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「三島由紀夫雑記」(4)

●松本清張と三島由紀夫(承前)

「芥川は三島の前にはあまりに小さすぎる」
「才能は三島のほうがはるかに川端をしのいでいる」
 七十歳を超えて書かれた松本清張の三島論 





「松本清張と三島由紀夫」の続きを書く。
 松本清張の『過ぎゆく日暦(カレンダー)』(平成二年、新潮社刊)は単なる日録(日記)といふものではなく、日録から派生させた海外紀行文(主にイギリス)と文学論考などから成る。文学論考は三本あつて、「一葉と緑雨。芥川と三島。中勘助とその嫂のこと。」といふ文章のほかに、鷗外に関するものが二篇ある。

「一葉と緑雨。芥川と三島。中勘助とその嫂のこと。」には一応、「昭和五十六年十一月十五日」といふ日付があるが、二十九頁に及ぶ文章だからこの日一日に書かれたわけではないだらう。

 「一葉と緑雨。芥川と三島。中勘助とその嫂のこと。」は、明治以降の文学関連の雑誌は古書店の目録などを見て目につく限り買ふことにしてゐるといふ話から始まつて、まづ樋口一葉と斎藤緑雨の関係に考察を加へる。次いで、「探求」といふ文藝雑誌(昭和五十年)に掲載された斎藤順二「芥川龍之介と三島由紀夫」といふ論文を枕に、芥川龍之介と三島由紀夫との清張流比較論を試みる。

 《「狂気の遺伝」の問題として、芥川は十一歳のときに狂死した実母からの遺伝による発狂の恐怖を感じていたが、三島は祖父にたいして一種の不安を感じていたのではないか》といふ論文の推論を手掛かりに、清張は芥川の死にまつわる文献を考証し、芥川の自死についてかう結論する。「だが、主な原因はやはり筆の行き詰まりであろう」。

 芥川に対して三島由紀夫はどのやうに見做されるか? 

《三島にはそのような(芥川のような)幻覚が起ったという自記めいたものがない。彼の神経は芥川にくらべ「兇々(まがまが)しい」(三島の表現)くらい強靭であった。》

 あとの方では、このやうな言ひ方もされる。

《芥川と三島の比較という視野のかぎりでは、芥川は三島の前にはあまりに小さすぎる。芥川の文学は後年になるほどしだいに羸痩(るいそう)し、才能は枯渇していった。それにくらべ三島由紀夫のそれは「兇々(まがまが)しい」までに逞しかった。》

 三島の死の直後、「三島は才能が枯渇したから死んだのだ」と断罪した同じ作家の言葉とも思はれぬ。ここで、三島の代はりに「才能の枯渇」と処断されたのは芥川なのだつた。

 「芥川は三島の前にはあまりに小さすぎる」といふ清張の評価を読んで、私は評論家臼井吉見のある言葉を連想した。「(三島由紀夫の)水際だった緊密な表現力は、よく比較されるが芥川龍之介などの及ぶところではない」(「蛙のうた」)。

「兇々しいくらい強靭」といふ言葉はおそらく生前の三島由紀夫が最も喜んだ賛辞で、それが「宿敵」松本清張の口から出たことに一驚する。三島「才能の枯渇」説は取り下げた気配だが、それでは清張の三島に対する考へ方は変はつたのだらうか? そのへんのところはよくわからない。しかし、少なくとも清張が三島文学をよく読み込んでゐたことは、以下の文章が証明してゐる。

《三島には、芥川の漱石にあたる師はいない。また久米、菊池といった親友はいない。(中略)学習院在学中、書いた原稿はすぐに川端康成のもとに持参し、預かって見てもらわねば安心できなかった。(「盗賊」あとがき)。
 しかし、それは学生のころで、才能は三島のほうがはるかに川端をしのいでいる。》

