関してお召があつたものだらう。その後の新嘗祭云々は、明治神宮宮司の甘露寺受長が天皇に、新嘗祭について明治天皇の御製を引いて意見を申上げた。この御製を気にかけて入江を召したといふことらしい。明治天皇の御製とは次のなうなものだ。

 豊年の新嘗祭ことなくてつかふる今日ぞうれしかりける

 翌十一月二十六日。 

《長官の所へ行き物価高、高賃金についての進講者の適当なのを頼む。序に甘露寺さんが明治さまの新嘗をお上に申上げたことをいひ外の反響など適当に申上げてくれといふ。そのあとすぐ御前に出て御製は明治三十六年のものであることなど申上げすつかり御安心になる。三島由紀夫のことも仰せだつた。》

 翌日、新嘗祭改変に関する事後処理に追はれる。天皇は三島由紀夫についてまた何か仰せになつた。

 入江は三島由紀夫とは親交があつた。前年の五月一日には吉兆で三島由紀夫と会食してゐる。入江はこの日の日記に《三島由紀夫と大いに語つて楽しむ》と記した。三島自決の十二日前の十一月十三日、手紙の発信先の中に、三島由紀夫の名前が見られる。入江はこの年の二月には、三島の『春の雪』も読んでゐる。

 三島由紀夫は昭和四十一年一月、『豊穣の海』の取材で宮中三殿を見学してゐる。この時、三島と入江の間に何か接点があつたものか。確証ははない。この宮中三殿の見学とその折に会つた内掌典の話は、三島由紀夫の天皇観に小さくない影響を与へたといはれてゐる。例へば、三島は昭和四十二年十一月に行つた福田恆存との対談(『若きサムラヒのために』所収)で、次のやうな天皇論を披瀝してゐる。

《そこで、天皇とは何ぞや、といふことになるんです。ぼくは、工業化はよろしい。都市化、近代化はよろしい、その点はあくまで現実主義です。しかし、これで日本人は満足してゐるかといふと、どこかでフラストレイトしてゐるものがある。その根本が天皇に到達するといふ考へなんです。・・・・・・・ですから、近代化のずつと向うに天皇があるといふ考へですよ。・・・・・・その場合には、つまり天皇といふのは、国家のエゴイズム、國民のエゴイズムといふものの、一番反極のところにあるべきだ。さういふ意味で、天皇が尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく、「お祭」だ、といふことです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。》

 天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭―。この直截簡明な表現の中に明らかに宮中三殿を拝した体験が反映してゐる。

 さて、ここで三島由紀夫の天皇論を持ち出したのはほかでもない、三島由紀夫と入江相政といふ取りあはせが実にアイロニ―に満ちてゐるといふことを指摘したいからだ。三島由紀夫の天皇論は究極のところで宮中祭祀に行きついた。しかし三島が吉兆で肝胆相照らした天皇の側近が、その宮中祭祀を破壊する元凶だつたとしたら?

 入江は政治的には単純な反共で、たとへば全共闘や美濃部都知事の悪口だけを言つてゐれば、二人の間で話は弾んだはずだ。天皇の側近の前で天皇論をぶつほど三島は野暮な人間ではない。三島由紀夫も馬鹿話をして《大いに語つて楽し》んだのではないか。

 三島と会食した昭和四十四年五月、入江は侍従次長で、魔女騒動のまつただ中、祭祀破工作を本格化させてゐた頃である。

 入江の祭祀破壊工作が広く知られるやうになるのは昭和五十年代後半になつてからで、昭和四十年代半ばには「天皇の語り部」の化けの皮はまだはがれてゐなかつた。三島由紀夫は目の前の人物が、よもや祭祀破壊工作に手を染めてゐると知る由もない。

 宮中祭祀に天皇の本質を見た日本人と、宮中祭祀の破壊に情熱を注いだ日本人と。入江が宮中の最重要祭祀である新嘗祭の破壊を決行した二日後に三島が自決した。三島由紀夫と入江相政の関係ほどアイロニ―に満ちたものはない。

(この項続く)
『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十五回)

◆魔女騒動(その九)
 
 ●新嘗祭廃止の理由は侍従長の「脚の痛み」

 
 明けて昭和四十五年の日記。なぜか一月一日から六日の記事が抜けてゐる。

 一月七日、講書始。

《中程で大分おねむさうで心配したが無事に終つた。》

 この頃から、天皇が御進講などの最中に眠つたつたとか眠さうだつたといふ記述がやたらに登場する。これも祭祀廃絶計画にもとづく計算づくの記述で、天皇はお疲れだから居眠りが出る、だから祭祀の負担を軽減しなければならない―といふ論理が展開される。

《長官の拝謁が終はつてから皇后さまに拝謁。講書始の時におねむさうだつたことから十三日にまたあのやうなことがないやうそれには朝をお軽く遊ばしてなど申上げ予が申上げてまたお気に遊ばしてもいけないからと皇后さまにすべてお願ひする。》(一月九日)

 早速、《講書始の時におねむさうだつたこと》を皇后に伝へる。

 四月のある日、「天声おまかせ道場」の信者の集まりが入江の自宅で開かれた。もちろん教祖後藤至良も招かれる。

《十一時頃からボツボツ来られる。・・・お客は東京十二名、名古屋十三名計二十五名。でもすつかり食堂にはひる。酒盛り、有職の寿司。先生の天声。魔女七月頃から具合悪くなり始めるとのこと、・・・八時過皆大喜びで帰られる。大変だつたがよかつた。》(四月十二日)

 名古屋からも大挙して信者が押しかけてきて、自宅の食堂は信者で一杯になる。みんなで酒盛りをやつた後、メインイベントの教祖の「天声」。「天声おまかせ道場」では霊能者後藤の「おさとし」を「天声」とも呼ぶ。入江が教祖に尋ねたのはまたまた魔女=今城誼子のこと。《七月頃から具合悪くなり始める》といふ天声が示された。侍従長入江相政が霊界の住人であることがいよいよはつきりしてくる。

 この日の集まりでは信者からお金が集まつたらしく 、翌日、入江は銀行に行く。

《津田さん方の後藤先生に電話。昨日の御礼。九時に富士銀行。昨日の皆さんの浄財三万三千円を預金する。》

 祭祀をめぐる皇后との攻防は続く。

《十時過ぎに吹上で皇后さまがお召しとの事。何事かと思つて出たら旬祭はいつから年二回になつたか、やはり毎月の御拝が願はしい、何故かといふと日本の国がいろいろをかしいのでそれにはやはりお祭りをしつかり遊ばさないといけないとの事。貞明さまから御外遊まで洗ひざらひ申上げる。それでは仕方がないといふことになる。くだらない。》(五月三十日)

 旬祭の天皇拝礼を年二回(五月と十月)にしたことが皇后にバレ、《やはりお祭りをしつかり遊ばさないといけない》と叱責される。 昭和四十五年といへば、学園紛争の余燼がいまだ日本中にくすぶつてゐた頃で、皇后の《日本の国がいろいろをかしい》といふのはそれらの動きを指す。しかしゲバ騒乱などまるで外国の騒ぎにしかみえない入江にとつて、こんな話も馬耳東風。得意の「お上のため」論で反撃したら皇后もあきらめたと自慢げに記し、「くだらない」と吐きすてる。祭祀廃絶の情熱にとりつかれたこの男にとつては、皇后はただただ邪魔な存在でしかなかつた。

《皇后さまからは依然ゆりかへしなし。もう多分来ないだらう。・・・後藤先生にこの間からのことをお話したら何とすばらしかつたといつて喜んで下さる。それで一層安心した。》(六月五日)

