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■三島由紀夫雑記




 Gojira



     ▼『ゴジラ』を賞賛した三島由紀夫


 昭和29年に封切られた怪獣映画『ゴジラ』を三島由紀夫はいたく賞賛してゐたのだといふ。

 板坂剛が『概説 三島由紀夫』の中でそのことを書いてゐる。『映画藝術』の編集長だつた小川徹から、『ゴジラ』にまつはる三島由紀夫の話を聞いたとある。三島は雑誌『映画藝術』に映画評論を何度か寄稿してゐて、映画評論家でもある小川徹とは対談もするほど、ややヘソ曲がりでユニークなこの映画雑誌を愛好してゐた。

 三島死後のこと、板坂剛は小川徹から三島由紀夫の思ひ出を聞く機会があつたが、その時小川が真つ先に話題にしたのが『ゴジラ』のことだつたといふ。

 三島さんは『ゴジラ』について、
「あの映画はいい映画だ」
「優れた文明批評になつてゐる」
と称賛してゐた、といふやうな話だつた。

 「あそこはかうすべきだつた」とか、「僕ならかういふふうに書いた」とか、三島はしきりに云つた。そして、
「芹澤博士の死に方はいい。ああいう死に方は日本的な美しさがある」
とも口にしたといふ。

 芹澤博士とは、最後にゴジラを葬るために使用される水中酸素破壊剤「オキシジェンデストロイヤー」を発明した天才化学者のことである。

 「オキシジェンデストロイヤー」ならゴジラを殺せる。だが、水中酸素破壊剤が悪用されると人類が滅びる。これが使用されるのは今回一回限りにしなければならぬ。そして、芹澤は研究データをすべて焼却し、死の決意を固めるのだ(データは俺の頭に残つてゐるから俺も消滅させなければならない)。

 芹澤は南海サルベージの潜水士尾形とともに海中に潜り、ゴジラに接近する。尾形が水上にあがつたのを確認すると、装置を起動させ、「尾形、大成功だ」「幸福に暮らせよ。さよなら、さよなら」の声を残し、命綱をナイフで切断するのだ。

 芹澤と尾形は恩師の令嬢の元婚約者、現婚約者といふ関係にあり、三者のラブストーリーが、この怪獣映画のヒロイズム性をいやがうへにも高める役割を果たしてゐる。

 『ゴジラ』は観客動員数961万人を記録したが、映画批評家たちからは酷評された。「際物映画」「安つぽいヒロイズム映画」――インテリの批評家たちは小津安二郎や黒澤明のやうな「芸術作品」以外のものを認めるのは沽券にかかはると考へてゐたからである。
 
 そんな中で、映画『ゴジラ』の持つ独自性を見抜き、芹澤博士が慫慂として死にゆく場面を素直に好感したのが三島由紀夫だつた。三島由紀夫だけが『ゴジラ』を賞賛したことは、『ゴジラ』製作者たちの間にも語りつがれたといふ。

 『ゴジラ』にでてくる「大戸島」は、伊豆諸島あたりの設定であるが、実際に撮影が行はれたのは三重県の鳥羽周辺だつたらしい。

 三島由紀夫は昭和29年6月に『潮騒』を発表してゐる。『潮騒』の舞台「歌島」は鳥羽にある(モデルは鳥羽市神島)。前年には神島を取材し、この年の夏にも映画『潮騒』のロケに付き合つて神島を訪れてゐた。そんな親近感もあつたらしく、『ゴジラ』を観て、「懐かしい感じがした」とも語つたといふ。

 映画『潮騒』が封切られのは昭和29年9月、『ゴジラ』が封切られたのは12月のことだつた。どちらも東宝映画である。『潮騒』は谷口千吉が監督したが、『ゴジラ』人気の陰にかすんだのか、興行的には伸びなかつた。