《ギリシャ的様式美というと、冷たい感触に聞えるが、三島の短編にはみな血のある人間が活躍している。その心理描写は用意周到である。同じ皮肉な結果になっても、芥川の「作為の目立つ意外性」ではなく、いかにも人情の落ちを感じさせる。年少時の「花ざかりの森」「遠乗会」から「橋づくし」「女形」にいたるまでみなそうである。学生時代の長編処女作というよりは習作の「盗賊」のごとき着想は、三島の全作品の基底を早くも成していると思う。》

 また清張が、三島由紀夫といふ人間にある親近感を抱いてゐたらしいことはこんな書きぶりからもうかがへる。

《三島はみるからに健康である。芥川のように、文壇の三人か五人の批評家などは恐れるどころか、歯牙にもかけないふうにみえる。そのかわり自著の売行きを気にしたそうである。》

《三島は職人刈りのような頭をし、背丈はあまり高くはないが、がっちりとした身体つきである。わたしは家族づれの三島氏と銀座の料理店「浜作」のカウンターで一度だけすれ違ったことがある。それが初対面で、また最後だったが、氏から出しなに短い挨拶があった。芥川はいつも先に相手に頭をさげて後悔していたということだが、これも共通しているかどうか。》

 このあとに展開される「豊饒の海」の読解がいかにも清張的である。「豊饒の海」の「創作ノート」から読み解くのだ。

《「ノート」には登場人物の一覧が書かれている。
 「二・二六蜂起直前、父(北一輝)が息子を救ふために、南国へ飛ばす。彼、罪の思いに責められ熱帯潰瘍になり死す。
第二部(神兵隊事件 訴訟記録)
戦争で死ぬまで(北一輝の息子)―熱帯。(美男が熱帯潰瘍で顔を失つて死ぬ)」
 三島は登場人物の性格に北一輝を浮かべたらしい。実作には登場させていない。その「美男が熱帯潰瘍で顔を失つて死ぬ」というのは、前作の「ライ王のテラス」の揺曳である。北一輝に養子(中国革命家の遺児)はあったが、もちろんそんな事実はない。
「侯爵家」のモデルを十四万坪の地所、三万坪屋敷の西郷従道侯邸(目黒、品川に別荘)に求めて、そのスケッチは詳細をきわめる。これはべつに西郷侯でなくとも、伊藤博文邸でも山縣有朋公邸でもよいが、西郷としたほうが老夫人どうしが話すとき東京者には外国語のように聞える鹿児島弁を用いる。嫁との会話にも単語に鹿児島弁がとび出してそこがユーモラスだからである。そのへんを知らぬ素直な者は某貴族的な名家に起った実際の事件にもとづいているように解釈する。》

「創作ノート」の解読は続く。

《ノートは「暁の寺」「天人五衰」と大きく分割され、それぞれが再分割される。それはプロットとステージから成る。プロットは各人物の性格が書きこまれ、広範なステージはインド、タイに渉り(じっさいに三島はメコン川の中流ヴィエンチャンにも行っている)、国内では奈良、宇治、木津川取材紀行。「ラストシーンは円照寺」。その写生は克明。 これは精密な設計図である。ペンの機関車はこの堅固に敷設された線路の上を驀進できるはずだ。
 しかし、短編ならともかく、長編となるとそうはゆかない。精密なはずの設計にも見落としの狂いはある。機関車もレールの上を走るとはかぎらない。登場人物は生きものだ。小説は完結するまでは作者にとって未知の世界であり、実作は手さぐりの状態で進むのである。
「豊饒の海」は、三島の当初の意気込みにもかかわらず、失敗作であった。三島も途中からそれに気づいていたのではないだろうか。》

 作家が長編小説を書く困難さといふ一般論から、「豊饒の海」は「失敗作」と断定するに至る理由がスッポリ抜けおちてゐることに気がつく。「創作ノート」の構想と完成作との違ひだけでも説明すればそれなりに清張らしい「豊饒の海」論になつたのにと思ふ。

 三島論はこのあと「小説とは何か」への言及があり、「小説とは何か」は「実作家の立場からの小説鑑賞法」であつて、《好個の「小説作法」になりつつあった》(「小説とは何か」は未完だつた)とまで評価を与へる。