 皇后とのやりとりを教祖様に逐一報告して、お褒めにあづかつたらしい。 

《この頃お口のパクパクずつと続いてゐた。》(七月七日)

《お口はまだおなほりにならない。》(七月二十日)

 このあたりから天皇の口元の痙攣についての記述が目立つてくる。
 
《永積さん来室。魔女を内掌典に入れたらといふ提案。これはすばらしいこと。》(十月五日)
 
 永積寅彦は掌典長。永積は祭祀をつかさどる掌典職のトップなのに、侍従長の祭祀廃絶計画のお片棒をかついでゐた人物。内掌典は宮中三殿に奉仕する采女で、大体二十代が多い。若い采女の中に還暦を超えた今城誼子を入れてやらうと掌典長と侍従長が謀議をこらす。

《七時前に出て羽田。先生の母儀のハワイ行き。先生を伴つて帰る。御外遊のこと、パクパクのことなど魔女のこともこめてうががひを立てる。皆予の考へてゐた通り。先生マッサージ。酒。》(十月八日)

「天声おまかせ道場」教祖の母親がハワイに出立する見送りに羽田まで行き、そのまま後藤を自宅に招いて「おさとし」。側近の侍従長が、「お上のお口パクパクの原因をおさとし願ひます」と霊能者におうががひをたててゐたことなど、天皇は知るよしもない。

《夕食の後徳川、杉村、冨家三君と魔女のことにつき話合ふ。》(十月十日)

 この年も新嘗祭が近づいてきて、侍従次長、侍医らと策動を始める。

《掌典長のところへ行き新嘗祭のことにつき相談する。》(十一月十三日)

《十時一寸過ぎから十一時前までお祭りのことにつき申上げる。結局、新嘗今年は夕だけ、来年から両方なし、四方拝は吹上、歳旦祭は御代拝といふ原案通りお許しを得る。》(十一月十六日)

《宮殿で拝謁。・・・そのあとお祭りを怠つて研究をして何とかいふ者はないかと仰せられるからそんなことは絶対になくお祭(お寒い時の)をおやめになることによつて御長命になり、国の為、世界の為に末永く御活躍いただくといふわけで今度のことは決して消極的なことではないと申上げる。よくお分かりいただき満足だつた。》(十一月十八日)

 入江日記を読むと、祭祀のサボタージュを入江が持ち出すと、天皇が誰かに批判されまいかと心配するといふパターンが多い。天皇に祭祀を何事にも優先させるといふ強い意志は見受けられない。その種の御言葉があつても意図的に排除したものか。しかし現実は入江の意図したやうに動いてゆくのだ。

《お召で吹上。新嘗のことだつた。・・・その後掌典長室で新嘗祭に出御のない場合のことにつき采女のことなど、明年以後のこと打合はせる。
》(十一月二十一日)

《夕の儀。脚は大して痛くなかつた。やはり夕の儀だけ。明年はなにもなしに願つてつくづくよかつた。》(十一月二十三日)

 新嘗祭当日の日記。《脚は大して痛くなかつた》―これが新嘗祭に対する入江の思ひのすべてを物語つてゐる。さう、問題は「脚の痛み」だつたのだ。

 外交官出身で、式部管長を経て、平成八年から平成十九年まで侍従長をつとめた渡邉充に『天皇家の執事―侍従長の十年半』といふ著書がある。この本の中に、新嘗祭における侍従長の役割について触れた一章があり、非常に参考になる。今上天皇は、入江が廃した「暁の儀」への出御も復活され、「夕(よい)の儀」とともに拝礼されてゐる。渡邉も侍従長としてこの古式にならつた新嘗祭に幾度となく臨んだ、その記録である。

《神嘉殿というのは、宮中三殿の西隣にある大きな建物で、ここでまず、二十三日の夕方六時から八時まで「夕(よい)の儀」が行われます。さらにその後、三時間おいて夜の十一時から翌二十四日の午前一時まで今度は「暁の儀」があります。つまり一晩に二回、二時間づつのお祭りがあるということです。陛下は、夕の儀と暁の儀の計四時間、正座されたままで、新穀などを神々にお供えになり、お告文を奏上され、ご拝礼になるとともに、ご自分も新穀を召し上がります。二時間も正座を続けるというのはよほど正座に慣れた人にとっても、難儀なことです。》

《侍従長は、新嘗祭以外の宮中祭祀のときは、御所から宮中三殿まで車に陪乗してお供しますが、陛下のご拝礼の間は宮中三殿の裏にある供待ち部屋でお待ちしています。しかし、新嘗祭だけは特別で、侍従長も装束に着替え、冠をかぶり、笏を持って神嘉殿までお供します。》

《神嘉殿では、陛下は一番奥の部屋に入られ、皇太子殿下が壁を一つ隔てた外側の西隔殿で正座しておられます。侍従長は、またその外側の廊下のようなところで、木の床に薄縁を敷いたところに二時間ずつ、母屋の方を向いてずっと正座していることになります。侍従長の左隣には東宮侍従長が二時間ずつ座り、その左隣には侍従と東宮侍従が一人ずつ、これは二十分交替で座っています。ところどころに燭の明かりがポッとついているだけで、侍従や掌典の白い装束がふわっと暗闇に浮かび上がるように見えます。》

《庭燎を焚く人たちは三十分ごとに交替します。私の左側で侍従と東宮侍従が交替するときに人の動く気配で「二十分たったな」、庭の方から庭燎の係りが交替する足音がすると「三十分たったな」といった具合に、時が経つのを感じます。足の痛さに耐え、しびれが来ないように少しずつ足の指を動かしたりすることに集中しているうちに時間が経っていきます。》

《二時間が経って、陛下がお帰りになるとき、廊下で平伏する渡し私たちの前をお通りになると、私はすぐにスッと立ち上がって陛下の後に続いて行かなくてはなりません。しかも、笏を持っていますので、立ち上がるときに床に手をついて体を支えるわけにもいきません。すぐ後には皇太子殿下が続かれます。これがうまくいくかどうか、私はいつも心配でした。正直なところ、二時間ずつの正座を二回続けるのは、大変に辛いことでした。陛下のお供であるということがなければ、とても続かなかったのではないかとさえ思います。》

 侍従長は、《木の床に薄縁を敷いたところ》に、二時間プラス二時間、計四時間、ただじつとして正座してゐなければならないのだ。

 渡邉は陛下に労はれたこともあるといふ。
 
《あるとき陛下が「侍従長は新嘗祭のときは大変だろうね」とねぎらってくださったことがあります。陛下ご自身は二時間の間に、お供え物をなさり、お告文を奏上され、拝礼をなさるから、多少体の動きがおありになるけれども、侍従長はただじっと座っているだけだからかえってつらいだろう、と思い遣ってくださったのです。》

 陛下に労らはれるほど大変な侍従長の役回り。入江が新嘗祭廃止工作を弄した意図も想像するに難くない。ただただ四時間の正座を回避したかつたのだ、自分が。

 《夕の儀。脚は大して痛くなかつた。やはり夕の儀だけ。明年はなにもなしに願つてつくづくよかつた。》

 ことしは夕の儀だけ、二時間だつたから正座も何とか堪えられた。《明年はなにもなし》―万歳!といふ述懐であることが分かると思ふ。

(この項続く)



















『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十三回)

◆魔女騒動(その七)
 
 ●賢所クーラー事件
  恨み骨髄の宮中祭祀

 入江は祭祀廃絶計画を着々と実行に移す。

《六月一日旬祭御代拝のお許しを得る。》(五月二十三日)