 ゴジラ映画はシリーズ化され、これまでに日本で32本、アメリカで3本が制作されてゐる。多様なゴジラが登場し、米国製『GODZILLA』のやうに本家ゴジラとの乖離ぶりで悪評を蒙つた映画もあらはれたが、そのたびに、初代『ゴジラ』がどれほどよく出来てゐたかといふ本家の再評価に落ち着くことになる。スティーブン・スピルバーグが『ジェラシック・パーク』で追求したのも、初代『ゴジラ』の描いた恐怖を再現することだつた。

 世界映画史に残る『ゴジラ』の真価をひとり見抜いた三島由紀夫の眼は確かだつたといふべきか。

 

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■三島由紀夫雑記




  ▼瀬戸内晴美と三島由紀夫
   寂聴の「英霊の聲」と「十日の菊」の思ひ出



 瀬戸内寂聴は三島由紀夫を追憶する文章をいくつか書いてゐる。

 彼女が二十代で物書きを志してゐた頃、三島由紀夫にファンレターを出した。ファンレターへの返事は書かないと決めてゐた三島由紀夫だつたが、あなたの手紙はあんまりのんきで愉快だから思わず書いてしまつた、と返事がきた。それから文通が始まつた、と寂聴は記す。昭和二十五年、寂聴二十七歳のときの話である。

 寂聴より三歳若い三島由紀夫はすでに『仮面の告白』を出し、文壇の寵児になつてゐた。彼女は『仮面の告白』や「煙草」に続いて『愛の渇き』を読み、「この人は天才だ」と憧れ、早速ファンレターを送つたのである。

 彼女が少女小説を書き始めた時のペンネーム「三谷晴美」の名付親は三島由紀夫だつた。ペンネームの三つの候補名を書いて、どれかを選んでほしいと書き送つたところ、三島が選んだのが「三谷晴美」で、「この名が文運金運を招きます」とあつた。(三谷晴美は彼女の生まれた時の戸籍名、女学校時代に瀬戸内姓になる)。

 三谷晴美のペンネームで書いた少女小説は早速雑誌に掲載され、名付親から「かういふ時は名付親に対して気持ばかりの御礼をするものですよ。ハハハ」と催促され、彼女はピース缶をたくさん送つたといふ。

 それから十年もたたないうちに、瀬戸内晴美は少女小説の世界から脱皮して本格小説を書き始め、たちまち売れつ子作家の仲間入りをすることになる。
 
 三島没後の昭和五十年、三島由紀夫全集の月報に、瀬戸内晴美は「十日の菊」と題する文章を寄稿してゐる。

 昭和三十六年、三島由紀夫が自作の戯曲「十日の菊」を大阪で公演してゐた時、三島由紀夫の代理人から「三島さんがぜひこれを瀬戸内さんに観てほしいと云つてゐる」と連絡があつた。当時彼女は京都に家を構へてゐた。

 そのころ、「むやみに忙しがっていて、およそ、芝居を観たり、映画に出かけたりする時間を失っていた」ために、結局どうしても出向けなくて、そのままになつてしまつた。
 三島由紀夫が死んだ時、《私はなぜあの時「十日の菊」を観に行かなかつたのか》と瀬戸内を悔やませることになる。

 寂聴は『奇縁まんだら』の中で、こんなエピソードも紹介してゐる。

 三島由紀夫没後三十五周年の展覧会が神奈川の近代文学館で開催された。そこに三島由紀夫に宛てた瀬戸内晴美の葉書が出品されてゐた。

《 「英霊の聲」が河出書房の「文藝」に載った時、私がすぐ三島さんに出したものだった。私はあの作品を読んだ時、全身にゾクゾクと寒気が走り肌が粟だってきた。暗い海上にずらりと並んだ英霊たちの姿や顔が、私にははっきり見えてきた。》