 芥川との比較から始めた三島論で、松本清張は結局、「花ざかりの森」から「豊饒の海」まで三島文学の全体(「憂国」も「英霊の声」も出てこないけれど)を概観する作業を行つたことになる。七十歳を超えてはじめて三島由紀夫論を書いた作家は清張くらゐのものだらう。松本清張にとつて、同時代を生きた作家の中で一番気になる存在は三島由紀夫だつたのではないか。松本清張といふ人は、「純文学」作家たりえなかつたが、「純文学」の世界を探求する意欲だけは終生持ち続けた作家だつた。

(了)


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「三島由紀夫雑記」(2)





●松本清張と三島由紀夫

 清張を逆上させた中央公論社「日本の文学」事件
「清張には文体がない」と断言した三島由紀夫





高見順は昭和三十八年七月十七日の日記に次のやうな記述を残してゐる。(『続高見順日記』第二巻)

《迎えの車で福田家へ。
 中央公論社の「日本の文学」編集委員会。今日はキーンさんも出席。
 松本清張君を入れるかどうかが大問題になった。
 嶋中社長はみなの家を訪れて、入れてほしいと頼んだのだが。
 三島君がまず強硬意見を述べる。大岡君も、入れるのに反対する。
 社側は大佛次郎、獅子文六、今東光も考慮してほしいと言うのだが、問題は専ら松本清張にしぼられる。
 社の人たちが別室へ行って協議する。その留守に三島君が、松本を入れろと言うのなら、自分は委員をやめるつもりだ。全集からオリるつもりだと言った。
 三島君は立派な男だ。社の人々が別室から戻って、松本清張を二本立てということで譲歩してくれぬかと言う。
 二本立て、一本立てということではなく、入れるか入れぬかという問題だ。入れれば、この全集の性格がすっかり変わってしまう。三島君は「責任が持てぬ」と言って、委員辞退を口にする。
 川端さんが、やっぱりそれでは入れないことにしたらどうですと言う。これで結論が出て、社側も折れた。
 選考に移って、私は名が全然出ていない中村真一郎君をやはり入れてほしいと言った。だったら、福永武彦君も入れようと三島君が言った。全回から伊藤君は芹沢光治良君が落ちているのを、なんとかしてほしいと言っていて、今度もそれを座に出したが、やはり否決された。》

 高見順は書いてゐないが、「清張には文体なんてないぢやありませんか」といふのが三島の主張のすべてだつた。

 中央公論社の全集「日本の文学」は八十巻に及ぶ大全集で、「世界の歴史」と「世界の文学」で大成功を収めた同社が並々ならぬ意欲で企画したものだつた。その意欲のほどは、谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、ドナルド・キーンといふ編集委員の顔ぶれにもよく現れてゐる。この手の全集の編集委員は単なる名前貸しも少なくないが、中央公論社「日本の文学」の場合は、編集委員は収録作家を選衡する権限を付与されたのみならず、多くの編集委員は複数巻の解説も担当するといふものだつた。三島由紀夫も嶋中社長から直々に編集委員の要請を受け、相当な意気込みをもつて編集委員会に臨んでゐた。

 この前回の編集委員の会合は六月四日だつた。その日の高見順の日記。

《迎えの車で虎ノ門「福田家」へ。
 中央公論社「日本の文学」編者の会。
 川端、伊藤、大岡、三島。
 作家の選衡。十一時までかかった。
 「今までは被害者だったが、今度初めて加害者になれて、いい気持だ」
 と大岡君が冗談を言ったが、私も同感。
 (ちなみに、筑摩の全集は武田麟太郎と私の二本立て。まあ、いいさと承諾したが、××君は大憤慨。××君も憤慨。こういう支持者のいることはありがたい。
 妻が筑摩に電話、おりると通告。)

 松本清張の採否をめぐり紛糾した七月十七日の編集委員会のあと、次回は七月三十日に開催された。高見順日記の記述。

《五時、新橋。福田屋へ。
 谷崎氏出席。
「日本の文学」打ち合わせ会。例によって激論。
 漱石三冊、荷風二冊、谷崎氏三冊、康成二冊とう案が社から出たが川端さんは二冊を拒み、あくまで自分は一冊でいいと言う。漱石も二冊となる。》