 旬祭は毎月、一日、十一日、二十一日に宮中三殿で行はれる祭祀で、天皇は一日は必ず拝礼されてゐたが、入江は一日の天皇拝礼をやめさせようと工作してゐた。とりあへず六月一日の拝礼をやめることを天皇に諒承させた。 

《一時十六分御発で皇后さま、光輪閣に行啓。女官長はじめての陪乗。魔女が陪席しなくていい気持である。》(六月六日)
 
 皇后の行啓で、陪乗者が新女官長の北白川祥子になり、今城誼子の姿が消えたといつて喜んでゐる。

《旬祭だけど御代拝なので呑気。》(七月一日)

 七月一日の旬祭も代拝にすることに成功してゐる。

《この時つくづく感じたのは魔女が見ちがへるやうに勢ひがなくなつたこと。女官長は普通だが原田さんや久保さんがのびのびしてきたこと。後藤先生のいはれたやうに段々なつてきたのかもしれない。》(七月九日)

 新女官長が任命されてから、女官今城誼子の勢ひがなくなつたといふ。霊能者後藤の「おさとし」が示したやうな具合になつてきたと喜んでゐる。

 さて、次に出てくるのが有名な「賢所クーラー事件」だ。

《賢所のクーラーの見透しがついたといふのでお上に申上げお許しを得る。小川さんに頼んで皇后さまに申上げてもらつたらとんでもないこと、賢所に釘を打ってはいけない、それ位のことにお堪へになれないお方ではない、などと仰有つた由。お気の毒さまだがおとりやめにする。》
(七月十四日)

 賢所、皇霊殿、神殿を宮中三殿といふが、宮中三殿は略称で、この三殿を総称して「賢所」ともいふ。ここに出てくる「賢所」は宮中三殿のことで、宮中三殿にクーラーをとりつけるなどとアホなことを考へた人間がゐたらしい。天皇か? まさか。宮中でこんなことを考へつくのは、入江相政くらゐしかゐない。賢所にクーラーをとりつけることについて、天皇の了解を得たものの、皇后に拒否されて、しぶしぶ諦める。

 入江相政に『行き行きて』といふ随筆集がある。『行き行きて』にある「祭りとは」と題するエッセー(昭和三十九年執筆)を読むと、賢所にクーラーをとりつけようとした犯人の動機をまざまざと知ることができる。 

《まためぐりきたった七月の三十日。当たり前のことだがこの日は決まって年に一回ある。・・・これは明治天皇が崩御になったその日。》

《今のつとめになかなければ、それだけのことで終わったかもしれないが、侍従になったばっかりに、それが年に一度の苦しみの日となった。》

《潔斎して斎服と呼ぶ真っ白な装束をつける。陛下は綾綺殿という賢所の裏のひと間で、黄櫨染の御袍に召し替えて、皇霊殿に御拝。
 書けばそれだけのことだが、何枚か重なった装束をつけ、沐猴して冠した上で、黄櫨染を上げるのは、なみたいていのことではない。下の袴、あこめ、上の袴、裾。袍。袍を石帯でおさえ、その紐できつくしめて、下からこむ。ゆるいとずれてくずれる。かたくしめた上で袍のあまりをかい込む。これだけの操作をすると、冬でもかっかと暑くなる。それなのに梅雨明けで、温度も湿度も一遍に高まった日の閉め切りの綾綺殿、目もくらむようなもの。なんで侍従になったかと悲しくなるのはこの時。》

《前日からなるべく水分と摂らないようにしていても、なま身のことだから、細胞の奥まった所にひそんだ水気がスポンジを握りしめたように、一気にしぼりさ出されて、どうにもならないことになる。陛下はほとんど汗をおかきにならないから平然としていらっしゃる。君臣の別と開きとが歴然とするのはこの瞬間。六月三十日の節折の儀と、明治天皇祭と、八月一日の旬祭と、この三つが無なかったらどんなによかったろうに。かてて加えて、八月十三日には光厳天皇の六百年祭。今年はお祭りの大当り。》
 
《御陪食やレセプションの行われる仮宮殿にはこのごろは冷房もついた。七月十八日の第三次池田内閣の任命式も冷房がきいて、新大臣はモーニングでも気持ちよさそうだった。
 しかし賢所には、千年万年待ったとて、冷房なんかつくはずもないから、七月三十日の苦患は末永く続こうというもの。》

 入江がこの文章を書いたのが昭和三十九年、それから五年後に賢所クーラー事件を起こしてゐる。千年万年待つには及ばない、俺が賢所にクーラーをつけてやらう、と思ひついたものらしい。

 宮中祭祀への不満タラタラは、やがて神道批判に向かう。

《戦争中樺太で耳にした話。零下二十何度、凍ったツンドラの上での地鎮祭。防寒服に防寒帽の参列者はなにごともなかったが、ここにあわれをとどめたのは浄衣姿の神主。「かしこみかしこみまおす」の頃には凍傷。「シントイズムとはどうも南方出身のようですな」と、樺太庁の部長と語り合ったものだったが、こういうところには日本人の自己満足がひそみ、晴天でも雨天でも、暑くても寒くても、同じやり方、同じいでたち。大抵の無理はこらえて貫き通すのが世の常。(略)梅雨あけの七月三十日がいかに暑かろうとも、明治天皇祭の時、陛下のお服を上げるのに、ランニングシャツとパッチというわけにもいかない。》

《それはそれとしてただ、日本の儀式、祭典というものには、一体どこまで苦しみに堪えるものか、この機会にひとつ、念のため調べておこう、・・・》

 出世と金儲けしか頭にないこの男にとつては、宮中祭祀などなんの意味もなく、苦行でしかなかつた。暑さ寒さに苦しめられた三十余年に及ぶ祭祀活動。恨み骨髄の宮中祭祀。俺が宮中の権力をとつたら、こんなもの全部やめさせてやると決意を固め、ついにその時期が到来。これが賢所クーラー事件の顛末である。

(この項続く)











『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十二回)

◆魔女騒動(その六)
 
 ●女官長人事に勝利
  霊能者の啓示に傾倒する入江

 

「天声おまかせ道場」の教祖後藤至良からの啓示を受けて、入江は急遽、長官、侍従長となにやら協議する。その上で、皇后に拝謁することを決める。

《いよいよ明日、両女官長のことを申し上げることになつたので、どうも時々気になる》(十月十五日)

《・・皇后さまに拝謁。東宮女官長と、こちらの女官長とをからめていろいろ申上げ、つまり両方ともお許しを得る。また、ゆりかへしがあるかもしれないけれど、一応、これで済んだ。しかし珍しく緊張した。長官も侍従長も喜んでくれた。》(十月十六日)
 
 奥歯にものがはさまつたやうな記述。東宮女官長と女官長の話を絡めて、両方ともお許しを得たといふが、皇后が黙つて受け入れたとは考へられない。しかし皇后の言葉は一切ない。入江の提案は次のやうなものではなかつたか。「東宮女官長が辞めたいと言つてゐるので(もちろん入江のつくり話)、東宮女官長を交替させたい。ついては、これを機に、こちらの女官長もそろそろ決めたいと思ふ」

 女官長候補として北白川祥子の名はまだ出せない。一方、今城誼子のことは曖昧に逃げたのだらう。それが、皇后からの「ゆりかへし」の心配につながる。

 女官長人事と並行して、入江は祭祀廃絶計画を着々と進める。手始めに新嘗祭を簡素化させる。ターゲットは皇后である。

《長官の所へ行き新嘗のことなど報告。十時過ぎに皇后さまに拝謁。新嘗の簡素化について申上げたが、お気に遊ばすからとのこと。もう少し練ることになる。永積さんと相談。夕方、掌典職の案といふのをきかせてもらふ。これで行くことにならう。》(十月二十五日)