 この葉書は三島由紀夫を喜ばせた。あれは何かが憑りついたやうに夢中で一挙に書いてしまつた、あんな経験は初めてだ、といふ返信があつた。

 三島全集月報の文章で、瀬戸内は、
「 やがて、川端さんも自殺された。」
「 それから、今年は村上一郎さんの自決があった。」
と書いてゐる。

 村上一郎は、日本浪漫派から日本共産党の方に行つたり、吉本隆明らと雑誌を出したりと、激情的気質を持つた文筆家だつた。瀬戸内晴美は村上一郎とも面識があつた。

 三島由紀夫は村上一郎の『北一輝論』を高く評価し、何冊も買つて楯の会の会員らにこれを讀めと薦めるほどだつた。

 奥野健男の『三島由紀夫伝説』によると、昭和四十五年六月十五日、60年安保で中樺美智子が死んだ命日に、村上一郎は旧海軍軍服姿で皇居前に赴き、日本刀抜刀の礼で樺美智子の霊を慰め、その足で奥野の家を訪問した。そして、「この近くの刀研ぎの名人のところでこれから刀を研いでもらふ。全共闘蜂起の時、その先頭に立つて、阻止する三島由紀夫と真剣勝負し斬り殺すのだ」と云つた。

 三島由紀夫、川端康成、村上一郎といふ三者の自決について、その受けとめ方は随分違つてゐる、と寂聴はいふ。

《 考えてみれば、私自身が、三島さんの自殺のショックを受けなければ、三島さんより早く、自殺していたかもしれないではないか。》

 川端康成の自殺の時も、「先じられた」という感じがあつた。

 村上一郎の自殺の時は、「先じられた」とは思はなかつた。「私は自殺すると同じエネルギーで出家し終えていたからであった。」

 瀬戸内晴美が得度して法名寂聴となつたのは昭和四十八年のことだつた。

■ 「没」書評




    「没」書評とは、羊頭狗肉的悪書などを俎上に載せ、
    「読んではいけない」理由を解説する目的で書かれたものである。


          **************



   ▼スターリンの満洲侵略を正当化する意図で書かれた『ソ連が満洲に侵攻した夏』




 半藤一利著『ソ連が満洲に侵攻した夏』(文春文庫)は、日本敗戦時の満洲について書かれた著作の中で,、今もつとも読まれてゐる一冊と思はれる。

 読者は、著者の名前に昭和史専門家のイメージをみると同時に、書名に惹かれてしまふのかもしれない。なにしろ署名には、「ソ連」「満洲」「侵攻」といふ「三点セット」がきちんと入つてゐるのだから。

 だが、日本の戦争についてあまりよく知らない人が、敗戦時の満洲で何が起きたかを知るためにこの本を買つたとすれば、大きな間違ひを犯したことになるだらう。

 ソ連軍は日本の敗戦間際に満洲になだれ込んだ。その後、満洲で起きたことについては、小さな図書館がひとつできるほどの著作・証言・記録となつて残れされてゐる。ソ連軍兵士による虐殺、掠奪、婦女暴行、そしてそれに続く日本人57万人のシベリア抑留である。

 ところが、『ソ連が満洲に侵攻した夏』には、ソ連軍兵士が満洲全土で繰り広げた蛮行・暴虐の詳細に関して、まともな記述はほとんど見られない。既刊の文献から僅かばかりの引用をしてお茶を濁してゐる。それらに関する記述は、全体の10分の1にも満たないだらう。

 ソ連は満洲各地から、ダムの発電設備から工場の機械設備など、おびただしい工業設備を掠奪し、3千輌の貨車に乗せて自国に持ち去つた。
 
 これについての著者の説明。

《 八月下旬、ソ連は満洲各地の工場などから機械そのほかを押収して、シベリアへ運びはじめる。》

 なんと、「押収」!なのである。

 「押収」とは、裁判所や捜査機関が証拠物などを確保する法的処分をいふ。犯人が強奪した行為を「押収」と表現する馬鹿がゐるか。

 ソ連軍は、巨大なダム発電機の基底部分をダイナマイトで爆破した上、それを日本人を使役してトラックに積み込ませ、さらにトラックから降ろして貨車に積み込ませた。このやうなことがことが行はれたのは一カ所や二カ所ではない、満洲のいたるところ数百カ所で行はれたのである。のみならず、掠奪した設備をあとで組み立てるために、各所の設備管理者やエンジニアたちをすべてシベリアに連行してしまつたのである。 