 次の会合は八月十七日。高見順日記の記述。

《谷崎、川端、伊藤、三島、大岡、キーンの諸氏。
 川端さんの提案で秋声二冊となる。かねて藤村ばかり優遇されているのに不満な私は大賛成だった。
 その他、二三の変更あり、巻数がのび、八十巻に収めたいというところから、最後の新人(?)のところが問題になった。
 中村真一郎、福永武彦がまた問題になったが、これは残ることになり、逆に阿川君が抜けているのは気の毒だということになり(社側も、志賀さんの支持の点から、ぜひ入れてほしいと言う)入れるとなると、かわりに開高、遠藤のどちらかを巻数整理の必要からはずさねばならないということになった。有吉、曾野、倉橋の巻の、倉橋君はこれをはずして、三君を入れたらという話、その他いろいろ話が出て、社に一任。》

 文壇の大御所が顔を連ねた「日本の文学」編集委員会のハイライトは結局、松本清張を入れるかどうかだつた。

 「日本の文学」から外されたことを知つた松本清張の怒りと落胆は大きかつた。松本清張全集が中央公論社から刊行される予定になつてゐたことも清張の怒りを倍加した。

 この「日本の文学」事件に関する松本清張の感情は、中央公論社の清張担当だつた宮田毬栄の『追憶の作家たち』(文春新書)の「第一章 松本清張」に詳しい。

《清張作品が「日本の文学」に収録されないことを知った清張さんの落胆、怒りは激しかった。すでに、松本清張の個人全集出版が決められていた中央公論社の文学全集に、当代一の流行作家を自負する自分の名前を見つけられない事実が俄かには信じられなかったことだろう。》

 谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫の純文学三人組が結束して自分を全集から排除したといふ清張の邪推はそこから生まれたと宮田はいふ。最も激烈に反対したのが三島であることは清張も直観してゐたらしく、《その事件以来、清張さんは三島および純文学作家への感情的な反発をあらわにした》と回顧する。

 宮田によると、三島の死についても清張は「書けなくなつたからだ」と才能の枯渇を主張して譲らなかつたといふ。「『太陽と鉄』を書き、『豊饒の海』を書いて死んだ。ここまできたら、もう書けなかったろう」。

 三島の死の直後、清張は「檄の文章の軽さ」を論ひ、その意見の低俗さは三島の思想・行動に批判的な人々からさへ冷笑を受けた。清張と近かつた編集者たちは、清張のこの言葉の裏に「日本の文学」事件の怨恨を読み取つた。

 松本清張と三島由紀夫に接点がなかつたわけではない。講談社版「江戸川乱歩全集」(昭和四十四年~四十五年)の編集委員には松本清張と三島由紀夫が中島河太郎とともに名を連ねてゐる。いやそんな世俗的なことよりも、松本清張と三島由紀夫はともに、日本の作家の中では森鷗外を一番重んじたといふ事実に目を向けるべきかもしれない。

 三島由紀夫は「森鷗外を神のやうに尊敬する」と言つて憚らなかった。松本清張は、芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』からして鷗外を材料にした作品だし、『鷗外の婢』などもさうだ。清張は鷗外の「澁江抽斎」以下の史伝作品を好み、終生鷗外への関心を失はなかつた。「漱石に比べれば鷗外はずつと大人だ」が持論だつた。

松本清張に『過ぎゆく日暦(カレンダー)』といふ著作がある。この本に、「一葉と緑雨。芥川と三島。中勘助とその嫂のこと」といふかなり長い作家論風のエッセーが収録されてゐる。目を引くのは、ここで三島由紀夫とその作品の分析に六頁が費やされてゐることだ。この文章が書かれたのは昭和昭和五十六年十一月。三島没後十余年を経て、三島由紀夫を松本清張はどのやうに論じたか。これについては稿を改めて紹介したい。