 祭祀の簡素化を持ち出すと、天皇が「お気に遊ばす」とい理由で皇后が難色を示したため、入江は作戦を練り直す。

 その三日後、入江は今城誼子に会ふ。

《魔女に会ひ新嘗のこと頼む。》(十月二十八日)

 新嘗祭簡素化で皇后を陥とすには、今城への根回しが必要と考へたのであらう、女官長人事で敵対するいまいましい魔女に面談してゐる。日記のなかで、魔女=今城と対峙する唯一の場面である。今城が何も言はなかつたはずはない。新嘗祭簡素化に対する今城の意見・反応は一切書かない。なにも書かないで「魔女」めいた印象を与へるところがミソである。

《掌典長と面談。新嘗のも段々整つてきた。》(十一月二日)

 宮中祭祀をつかさどるのが掌典職で、そのトップが掌典長。新嘗祭簡素化について掌典長と打ち合はせてゐる。
  

《あすの式典[新宮殿落成式]に魔女がお供だがといふことだが、と原田さんからの電話で女官長代理をおつれ願ひたい、と申し入れてもらふ。その後、何もないから多分さうなつたことと思ふ。》(十一月十三日)

 あすの式典とは新宮殿落成式のこと。皇后がお供に今城誼子を連れてゆくといふ連絡があつたので、今城ではなく女官長代理にしてもらふやうにと入江が指示を出した。この頃、皇后は今城を事実上女官長扱ひして、公式行事にも今城を伴つてゐたものらしい。それを阻止しようと入江は躍起になつてゐた。

《掌典長来室。新嘗の習礼を昨日、皇后さまに御覧になつたことについての話。》(十一月十九日)

 簡素化した新嘗のリハーサルが行はれ、皇后も御覧になつた。簡素化の内容やそれに対する皇后の意見は不明である。

《参集所へ行く。三十余年、お服上げやお供ばかりだつたが、今日始めての参列である。夕の儀は頗るあたたかかつた。暁の儀の時はさすがに寒くなり外套を着てゐても寒かつた。》(十一月二十三日)

 新嘗祭の日。次長に昇格し、はじめて参列者として新嘗祭に出席した。《三十余年、お服上げやお供ばかりだつた》といふ言葉には、ヒラの侍従として天皇の世話掛かりに甘んじてきた入江の怒りと悲しみがこもつてゐる。入江の宮中祭祀憎悪の背景は実はここにあるのだ。その問題についてはあらためて触れよう。 

《九時のひかり。十一時に名古屋着。駅に後藤さん、井上さん等迎へに来て下さり、すぐ洲崎神社。つづいておまかせ道場。女官長のことなど相談。勿論、名はいはずに。》(十二月二十二日)

 昭和四十三年師走の日曜日。入江は新幹線に乗つて名古屋に行き、洲崎神社に参拝した後、「天声おまかせ道場」に向ふ。そして女官長人事などについて後藤先生の神示を仰ぐ。「勿論、名はいはずに」といふところが意味深長だ。


《大正天皇祭。・・・・御神楽もないので気楽。》(十二月二十五日)

《九時前に出てあるいて出勤。短刀のとぎが出来てくる。君子が新しい短刀を一振りといつてゐたので、市川くんにきいたら二十万位との事。後藤先生にいはれた通り短刀を袋の上からよく握る。》(十二月二十六日)

 暮れも押し詰まつた十二月二十六日、研ぎに出してゐた短刀が出来て来た。その短刀を袋の上から握る入江。「短刀を研いで袋に入れ、袋の上から握りなさい」と後藤から「おさとし」が出たのであらう。このまじなひにどんな効験があるのか。残念ながらそれは記されてゐない。入江は霊能者の教へをひたすら実行する。

《祥君さんは、二、三年先に願ひたいとかいはれるとの事。困ったことである。》

 この時点ではまだ北白川祥子自身の諒承がえられてゐなかつたことになる。

 年が改まり昭和四十四年。

 一月十日、宮中において歌会始が開かれた。

《あるいて出勤。モーニングにかへてすぐ仮宮殿に行く。為年落ち着いてゐる。十時から御会。為年の講師。ちつとも間ちがへずよく落ち着いてゐて、たとへば東宮妃が十分おすはりになり切ってから一呼吸おいて東宮様のにかかるなどよくやつた。》

 為年は長男で、この日の歌会始で講師(こうじ)をつとめた。講師は歌を詠み流す重要な役なのに、歌心もなく一介のサラリーマンにすぎない入江為年が抜擢されたのは、父親が根回ししたとしか考へられない。入江の親馬鹿ぶりはこの記述でも知れるが、入江は息子や娘が三十、四十になつても「可愛い」と日記に書きつけてゐる。親馬鹿と馬鹿息子といふのはまさにこの親子のためにあるやうな言葉で、為年は後年、女をめぐるスキャンダルや詐欺まがひの事件を引き起こして、父親を悩ませることになる。馬鹿息子の歌会始人事も、この時期の入江の権勢を物語つてゐる。

 二月に入ると、侍従長が心筋梗塞で入院した。いよいよ侍従長ポストが見えてくる。

 三月下旬のある休日、入江は妻君子を連れて、都下にある「天声おまかせ道場」の信者仲間の家に向ふ。

《後藤先生もすでに見えてゐる。君子のこと、伊達さんのこと、そのあと二階で君子と二人だけでうかがふ。女官長のこと、侍従長のこと、為年のこと、みんな心配することはないとのこと。夕食御馳走になり車で送っていただいて帰る。》(三月二十一日)

 女官長のこと、侍従長のこと、それと馬鹿息子のことで後藤先生の霊示を仰ひだらしい。侍従長のことといふのは、自分が侍従長になれるでせうかと尋ねたのであらう。侍従次長である自分が昇格するのではなく、外部から招致する可能性もあつたから、入江はそれを恐れてゐた。しかし「みんな心配することはない」といふ後藤先生の有難い「おさとし」が出され、安堵して帰路についたと思はれる。

 その約一ヶ月後。入江は侍従長稲田周の病院を訪れる。

《病院の侍従長の所へ行く。夫人から一寸来てくれといふことで行つた。・・・・・長官に辞意を伝へてくれとのことだつた。》(四月十二日)

ついに侍従長が辞意を表明した。次期侍従長は俺以外にゐるだらうか? しかし時折不安がよぎる。
 
その二日後、入江はホテルニューオータニで開催されたリターンバンケツトに出席する。

《隣はあちらの女官長と上田外務省局長夫人との間。でもなんとか無事にすむ。》(四月十四日)

 あちらの女官長とは、東宮女官長牧野純子のこと。自分がクビを宣告した牧野と隣りあはせになつて、ペロリと舌を出す陰謀男。牧野にいつどのやうな形で辞職を勧告したかといふ記述は、日記にまつたく見当たらない。牧野はこの二日後の四月十六付けで辞任するのだが、そのことに関する記述も日記には一切ない。入江日記においては都合の悪いことはすべて封印されるのだ。 

 ここで入江は、矢継ぎ早に人事工作の手を打つ。

《長官と面談。侍従長の辞意のこと、祥君さんのこと、・・・などについて話し合ふ。》(四月十五日)

《徳川さんと三番町ホテル。・・・西野さんと能勢さんと既に見えてゐる。祥君さんのことはつきりいいといふことになる。》
(四月十七日)
 