 ソ連軍兵士はこの年五月、ドイツに侵攻した時、あらん限りの婦女暴行、虐殺、掠奪に及んだが、さすがにダム設備の掠奪までは行はなかつた。ベルリンは都会だからダムがなかつただけの話である。

 ダム設備などを爆破して持ち去るといふ史上例をみない掠奪行為を、「押収」と言ひ換へた物書きは、私の知る限り、半藤一利以外にはゐない。

 この本では、ソ連軍の千島列島への侵攻についても、次のやうに説明される。

《 千島への米軍の進駐を、スターリンは本気で恐れていたのである。》

 スターリンは、アメリカに奪はれるのを避けるために千島列島に侵攻したといふのである。このやうにして千島侵略も正当化されるのだ。プーチンもさぞ喜ぶことであらう。

 本書の大半は、スターリンが満洲侵攻をいかに決意するに至つたかといふ説明(スターリンが満洲侵攻を意図したのはもつともである)と、無能な日本陸軍と関東軍がスターリンの意図を見抜けず、満洲の日本人をどれほど無慈悲に見捨てたかといふ説明に費やされる。

 シベリア抑留について著者は、「日本軍人をソ連で使役してもらひたいと申し出たのは日本側である」といふ事実を立証しようと試みる。しかし気の毒なことに、その証拠はついて出て来ないのだ。ソ連との降伏交渉に臨んだ売国参謀瀬島瀧三(抑留から帰還後、ソ連のスパイになつた)でさへ、さすがにそこまでは言はなかつたのである。

 左翼勢力の間では、終戦直後から、ソ連によるシベリア抑留を擁護する声がたへなかつた。

 「平和条約締結の前には捕虜を送還する義務はない」

 「ソ連には何らの不法も過失もない」

 ついには、「ソ連は、日本軍人が復員しても満足な食糧もないと考へて、莫大な費用をかけて日本人捕虜を養つてくれてゐるのだ」と、ソ連感謝論を発表する輩まで現れた。

 『ソ連が満洲に侵攻した夏』の基本姿勢は、これら左翼のシベリア抑留擁護論となんら変はるところはない。ただ巧妙に隠された意図に読者が気がつかないだけだ。

 満洲におけるソ連の暴虐を非難する論者のなかに、『ソ連が満洲に侵攻した夏』を推奨図書にあげてゐる人たちがゐる。唖然とする。

 この人たちは、この本の中身をロクに読んでゐないか、読んでも理解する頭がないかのどちらかとしか思へない。

 頭のよくない人々を騙すのはそんなに難しいことではない。

 




■「殺せ、もつと殺せ!」―毛沢東「大殺戮」の軌跡(3)




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   ▼一年間に380万人を処刑した「反革命鎮圧」運動





毛沢東が「反革命鎮圧」運動に本格的に乗り出したのは1950年10月のことだつた。

 この年の6月25日、北朝鮮軍が南進して朝鮮戦争が勃発。毛沢東は10月25日に人民義勇軍を投入し、朝鮮戦争に参戦した。

 闘争至上主義の毛沢東にとつては、反革命勢力の鎮圧も戦争も同じものだつた。目標は敵を殲滅することのみなのだ。

中共政府は1950年10月10日、反革命懲治令を出し、全土で反革命分子狩りが大々的に展開された。

 農村部では地主を殺し、都市部では反革命分子を殺す―これが毛沢東の清算闘争の基本的な考へ方だつた。

 中国全土で、反革命のレッテルを張つた人物とその「走狗分子」の逮捕と処刑の嵐が吹き荒れた。

 北京、天津、青島、上海、南京、広州、武漢、重慶などの都市では、数万人収容のスタジアムや体育館で、反革命闘争大会が開催された。

 会場には赤旗が林立し、「反革命分子を殺し尽くせ!」といふスローガンが怒涛のやうに叫ばれた。「反革命〇〇」と書かれた白布を首からかけられた者たちをひざまづかせて、罪状を読み上げ、死刑を宣告する。大会場では死刑の宣告者が数百人になることもあつた。