(この項続く)


「三島由紀夫雑記」(1)


●吉行淳之介「スーパースター」考
 美空ひばりと三島由紀夫





 吉行淳之介は「スーパースター」と題する文章を昭和四十九年の「群像」五月号に発表した。
 文章の冒頭に、「スーパースター」といふタイトルについての説明が置かれてゐる。

《――超スターとでも訳す言葉だが、むしろ尊敬か。アンダーグラウンド派から出た言葉らしく、「ジーザスクライスト・スーパースター」という題名の映画もある――》

 1973年(昭和四十三年)に公開された映画「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、キリストの最後七日間を描き、キリストとユダの愛憎劇を軸に展開するロックミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」(1971年、ブロードウェイで初演)を映画化したもので、いかにも現代風なキリスト解釈がキリスト教団体の反感を買ひ、アメリカでは上映する映画館が抗議デモが取り巻かれ、それが世界的ニュースになつた。「アンダーグラウンド派」とはロックミュージカルの方を指してゐると思はれる。

 小説ともエッセーともつかぬ「スーパースター」は吉行ファンにもあまり省みられぬ作品(一応さう呼んでおく)らしいのであるが、文中のある記述だけは世に知られてゐる。それは次のやうなものだ。

《酒場で私がウイスキーを飲んでいると、彼が入ってきたことがあった。別の席に座った彼は、間もなくカウンターの隅にある電話機に歩み寄った。私の真正面にその電話機はみえていた。ダイヤルを回す彼の手つきや、送受器を握ったほうの肘をカウンターに置いて?をななめにしながら話をしている恰好には、他人の眼を意識しすぎているところがあった。自分はいつも世に中から注目されている存在なのだ、という姿にみえて、
「あれじゃ、疲れるだろうなあ」
と、おもった。その時期には、彼にたいして昭和二十年代のような気分は薄れていて、いくぶんの滑稽感も起った。》

 「スーパースター」には登場人物の名前や固有名詞はことごとく省かれてゐる。正面切つて名前を出すと書きにくい時、作家はよくこの技法を使ふ。
  彼―とは三島由紀夫なのであるが、読者には彼が三島由紀夫であることはすぐ分かる仕掛けになつてゐて、「いくぶんの滑稽感」を持つた同業者によつて描かれた、周囲の目を過剰に意識する三島由紀夫のスケッチは、「あれじゃ、疲れるだろうなあ」といふ著者の感想とともに甚だ有名になつた。

 三島の自決から三年半後に発表された「スーパースター」は吉行淳之介による三島由紀夫追憶記のやうなものだ。しかし、ありきたりの三島追憶記とは一風趣が異なつてゐる。
 著者の回想は「ある文学賞」の授賞式から始まる。
 授賞式が始まつても、選考委員の椅子の一つだけが空席になつてゐた。
《その空いていた椅子にほんのすこし遅れて、彼が座った。私と同年配の小説家であるが、選ぶ側と選ばれる側とに分かれてしまっていた。彼が異常ともおもえる若さでジャーナリズムに登場し、以来精力的に作品を発表しつづけると同時に、いろいろ華やかな話題を提供してきたためである。
 二十年ほど前に、私の年上の友人の小説家と雑談していたときに、記憶に残っている会話がある。
「彼の作品論をしても仕方がないよ」
と、その友人は手を横に振り、言葉をつづけて、
「スタアなんだから」
 以来、二十年たって、彼はスーパースターといってよい存在になっていた。》

 ある文学賞とは谷崎潤一郎賞で、昭和四十五年、吉行淳之介の「暗室」と埴谷雄高の「闇のなかの黒い馬」が受賞した。三島由紀夫は選考委員の一人だつた。授賞式が帝国ホテルで開催されたのは同年十一月十七日。三島自決の八日前のことである。
 吉行は大正十三年四月生まれ、三島は大正十四年一月生まれだから、文字通り「同年配の小説家」なのに、「選ぶ側と選ばれる側」とに分かれてしまつた感慨がまづ語られる。 二十年ほど前、彼を「スタア」と呼んだのは友人だが、二十年後の彼を「スーパースター」と表現したのは吉行自身である。
 このあと著者は彼からかかつてきた電話のことを追憶する。