 女官長の後任が北白川祥子にほぼ決まつたといふニュアンスであるが、この翌日の日記に注目したい。
 
《昨日の後藤先生のおさとしにより君子と二人七時に家を出てタクシーで往復、山王さまに参拝。新宮殿落成の報告。》(四月十八日)

 女官長候補は北白川にほぼ決まつたものの、この人事について霊能者後藤至良にまたまた「おさとし」を仰ひだらしい。夜遅く電話でもしたものか、朝一番で「山王さま」に参拝する。「山王さま」は永田町にある日枝神社で、江戸城鎮護の神を祀つた由緒ある神社である。《新宮殿落成の報告》とあるけれど、新宮殿は前年十一月に落成式を行つてゐる。あはただしく出勤前にタクシーで往復して報告するやうな事柄ではない。例によつてカモフラージュの匂ひがする。女官長問題がいよいよ山場を迎へて、入江は「おさとし」を求めたのだ。

 日枝神社参拝の翌日、入江は皇后に拝謁する。

《そのあと祥君さんのこと皇后さまに申し上げ御了解を得る。これですつかり安心した。肩の荷も全部おりた。》(四月十九日)

 ついに皇后に北白川祥子を女官長として認めさせた!入江は快哉を叫ぶ。しかし皇后の言葉を一切記してゐないことがなにやら暗示的である。
 
 この二日後、宇佐美長官が女官長人事で天皇に拝謁する。

《・・・長官お上に拝謁。女官長につきお許しを得る。》(四月二十一日)

 天皇の裁可を得て、空席期間が二年二ヶ月に及んだ女官長人事はここに決着した。北白川祥子は五月二十日に正式に女官長に就任する。

 女官長人事をめぐる皇后と入江の戦ひは、霊能者の教へに導かれた入江がひとまず勝利した。しかしここまでは皇后―入江抗争の第一幕にすぎなかつた。入江が勝利の余韻にひたる間もなく、やがて抗争の第二幕が始まる。そして入江が一段と霊界への傾斜を強める中で、対皇后との抗争は最終局面に至るのだ。

       (この項続く)



『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十一回)

◆魔女騒動(その五)
 
 ●魔界に支配される侍従長
  霊能者の神示に従つて宮中工作


 東宮女官長人事の話に戻る。

 東宮女官長を交替させるといふ入江の計画は、東宮妃に対する騙し討ちみたいなものだつた。そのことが後に明らかになる。やがて、東宮女官長の後任として入江が提示することになる人物は―松村淑子。

 皇后の母である久邇宮俔子の弟島津忠弘の娘、つまり皇后の従姉妹である。華族本流である牧野純子のあと釜に送り込まれてくる東宮女官長が皇后の従姉妹。東宮妃にとつては、松村淑子も皇后及び磐会会勢力からの目付役にしか見えなかつたはずだ。東宮女官長交替に期待をかけた東宮妃は失望を味はされることになる。しかしまだこれは先の話である。

 入江は女官長人事工作さなかの昭和四十三年四月、侍従次長に昇進する。やがて侍従長の病気退任といふ僥倖にめぐまれて、次長昇進からわずか一年半後の翌四十四年九月、待望の侍従長ポストに座る。

 侍従次長に就任する前後から入江は陰謀家としての本領を発揮し始める。手始めに着手するのが宮中祭祀の廃絶工作。次に宮中祭祀に熱心な皇后の追ひ落とし工作。さらに皇后を支へる女官今城誼子の追放工作。そして、宮中工作を仕掛ける入江の陰に、不気味な霊能者の存在が浮上する。霊能者の神示に従つて宮中工作を実施する侍従長。女官を魔女呼ばはりした入江自身が実は魔界に支配された人間だつたといふ奇々怪々な情景が、これから宮中において繰り広げられることになる。

 では、入江日記から、同時進行するこれらの動きを時系列で追ひかけてみることにしよう。(以下、昭和四十三年の日記から)

《・・皇后さまに拝謁。お上のお疲れの御様子を一時間ほど申上げる。肝腎の所にはふれられないが、第一回としては、まあまあだらう。》(一月二十九日)

 宮中祭祀の廃絶に向けた、対皇后の説得工作第一弾の記述である。宮中祭祀廃絶を実現するためには皇后を説得しなければならない。入江はそのための計画を周到に練つてゐたものと思はれる。お上がお疲れになつてゐる。ひたすらその線で皇后を押しまくる。これが入江の作戦だつた。《お上のお疲れの御様子を一時間ほど申上げる》とあるのは、、お上が進講の際に居眠りしたとかあくびを連発したとかそんな話だつたらう。この日は、祭祀の話には触れなかつた。

《神出さんの奥さんが名古屋のと後藤さんを連れてこられることになり大騒ぎになる。・・・電話できくと名古屋の後藤先生、神出さん夫妻などみえいろいろ教えて下さつた由。君子も喜んでゐる。》(五月六日)

 ここに「後藤さん」と出てくるのが、後藤至良。名古屋で「天声おまかせ道場」を開いてゐる霊能者である。この日は入江の不在時に後藤が自宅に訪ねてきたらしい。君子は入江の妻。眼病を患つてゐたので、やがて入江ととも後藤の神示を仰ぐやうになる。後藤至良はこの日が日記の初出で、この後、頻頻と名前が登場することになる。入江には書状を出すと発信先の名前を日記に記録する習慣があるが、この三日後に後藤至良に手紙を出してゐる。


《長官の所へ行き祥君さんのことを報告。大変喜ばれる。》(五月二十四日)

 入江は女官長候補の選任を水面下で進める。祥君とは、北白川祥子(さちこ)のこと。故北白川宮永久王の元妃。徳川義恕(よしくみ)の次女で、徳川義寛侍従の妹。昭和十年に北白川宮永久王に嫁したが王は昭和十五年に戦傷死してゐる。前女官長の保科武子が北白川宮家の女王出身(北白川宮能久親王第三女王)で、北白川祥子には義理の叔母にあたることなどから、皇后も反対しづらい。入江が女官長候補として北白川祥子に白羽の矢を立てた理由はおそらくそんなところだらう。

《今晩名古屋の後藤さんが来られるといふ。・・・いろいろおさとしがあり、予は「人事」で苦心してゐるとのことだつた。》
(六月二日)

 霊能者後藤至良が登場。いよいよ入江が神示を仰ぐ。「天声おまかせ道場」では霊能者後藤至良の神示を「おさとし」と呼んでゐる。《あなたは人事で苦心してゐますね》などと、いくつかの「おさとし」が出されたらしい。たしかに自分は今、女官長人事で「苦心」してゐる! 入江はこの日から、霊能者後藤至良にのめりこんでいく。

《徳川さんと一緒に祥君さんの所へ行く。女官長のこと、お願ひする。》(七月十七日)

 侍従徳川義寛を同行して北白川祥子を訪ね、女官長就任を依頼する。この夜、入江は名古屋の霊能者後藤至良に手紙を発信してゐる。北白川祥子についての「おさとし」を依頼したのでもあらうか。

《侍従長に東宮女官長のことについて報告。》(八月十五日)

 東宮女官長人事について侍従長に経過報告する。現東宮女官長牧野純子にクビを通告したか、あるひは新東宮女官長候補を松村淑子と決めたか、松村淑子に諒承を取り付けたかのいづれかであらう。翌十六日に、霊能者後藤至良あてにまた手紙を書いてゐる。侍従長に報告した内容を霊能者にも伝へたのであらう。