 闘争大会のセレモニーが終はると、かれらは上半身裸でトラックに詰め込まれ、沿道の群衆の罵声を浴びながら刑場へと運ばれる。刑場にも群衆が集められ、群衆たちは銃声が轟くたびに拍手と歓声を浴びせた。

 この頃、上海の共産党委員会は、「反革命分子を1500人殺害する」といふ処刑計画書を党中央に提出した。これを見た毛沢東は「1500人は少なすぎる。もつと殺すべきである」と指示を出した。
 
 毛主席の指示に慌てた上海市党委員会は、党員、軍事警察、労働者などで3万5000人の逮捕部隊をつくり、ある日、8300人を一斉逮捕した。このやうにして上海では、一年間に2万5000人以上を逮捕、その一割にあたる2500人を処刑して、毛沢東の期待に応へた。

 毛沢東は、広東省のある地区の党委員会に電報を送つた。
「反革命分子3700人を殺したことは素晴らしい。あと3000人乃至4000人を殺すともつと良いだらう。」

 湖北省の党委員会が中央の公安部に、「2万人を逮捕した」といふ報告書を送つた。この報告書の中に、「幹部の間ではパニックと大混乱が起きてゐる」といふ文言があつた。これを読んだ毛沢東は公安部長の羅瑞卿を呼びつけ、「このやうな報告は見たくない」と叱り飛ばした。
 (羅瑞卿はのちに文化大革命で毛沢東によつて粛清され、飛び降り自殺を図つた。両足を骨折したみじめな姿で糾弾集会に引き出され、獄中で悶死した。)

 毛沢東は、各地区から上がつてくる反革命分子殺害計画を細かくチェックし、目標数値を上げるやう命じた。

 この結果、全国の党委員会は、「処刑目標人数を〇〇〇〇人に引き上げました」「目標の〇〇〇〇人を達成いたしました」との報告書を競つて党中央にあげた。地方の党幹部たちは、最後は目標数値を達成するために、反革命分子だらうが何だらうが、手当たり次第に捕へ、処刑した。

 ある地区では、数十人の人名リストがあつたので、その全員を逮捕して処刑したところ、そのリストは「反革命」とはまつたく関係のないことがあとから分かつた。もともと反革命分子の選定基準などあつてないやうなものだから、同じことだつた。
 
 「反革命鎮圧」運動でどれほどの人間が殺されたのであらうか?

 ある調査は、1950年10月からの一年間に、「反革命鎮圧」運動で処刑された人間の数を380万人と推定してゐる。

 この間に逮捕・投獄・迫害された人間の数は数千万人にのぼる筈である。


     (続く)

■「殺せ、もつと殺せ!」―毛沢東「大殺戮」の軌跡(2)




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    ▼「両牛分屍」「自掘墳墓」による農民処刑
     「土地改革」清算闘争の大屠殺




 毛沢東が1949年に権力を掌握していち早く着手したのが「清算闘争」だつた。

 清算闘争とは、共産党支配に反抗する者を除去するための運動である。

 土地改革、反革命鎮圧、抗米援朝、三反五反、思想改造、反革命粛清、反右派整風などの名を冠せられたこれら運動のは、国共内戦時代から支配地ではすでに行はれてゐた。

 中華人民共和国は法治国家ではない。「運動」を法令に代行させるのだ。これが毛沢東のやり方だつた。、

 法令に拠るのではなく、群衆を利用して共産支配の反対勢力、反抗的な者を除去する。それが清算闘争である。

 「土地改革」と名づけられた清算闘争とはどのやうなものだつたか。

 共産党による農民向けプロパガンダは次のやうなものだつた。

《 農村人口の1割に満たない地主と富農が、8割の土地を所有して、人口の9割を占める貧農を搾取してゐる。これら特権階級は取り除かれなければならない。》
 
 実際には、中国にはヨーロッパのやうな封建土地貴族はをらず、ロシアのやうに土地に縛られた農奴もゐなかつた。しかし共産党は農民たちを、適当な理由をつけて、富農、中農、雇農、貧農などの「階級成分」に区分した。