《「君の作品で、英訳されたものなにかある」
と、たずねる。彼と電話で話すのは、はじめてのことである。
「一つもない」
「え、一つもないの」
 そのことは十分知っていて、驚いてみせると感じた。彼の作品でいろいろの外国語に訳されたものが数十冊あるのは有名で、そのことを無邪気に得意がっている気配も裏に滲んでいるような声音である。そのときの彼の心の動きは分かることではないが、私はその声音を聞いた瞬間に、そう断定してしまった。》

 翻訳が一冊もない作家に対して、「無邪気に得意」がる、数十冊の翻訳を持つ作家。翻訳が一冊もない作家は自分に屈辱感を与へた相手の心理をあれこれ分析した上、昭和二十年代へと一気に思ひをはせる。

《彼の小児性を感じ、それは不快ではなくむしろほほえましいものだったが、それだけではない。彼の声を聞いたとき、昭和二十年代を通じての彼にたいする私の気持ちが甦ってきて、一種の緊張が走った。複雑に屈折した心の動きで、そのとき私の背中にできていたアレルギー性の炎症が、滲んだ汗で軽く痛んだ。
 敗戦につづく十年間は、日本人の大部分にとっては、金銭面でも心情の点でもとくに厄介な時期であった。私も例外ではなく、ジャーナリズムの世界の最低の部分で、地面を這いまわるように暮らしていた。そういう時代に、同じ年頃の青年が、同じ分野で華やかに輝いているのをみるのは、辛かった。
「彼はスタアなんだから」
と言った友人の言葉に、多少の皮肉も混じっていたかどうか。当時、その言葉を耳にしたときには、絢爛とした存在感に圧倒されただけだった。いま、はじめて気付いたのだが、「星」が輝いているのは自分の力だけではない・・・。》

 昭和二十年代、みじめに地面を這い回ってゐた自分、同じ分野で華やかに輝いてゐた彼。「スーパースター」の存在にコンプレックスを抱き続けた作家は「複雑に屈折した心の動き」をこと細かに吐露する。
 彼に対するコンプレックスを表白して終はるなら、吉行もはじめからこんな作品を書かなかつただらう。
 吉行は彼に対する小さな復讐を用意してゐた。復讐の材料は「演歌の女王」をめぐるあるエピソードだつた。

《その三年ほど前、あるパーティーで、旧くからの知り合いの女性に会うと、その女友だちであるスーパースターに引き合わせる、と言う。「演歌の女王」と呼ばれているその人物は、私と挨拶を交わしたあと、
「このごろ、小説家の人に会うことが多いわね。この前も、ほら、なんていったっけ。ほらほら、あの坊主の人」》
 
 知り合ひの女性とは中村メイコで、その友達のスーパースターの「演歌の女王」は美空ひばりである。美空ひばりから「あの坊主の人」と呼ばれたのが三島由紀夫だつた。(註1)

 このエピソードをある訪問客に話したところ、この話が少し形を変へながら彼(三島)の耳にも入る。そのことを「ある書物」を読んでゐて知つたといふ。

 「ある書物」といふのは、評論家秋山駿が十六人の作家との対談をまとめた『対談・私の文学』のことなのだが、「昭和四十四年の刊行で、この時期には私も小説家としてこの書物の中に彼と一緒に入れるようになっていた」と自分の立場が向上がさりげなく説明される。

 これに続く文章は読む者を驚かせる。「ある書物」における彼の発言の引用とその分析になんと十頁(※註2)が費やされるのだ、すべて、「あの坊主の人」といふ「演歌の女王」の言葉を、彼がどう受けとめたかを解明するために!
 著者は自分の疑問解明のために、彼の発言の長々しい引用を厭はない。さはりの部分を紹介すると―。