 翌月、入江は女官長人事の対皇后攻略作戦を実行に移す。

《皇后さまに拝謁。東宮女官長の後任について申し上げる。》(九月二十五日)

 東宮女官長の後任を松村淑子にしたいと皇后に伝へる。 東宮女官長人事を決着させて、次に女官長人事を片付ける。これが入江の戦略だつた。しかし皇后は翌日、入江を召して《松村淑子は、どうも考へたが工合が悪い》と伝へた。皇后は松村淑子といふ人選に反対したのではない。皇后が警戒したのは入江の出方だつた。東宮女官長人事に同意すれば、入江が次に女官長人事が持ち出してくることは目にみえてゐる。

 皇后に警戒され、東宮女官長人事を受け入れさせるといふ入江の計画は齟齬をきたした。事態を打開するために、入江は霊能者後藤至良に「おさとし」を仰いだ。十月四日、後藤に手紙を書き、やがて「おさとし」がもたらされたらしく、入江は一気に行動を起こす。

《すぐ長官のところへ行き両女官長のことにつき協議。侍従長にも報告する。》(十月九日)

  (この項続く)

 
『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十回)

◆魔女騒動(その四)
 
 ●入江を信用してゐなかつた東宮妃
 《皇室がこんな冷たいものとは・・・》発言の虚構


 東宮妃に対する東宮女官長牧野純子の教育があまりにも厳しかつたために、ついに美智子妃は牧野を「鬼ババア」と呼んだ―。これは皇太子(明仁、今上天皇)の御学友である橋本明の著書『美智子さまの恋文』に出てくるエピソードで,、皇子傅育官東園基文の甥から聞いた話として紹介されてゐる。東宮妃が女官長を鬼ババアなどと呼ぶはずもないと橋本自身はガセネタ扱ひしてゐるが、作り話にしても当時の東宮御所の空気をなにほどか反映した挿話には違ひない。

 東宮妃(現皇后)御発言録で有名なものに、「皇室がこんなに冷たいものとは思はなかつた」といふのもある。昭和天皇と香淳皇后にとつてこれほどショックな言葉はなかつたはずだ。ある意味で極めつけの皇室批判といつていいかもしれない。東宮妃の伝記めいた本には必ずといつていいほど引用され、孫引き、孫引きされてゐるうちに、今では東宮妃の言葉として定着してゐるらしい。恐ろしいことである。この言葉が「鬼ババア」発言に類した流言にすぎない。そのことに一体どれほどの人が気づいてゐるのだらうか。なにしろ、この言葉の出所はまたまた、あの虚飾に満ちた「入江日記」なのだから!

 昭和三十八年三月二十九日の入江日記を読んでみよう。

《九時過ぎに出勤。すぐ長官の所へと思ったら身体の工合がわるくて欠勤とのこと。紀尾井町の官舎でならといふので行くことにする。鈴木大夫とも落合ふ。色々聞くとこの間からのとも又一寸ちがひ「両陛下には入江さんのやうな人があるからいい、お上もある時、〝それは入江に書かせればいい〟とおつしやつたとの事、皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた」との事、大夫と一緒に東宮御所へ行きうどんを食べ、二時半から四時まで両殿下の御前に出る。よくお話下さる。お気持ちもよく分かつた。少しの錯乱もなく驚ばかりだが、その緻密な所が禍をなしてゐると思はれる。


 ここに突如出現する「皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた」といふ言葉。この部分だけ読んでも何がなにやらさつぱりわからないはずだ。このくだりには伏線があるのだ。発端は一週間前にさかのぼる。

《次長から東宮妃が予の書くものについて恨んでいらつしやるから当分内廷のことについては書かない方が無難と長官が言つた由。あきれたことである。》(三月二十二日) 

 東宮妃が予の書くものについて恨んでいらつしやる!  この言葉を聞いて入江は逆上した。これを口にした人物は宮内庁長官である。それを入江に伝へたのは次長である。次の日になつても入江の怒りはおさまらない。

《東宮妃の云はれたことくりかへし考へるが誠に不愉快である。それに更にかりにさう云はれたとしてもその事が当の予の耳に届くといふやうなことは昔の側近にはあり得ないことである。》(三月二十三日)

 自分の行状は棚にあげて、俺に対する悪口を当の俺様に伝へやがつてと、長官次長にも怒りの矛先を向ける。その次の日にも怒りを日記にぶちまける。

《又東宮妃のことが不愉快に思ひ出される。・・・・昼まで西野さんと語り合ふ。ゆふべも徳川さんが東宮職のガタガタ振りについて大いに語つてゐたとの事。》(三月二十四日)

 西野は侍医、徳川(義寛)は侍従。東宮妃への憤懣やる方なく、侍従仲間らと東宮家をやり玉にあげて鬱憤晴らしをしたと思はれる。そしてこの後、狂つたやうに東宮妃発言の追及を始める。

 手始めに東宮侍従長の山田康彦に電話で聞く。山田は学習院の同級生で入江の親友である。明仁親王の御結婚以来、東宮侍従長をつとめてゐる。入江には東宮女官長牧野―女官長保科ラインとこの山田から東宮情報が筒抜けに流れる仕組みになつてゐた。

「東宮妃が俺のことをこんな風に言つてるらしいんだが、お前、何か知つてるか?」

 しかし、電話では埓があかなかつたらしく、翌日山田を宮内庁に呼んで詳しい話を聞く。

《山田が来て、いろいろが話してくれる。やつと分かる。この間からの話が大分違つたのは、この間のがちがつたのか情勢がちがつたのか。・・・次長に明日東宮御所へ行くことになつたについて報告に行く。》

 東宮侍従長山田から情報を仕入れると、東宮御所に乗り込むことを決意する。自分が不利な状況におかれたとみるや、すぐさま反撃に出る。この爬虫類的執拗さが入江相政の性格的特徴をなしてゐる。

 さてその翌日が、冒頭の日記の場面になる。

《九時過ぎに出勤。すぐ長官の所へと思ったら身体の工合がわるくて欠勤とのこと。紀尾井町の官舎でならといふので行くことにする。鈴木大夫とも落合ふ。色々聞くとこの間からのとも又一寸ちがひ「両陛下には入江さんのやうな人があるからいい、お上もある時、〝それは入江に書かせればいい〟とおつしやつたとの事、皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた」との事、大夫と一緒に東宮御所へ行きうどんを食べ、二時半から四時まで両殿下の御前に出る。よくお話下さる。お気持ちもよく分かつた。少しの錯乱もなく驚くばかりだが、その緻密な所が禍をなしてゐると思はれる。》

 まづ宮内庁長官宇佐美毅に面談。あなたが言つた東宮妃発言は自分が聞いた話とは違ふ、と長官を吊るし上げたはずだ。次に東宮大夫鈴木菊男に会ふ。東宮大夫は東宮職のトップである。危険な攻撃性をもつた男が血相を変へて乗り込んできて、東宮妃に会はせろといふ。東宮妃に詰問でもされたら自分の立場はない。この小心な東宮大夫は入江をなだめるために、いろいろリップサービスをしたはずだ。

 しどろもどろの鈴木の説明から、入江は自分に都合のいい言葉を適当に切り張りして日記に並べた。それが次のくだりだ。

《「両陛下には入江さんのやうな人があるからいい、お上もある時、〝それは入江に書かせればいい〟とおつしやつたとの事、皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた」との事》

 例によつてほとんど脈絡不明。気の毒なのは、《皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた》といふ言葉を書き残された東宮妃である。