 そして、地主たちを 「訴苦大会」といふ名の闘争集会に引きずり出して、虐殺したのである。

 「土地改革」清算闘争は、満州を皮切りに始まつた。

 共産党が大屠殺の手先として利用したのは、土匪、乞食、アヘン常習者らの反社会的分子である。

 共産党が郷村に入ると、真つ先にこれら反社会的分子を「基本群衆」に組織した。

 共産党が農民たちを集めて「訴苦大会」を開催する。地主らを壇上に並ばせて、まず「基本群衆」が共産党幹部に教へられた通りに、この地主たちがどんなひどいことをしたかを話す。そして他の「基本群衆」に、「殺せ、殺せ」と叫ばせるのだ。

 どの郷村でも、毎晩のやうに「訴苦大会」が開催された。

 地主たちは、文化大革命時にみられたやうに、紙製の高い帽子をかぶらせられ、胸には「悪覇同地主〇〇」と書かれた布が下げられた。

 「訴苦大会」に不可欠なのは、「群衆らを発狂せしめる」ことである。共産党は群衆の熱狂度を高めるために、地主たちを他地区の集会に引き出す方法を思ひついた。農民たちが見知つた地主だと同情心が起きてしまふ。見知らぬ地主だと憎悪心を煽りたてやすいといふ計算である。

 このやうにして大屠殺はエスカレートしていつた。

 地主の罪状を並べたてると、「基本群衆」が「銃殺」「銃殺」と連呼する。「大会主席」が、「人民の合意によつて銃殺に処する」と宣告する。土改隊員たちはただちに地主たちを会場の外に引きずり出し、穴の前で銃殺する、

 満州のある郷村では、「望郷台」で処刑する提案がなされた。地主を高い樹木に吊るしあげ、この男が「搾取」してきた郷村をながめさせてから殺す、といふアイデアである。しばらく吊るしてから縄をゆるめ、地上に落下させる。一度で死なない場合は、死ぬまで何回も落とした。

 地主の両足を二頭の牛・馬に縛りつけ、反対方面に走らせる股裂きの刑もよく行はれた。このやりかたは「両牛分屍」と称された。

 ある闘争会では、地主を馬の尾に縛りつけて。死ぬまで馬を走らせた。

 ある闘争会では、懐妊してゐる女地主を仰向けに寝かせ、亭主に腹を踏ませて殺した。

 「自掘墳墓」というのもあつた。地主たちに穴を掘らせてから、その中に突き落とすのである。

 「冷蔵」と称された方法は、地主を半殺しにした上で、雪の中に埋めて凍死させるといふものだつた。

 「訴苦大会」による虐殺をからうじて免れた地主たちも、一切を奪はれた。かれらは、乞食になるか、自殺した。

 「放手群衆」「加強領導」のスローガンが満州を荒れ狂ひ、満州は阿鼻叫喚の大地と化した。

 「土地改革」清算闘争は満州から中国全土に広がり、その犠牲者は全土で少なくとも300万人と見積もられてゐる。
  
 毛沢東が「人民公社」といふ名の農民収奪組織をつくる前の時代の話である。




   (続)
 

■ 「殺せ、もつと殺せ!」―毛沢東「大殺戮」の軌跡




     毛沢東
    


    ▼「殺せ、もつと殺せ!」―人類最大の虐殺者としての毛沢東




 世界の共産党支配の実態を克明に分析した『共産主義黒書』によると、20世紀に共産主義政権により抹殺された犠牲者(死者)の数は次のやうになる。

 中国      死者6500万人
 ソ連      死者2000万人
 北朝鮮     死者 200万人
 カンボジア   死者 200万人
 ベトナム    死者 100万人
 アフガニスタン 死者 150万人
 東欧諸国    死者 100万人
 アフリカ諸国  死者 170万人