《『阿頼耶識にいろんな説がありまして、半分汚れているというのと、全然汚れていないという二つの説があるのですね。半分汚れているからこそ、因果を起こす。しかし、半分きれいであるからこそ、悟達への橋になる。ですから、この時間的空間的世界を成立たせている根本的なものが、もし汚れていないとすれば、やはり論理的矛盾がある。半分汚れているからこそ、この世界は成立っている。しかし、それだけでは、この世界は永久に汚れているから、その中に超越する契機があって、それがあるからこそ、それを媒体として、悟達にいけるのですね。・・・・解脱しちゃったら、小説書かなくなりますね。そこは問題ですけれども。主人公は解脱しても、こっちはかまわないですからね』
 そういう彼の発言があり、これに続く部分が、その箇所なのである。以前、走り読みしたときには、疑問は起こらなかった。
『このごろいろんな小説家に会う機会があって、坊さんみたいな人にも会った、と彼女は言った。やっぱり、あれだけの女ともなると、見るところは見ている。内心を見破られてしまった。さすがに、大したものだ』
 と、彼が言っていたように、理解していた。彼女が形態として言っていたことを心情の問題と取り違えたとおもった私は、「あれほど明敏な彼が」と呆気に取られたあと、しばらく笑い、「やはり、彼もその女王と同じようにスタアなのだ」との感慨をあらためてもった。》
 
 とここまで書いてきて著者は、しかし詳しく読み直してみると、「私の解釈は間違っていたかもしれない」と思ひ始める。そして、彼の正確な発言を、名前を伏せつつもご丁寧に註記を入れて引用する。

《 『だんだん僕もそんなことを言っているうちに、抹香臭くなったとみえて、この間ある男(筆者註、小説家で丁度そのころ参議院選挙に立候補した人物)が、こんな話をしていました。彼女がその友人(パーティーのとき私に彼女を紹介してくれた女性と同一人物)に会って、「この頃いろんな小説家になんだか会うチャンスがあったわよ、(と、ここで私の苗字名前が出ている)に会った。もう一人なんだか名前忘れちゃったけど、坊さんみたいな人よ」。その友人はすぐにわかって、「――でしょう」(笑)。確かに会って話をしたのです。やっぱり女はみるべきところを見ている。あの男も、彼女程度までいけば、参議院当選間違いなし。なかなかあの域まではいきますまい。高度なものです』》(註3) 
 そして、こんな感想を書きつける。

《スタアは、世の中の人間はすべて自分の名を知っている、とおもっている。逆にいえば、誰でもその名を知っているような存在だからこそ、スタアなのだ。》

 このあとに、本稿のはじめに紹介した、酒場で目撃した彼の描写が続く。

 彼の発言を何度も読み直してみて、
《スタアとしての立場にいる彼にとって、一度でも会っていながら、自分の名を失念する人間がいるとは夢想もしない筈ではあるまいか。》
 といふ著者が当初抱いた感想は、
《形態のことと分かっていて、「やっぱり女は見るところは見ている」と機知のある言葉をつづけたのではあるまいか》
と、変はつてくる。その評論家に電話で尋ねたりもして、彼の発言の真意についてあれこれ考へをめぐらせる作家。
 このあと、対談における彼の発言が二箇所にわたつて引用される。

《『(選挙に出ることなど)そっとしますね、考えると。あんなに民衆に阿諛してね。あんなことは絶対いやですね。どうせやるならば、貴族的なやり方がありそうなものですけれども、あんなやり方はいやですね。寡頭政治ならやってもいいけれども。独裁政治とはいいませんけれども(笑)』》

《『「英霊の声」という小説は、作品のできは知りませんけれどもね、僕はあれで救われたのですよ。昭和四十年に一連の短編を書いたことがある。あの時は自分がどうなるかと思いました。文学がほんとうにいやでした。無力感にさいなまれて、なのをしても無駄みたいで。なにか「英霊の声」を書いた時から、生き生きしてきちゃったのですよ。人がなんと言おうと、自分が生き生きしていればいいのですからね。あれはおそらく一つの小さな自己革命だったのでしょう。とともよかった。自分に調合した薬だったと思ったのです。もっとも作用が非常にひどい薬で飲み続けていると非常に気分がいいからいまにドカンと副作用で。(笑)』》