 東宮妃が東宮職のトップに《皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた》などといふだらうか。東宮大夫にこんなことをいつたら、どうぞ天皇皇后にお伝へ下さいと言つてゐるのと同じである。今の東宮御所の状況を考へてみよ。鈴木も誰かの伝聞として耳にしたとしか考へられない。とすれば、それは「鬼ババア」の類ひではないか。

 はつきりしてゐるのは、東宮妃は入江相政といふ人物をこれつぽつちも信用してゐなかつたといふことだ。皇室の代弁者みたいな顔をして、皇室礼賛文章を書きまくるこの冷血男の本性を皇太子妃は見抜いてゐたと思はれる。

     (この項続く)



『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第九回)

◆魔女騒動(その三)
 
 ●東宮女官長更迭を画策
  皇太子妃に甘言
  

 侍従職女官長ポストを皇后―今城ラインに渡さないためにはどうしたらいいか? 入江にあるアイデアが浮かんだ。それは、侍従職女官長(以下侍従職を略す)人事に東宮女官長人事を絡めるといふ構想である。東宮女官長のクビをすげかへる。東宮女官長が交替するのに、女官長ポストが空席なのはをかしい。そんな空気をつくり出して、皇后に圧力をかけるといふ作戦だ。

 この作戦を実行に移すべく、入江は昭和四十二年十一月十三日、東宮御所を訪れ、東宮妃(美智子様)に拝謁した。

《三時に出て東宮御所。三時半から五時四十分まで二時間以上、妃殿下に拝謁。近き行幸啓の時の御料理のこと。これが時間として大部分だつたが、終りに皇后さまは一体どうお考へか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか等、おたづね。夫々お答へして辞去。》

 ここに出てくる《皇后さまは一体どうお考へか、平民出として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか》といふ東宮妃の発言ほど入江日記からよく引用される文章はない。結婚してから八年も経つのに、美智子様は皇后陛下の自分に対する感情について思ひ悩んでゐた。それを信頼する侍従に打ち明けたといふ構図である。皇后による冷遇に悩む東宮妃の代表的なエピソードとして、この文章はしばしば紹介される。入江がそのやうに読まれるであらうと意図したやうに。

 ある人物の発言を日記に書き残す際、故意に状況をボカしたり前後の文脈と切り離したりたりして、相手の発言を自分の都合のいい文脈の中にハメ込むといふのは入江がよく用ゐたトリックで、その典型がこの日の東宮妃発言にほかならぬ。

 この日の拝謁の目的について《近き行幸啓の時の御料理のこと。これが時間として大部分だつたが》と記してゐるのがそもそも嘘。この日の日記には、午前に《長官、侍従長、次長と面会、今日午后の東宮妃殿下のお召しのことにつき協議する》とある。たかが料理のことで宮内庁長官、侍従長、次長が雁首揃へて協議するわけもない。この男は、すぐボロが出るやうな見え透いた嘘を平然とつく。東宮妃が《お召し》といふのも《お召し》の形にとりつくろつたまでのことで、拝謁は入江の側から申し出たのものだらう。

 入江が東宮妃に拝謁した目的は、東宮女官長の交替を伝へることにあつたと思はれる。「東宮女官長を替へて差し上げたい―」。

 当時の東宮女官長は牧野純子。男爵鍋島直明の長女で、宮内大臣・内大臣などを歴任した伯爵牧野伸顕の長男伸通の妻。誇り高き旧華族出の東宮女官長による民間出東宮妃に対する峻烈過酷な教育指導ぶりは、当時の週刊誌が競つて取り上げるテーマとなつた。牧野純子は、民間出の東宮妃に反対した常磐会(女子学習院の同窓会)の推薦で東宮女官長に抜擢されたといはれ、常磐会会長の松平信子(秩父宮雍仁親王妃勢津子の母)や女官長保科武子(北白川宮能久親王第三女王)とも親しく、松平信子、保科武子、牧野純子の三人は度々会しては東宮妃の悪口を言つてゐると伝へられた。

 牧野の東宮妃への態度があまりに厳しすぎるので、皇太子が牧野に意見をする場面もあつたといはれ、東宮御所では皇太子・妃と東宮女官長との間に悶着がたへなかつた。事あるごとに自分につらくあたる東宮女官長。その東宮女官長を交替させる? 本当に? 東宮妃が侍従入江の申し出をどのやうな思ひをもつて受けとめたかは想像に難くない。
 
 「女官長交替」といふキーワードを使ふと、《皇后さまは一体どうお考へか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか》といふ東宮妃発言のナゾがとけてくる。

《皇后さまは一体どうお考へか》とは、入江が持ち出した東宮女官長人事について、《皇后さまは一体どうお考へか》といふ妃殿下からの問ひかけのだ。

 しかし皇后はこの時点で、東宮女官長の交替計画など知るよしもない。この人事計画は入江らが皇后に極秘で進めてゐたのだから。入江は得意の口八丁手八丁でごまかしたに違ひない、「実は皇后さまも妃殿下のことは大変御心配なさつてをられまして・・・」。

人事に関する皇后の意向は適当にはぐらかした上で、入江は様々な皇后情報を東宮妃に提供したはずだ。東宮妃の歓心をかふために。二時間以上に及んだ入江の独演会の最中に、東宮妃から、《皇后様は自分に何かお気に入らないことがあるか》といふ発言もあつたのであらう。

 これら妃殿下の発言をつまみ喰ひして次のコメンがつくられた。

《皇后さまは一体どうお考へか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか》

 東宮女官長の交替問題は影も形もない。この文脈無視の合成コメントが、「皇后にいじめられる美智子様」といふイメージをどれだけ増幅させたことか。

          (この項続く) 

  
『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第八回)

◆魔女騒動(その二)
 
 ●女官長ポストをめぐる抗争
 
 入江日記に「魔女」が登場するのは昭和四十一年一月からだが、入江はそれ以前の日記に魔女こと今城誼子をどのやうに呼んでゐるのか? それは今城と本名を記してゐるのである。

《御文庫へ行き相撲のテレビ。お相伴。鈴木大夫、徳川、塚原、今城。》(昭和三十三年十一月十五日)

《・・・零時二十分に出て東京駅。・・・今城、市村、井上の三氏と一緒。》(昭和三十八年八月二十八日)

《午后一時半に義宮御殿。もう大分集まつてゐる。二時から歌合。敵左、山本、向後、久保・・・・・保科、永積、原田、松平、西野、今城、東園・・・》(昭和三十八十月一二日)

 今城も他の女官らと同じく普通に名前を呼んでゐたことが分かる。それがある時を境に突然、入江は今城を魔女呼ばはりし始めた。ある時とは、次期女官長候補に今城の名前が浮上した時からである。

 この頃、昭和十三年から女官長をつとめてきた保科武子の退任がとりざたされるやうになり、そんな中で皇后から、「保科の後任は是非今城に」といふ意向が伝へられたらしい。周囲は困惑した。中でも驚愕したのが侍従の入江であつたらう。この権謀家はその日から、今城はおぞましい魔女であると宮中にふれ回る。日記の次の記述は、魔女=今城、テーマ=女官長就任阻止と読むと分かりやすい。

《二時から上の常侍官候所で会議。長官、侍従長、侍従次長、徳川、入江の顔触れ。魔女に関する件。九日に三妃殿下が長官をお呼びになつてゐるといふので、その下ごしらへ。これだけ顔を集めても、結局知恵は出なかつた。》(昭和四十二年一月五日)

《長官の話によると二十八日の土曜日に喜久君さんが皇后さまに女官長の後任は松平信子が最適のこと。魔女の神がかりは有名で英文の投書も来てゐること、高松宮の殿下もそんなのは女官長には不適と仰せになつたといふことも申上げになつた由。矢はいよいよ絃を離れた。》(昭和四十二年一月三十日)

《午后、侍従長の部屋で長官から喜久君さまが魔女をお招びになつた時のことについて聞かされる。要するなんのかんのと、みんな皇后さまの御沙汰といふことにして言ひのがれをしただけのこと。》(昭和四十二年二月十四日)

《一時から三時前まで侍従長の部屋で長官、侍従次長と四人で魔女のことについて会議。喜久君さまの御報告に基づくもの。いやなことばかりでみんな憂鬱である。》(昭和四十二年二月二十四日)

 今城には、「真の道」といふ新興宗教の信者ではないかといふ噂が流されてゐた。

《保科さんから聞かされた所によると魔女の行くのは「誠[真]の道」といふ宗団の由。堺の鷹司さんから話があつた由。》(昭和四十一年二月四日)

 『現代にっぱん新宗教百科』によると、「真(まこと)の道」は本部が東京にあり、創立者は萩原真。萩原は心霊実験を重ね、昭和二十三年に医学博士の塩谷信男ら有志ともに心霊研究グループ「千鳥会」を結成。やがて「日本三大霊媒」の一人として知られるやうになり、昭和二十七年に教団名を「真の道」に改めたとある。

 ここで注目したいのは、今城=「真の道」信者説を入江に伝へたのは女官長の保科武子だつたといふことである。保科は女官長だから今城の上司にあたる。今城が保科の部下になつてから十五年もたつ。それが今になつて、実は今城には新興宗教の噂があつて、などと言ひ出すのはどこか不自然ではないか。保科が今城を自分の後任にしたくない気持ちは分からぬでもない。皇后の寵愛が厚く、最近では女官長の自分をさしおいて皇后は何ごとにつけ今城を重用してゐる。あんな女に女官長のポストを渡したくない・・・。

 一方、入江は保科の遠縁にあたり、保科の女官長車に同乗して出勤するほど親密な上、入江にとつて保科は天皇皇后の日常動静や東宮情報などをもたらしてくれる重宝な存在でもあつた。その保科が辞めて、後釜に皇后に直結した、宮中祭祀にうるさい今城が座る。この人事は入江にとつて悪夢を意味した。

 結局、入江・保科連合軍を中心とした地下工作が功を奏して、今城の女官長就任はいつたんは阻止された。保科武子は昭和四十二年三月二十二日に退任したものの、小川梅子が女官長事務代理に就任し、女官長ポストは空席とされたのだ。今城を女官長にしたい皇后と、それを阻止したい入江の抗争はここから持久戦に入つたといへる。

           (この項続く)


『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第七回)

◆魔女騒動(その一)
 
 ●入江がフレームアップした魔女騒動


 昭和四十年代に起きた「魔女」騒動ほど入江相政といふ人物の本性を暴露した事件はない。

 皇后が信頼する女官を魔女呼ばはりし、魔女が皇后を狂はせてゐると騒ぎ立て、この女官を宮中から追放することを画策する。これが魔女騒動といはれた事件である。陰謀の首魁者は入江相政。しかしこれだけなら一女官の追放劇にすぎない。実はこの事件の裏にとてつもない計略が隠されてゐたことはあまりよく知られてゐない。入江にとつて魔女は実は単なるスケープゴートにすぎず、彼の真の敵は別のところにあつた。それはほかならぬ皇后だつた。

 宮中祭祀の廃絶を目論んだ入江は、これに反対する皇后の存在が邪魔になつた。そして側近を追放することによつて、皇后を宮中で孤立化させることを策した。神がかりの魔女が消えれば宮中は平和になると天皇に吹き込み、天皇もこれを信じて「魔女」の追放に賛成してしまふ。側近を奪はれた皇后の精神的打撃ははかりしれなかつた。認知症が一挙に進行し、これ以降、皇后は宮中の問題について意見を云ふことはおろか日常生活もままならないやうな状況に陥る。それがまた天皇の心痛の種になつて晩年に及ぶのである。

 しかし、皇后をそのやうな状態に追ひやつた張本人の厚顔侍従長は、《(皇后さま)このごろはひどいことになつておしまひになつたらしい》(昭和四十七年年末所感)と冷笑的にうそぶくのみ。皇后の老人化現象を心配するどころか、皇后が《ハーフリタイアメント》したことを歓迎する口吻さへもらすのである。皇后の影響力排除に成功した背徳侍従長はこれを機に念願の祭祀廃絶に向つて突き進むことになる。

 皇后や魔女を排除するための一連の工作は、入江相政の権勢欲と陰険なカメレオン的体質を余すところなく示してゐる。しかし、冷血侍従長が陰謀遂行にあたつて用ゐたのは自分の悪知恵だけではなかつた。入江の背後にはある霊能者がゐて、その霊能者の霊示に従つて入江が宮中工作に及んでゐたことが分かつてゐる。オカルティズムにとりつかれた侍従長が自作自演した陰謀劇―それが魔女騒動の正体だつた。

 ではこの陰謀劇の跡を詳しくみてゆくことにしよう。

 入江日記の「魔女」に関する記述は昭和四十一年から四十六年に及ぶが、四十三年から増へ始め、四十六年にピークに達する。昭和四十三年は入江が侍従から侍従次長に昇格(四月)した年であり、翌四十四年は侍従長の病気により侍従長代行に就任(二月)し、次いで侍従長に就任(九月)した年である。つまり日記に魔女に関する記事が増へた時期は、入江が宮中におけるオクの実権を握りつつある時期とまさしく符号してゐることに注目したい。

 入江日記には「魔女」に関する記事がこんな工合に登場する。

《昨日、一昨日と相次いで魔女から電話。大晦日にだれが剣璽の間にはひつた、なぜ無断ではひつた、とえらい剣幕でやられたといふことだつた。一戦を交へる積りのところ何の音沙汰もないのはどうしたものか。》(昭和四十一年一月三日)

《魔女のこと次長が申し上げた。そしたら魔女が田中さん(直・侍従)に怒つてきた。皇后さまがおつしやつた為だらう。剣璽のことも申し上げられた由。》(昭和四十一年一月十日)

《保科さんから聞かされた所によると魔女の行くのは「誠[真]の道」といふ宗団の由。堺の鷹司さんから話があつた由。》(昭和四十一年二月四日)

《皇后さま七度八分。お歯がもとらしいが魔女の一言で侍医にお見せにならない由。》(昭和四十一年四月二十一日)

《午前中は侍従長の部屋で長官、侍従次長等と会議。女官長の後任のこと並に魔女の件。》(昭和四十一年十一月十五日)

 入江が「魔女」と呼んでゐるのは女官の今城誼子(いまき・よしこ)のことである。

 今城誼子は子爵今城定政の娘で、昭和四年に皇太后(節子、貞明皇后)の女官として宮中に出仕した。昭和二十六年に皇太后が崩御してから、皇后(良子、香淳皇后)の女官として仕へた。やがて今城は皇后から厚い信頼を寄せられるやうになつたが、今城が大宮御所(皇太后御殿)に受け継がれた宮中のしきたりを皇居に持ち込まうとしたことなどから、皇居古参の職員らには煙たがられてゐたらしい。しかしただの口うるさい女官にすぎなない女官を突如魔女呼ばはりするとは尋常ではない。今城を魔女に仕立てあげたのは入江の計算づくの行動で、おそらくこの頃すでに入江の心の中にある計画が芽生へてゐたと思はわれる。


        (この項続く)












プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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