 (笑)に、彼独特の有名すぎるほど有名な高笑ひが思ひ起こす。そして、彼の最期についてこのやうに書きつける。

《その書物が刊行になって一年、授賞式の七日後(ママ)に、彼は市ヶ谷の自衛隊本部に、「楯の会」の同志を率きつれておもむいた。日の丸の鉢巻を締めた姿でバルコニーに立って演説をしたが、十分に声がと透らなかった。そのあと、彼は総監室で、切腹、介錯を受けて、死んだ。》

 谷崎賞の授賞式とそれに続くパーティーの席で、彼は遅刻したことを二度にわたつて詫びた。彼が遅刻を二度も詫びたことについて、《分刻みの行動を取っていた筈の自分にとって「十分間の遅刻」は、自分に許しがたいことだった》などとも思案し、最後にかう締めくくる。

《そういう些末なことよりも、はるかに大きな謎を残したまま、彼は死んでしまった。》

 三島由紀夫回想記としては平凡すぎるほど平凡な結語といふしかない。
 思ふに、吉行は、輝かし存在としての三島由紀夫とみじめな自分との対比を軸にしながら、そんな彼にとつて一度でも自分に会つた人間が自分の名前を失念するなど思ひもよらぬことだつたといふ美空ひばりのエピソードをオチにするつもりだつだ。しかしどうもそんことではないと思ひ直し、併せて彼の晩年の行動をも再考察してみたものの、結局、彼は「はるかに大きな謎」として残つてしまつた。そんな感じの文章のやうにもみえる。
 せつかく自分が文壇において彼と一緒に扱はれるやうになつたのに、気がついた時には、彼は天駈つてしまつてゐた。「はるかに大きな謎を残した」彼は、吉行にとつて「スーパースター」と呼ぶしかない存在だつたのかもしれない。




(※註1)
 この場面、中村メイコの証言によると、ざつと次のやうな具合だつたらしい。 中村メイコは旧知の三島由紀夫から「美空ひばりに一度会ひたい」と頼まれ、ひばりの公演の打ち上げパーティに三島を招待した。
 三島はひばりに「小説を書いております」と自己紹介するも、ひばりは三島のことを知らなかつた。すかさずメイコが「ひばりちゃん、こちら、小説家の三島由紀夫さんよ」 と告げる。
 ひばり「小説家つていふと、川口のパパ(川口松太郎氏)と、どちらが偉いのかしら?」
 三島 「は、そりやもう川口先生の方がずつと格が上でございます・・・」
と高笑ひ。

(※註2)
 「スーパースター」は昭和四十九年の「群像」五月号に発表されたあと、同年十一月刊行の短編集『鞄の中身』に収録された。十頁は単行本の頁数。


(※註3)
『対談・私の文学』の原文は次の通り。

《だんだん僕もそんなことを言っているうちに、抹香臭くなったとみえて、この間石原慎太郎が、こんな話をしていました。美空ひばりが中村メイコに会って、「この頃いろんな小説家になんだか会うチャンスがあったわよ、吉行淳之介さんに会った。もう一人なんだか名前忘れちゃったけど、坊さんみたいな人よ」。中村メイコはすぐわかって、「三島由紀夫でしょう」(笑)。確かに会って話をしたのです。やっぱり女はみるべきところを見ている。》

《石原も、美空ひばり程度までいけば、参議院当選間違いなし。なかなかあの域まではいきますまい。高度なものです。》

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ちば・てんせい。ジャーナリスト・評論家。皇室問題やフェミニズム問題に取り組む。三島由紀夫研究家。國語問題研究家。


フェミニズム論の著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

皇室関連の著作としては『天皇を喰ひ物にした侍従長』『天皇と宮内庁の「背信」』など。

執筆には正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を使用、当ブログも正仮名遣ひを用ゐる。

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