 この数字は、処刑、死刑、強制収容所での死、強制労働による死、飢餓による死などを含む総計であるが、1億人近い死者の半分以上を中国が占めてゐることが分かる。

 国内を収容所群島化したスターリン治下のソ連の死者が2000万人であるが、毛沢東中国の死者はソ連の3倍以上といふことになる。

 『共産主義黒書』の原著が出版されたのは1997年だが、中国における死者6500万人といふ数字も今ではかなり過少な数字のやうな気がする。

 毛沢東の中国における死者は、文化大革命の死者が2000万人。これは毛沢東死後に中国共産党が公式に認めた数字である。

 文化大革命時をはるかに上回る死者を出したのが、大躍進(1958―62年)時代の大飢餓と虐殺による犠牲者である。その数は2000万人―3000万人といはれてきたものの、その後大飢餓時代の研究が進み、最近では4500万人といふのが定説になつてゐる。

 文化大革命時代の死者が2000万人、大飢餓時代の死者が4500万人となると、これだけでも6500万人になつてしまふ。

 1949年の中華人民共和国成立以来、毛沢東は、農業集団化、社会主義改造運動、百花斉放運動、反右派闘争などを繰り広げ、その度に反対派を投獄、処刑、虐殺してきて、その時代の犠牲者だけでも数百万を数へる。

 毛沢東は1930年代に共産党の実験を握つた後、粛清につぐ粛清、虐殺につぐ虐殺を重ねてきたから、政権をとる以前の毛沢東に殺された犠牲者の数だけでも膨大なものになる。

 毛沢東はその生涯に一体どれほどの人間を殺したのか?

 ヒトラーやスターリンが及びもつかない数の人間を殺したことだけは間違ひはない。

 「殺せ、もつと殺せ!」

 これが生涯を通じての毛沢東のモットーだつた。

 毛沢東は暴力と残虐の礼賛者だつた。

 『真説 毛沢東』の著者ユン・チアンは、「暴力への嗜好は毛沢東の性質から生じたもの」であると分析してゐる。

 革命の初期、毛沢東は残虐行為を見聞すると、「かつてない爽快さを覚える」と打ち震えた。

 暴力と残虐によつて恐怖を植え付けることが人民支配の手つ取り早い方法であることを毛沢東は知つてゐた。

 農民の煽動活動を指導してゐた頃、毛沢東は、「農村では、どの村でも恐怖現象をつくりださなければならない」と語つた。

 革命時に党内抗争が激化したころ、毛沢東は反対派にAB団(アンチ・ボルシェビキ)のレッテルを張つて殺しまくり、「すべての県、すべての地区でAB団を大量に殺戮せよ」と命じた。

 政権をとつた後でも、毛沢東の虐殺嗜好性癖は抑制されるどころが一層過激に発揮された。

 人民共和国成立後ほどなく、毛沢東は全党に向けてこんな指令を発した。

「農村では人口の千分の一を殺し、都市では1千分の〇・五を殺すのがよい」

 大躍進時代の初期、大量飢餓死の報告を聞いても、毛沢東は平然と言ひ放つた。

 「死は結構なことだ。土地が肥える」

 この頃、党大会ではこんな発言もした。

 「世界大戦などと言つて大騒ぎすることはない。人が死ぬだけだ。人口の半分が殲滅されるといふ程度のことは中国の歴史では何度も起こつてゐる。人口の半分が残れば最善であり、三分の一が残れば次善である。」

 毛沢東にとつて、人民が100万人死ぬのは、ネズミが100万匹死ぬのと変はりはなかつた。

 毛沢東と殺戮といへば、日中戦争時、日本軍が南京に入城した際、毛沢東はこんな意見を披瀝してゐる。

 「日本軍は戦術的に間違ひを犯した。城内で殲滅すべきだつたのだ。」

 軍民問はず城内のすべての人間が殺されたといふ「南京大虐殺」の話は、国民党軍のプロパガンダだつた。毛沢東はそれをよく知つてゐたのである。
(戦後、中共政府が南京大虐殺の数字を誇大に宣伝し始めたのは、毛沢東死後、江沢民政権になつてからである。)
 
 話が逸れた。

 革命時代、中国共産党はスターリンから資金と指導を受けてゐた。テロル、粛清、洗脳、強制収容所といつた弾圧手法の多くを毛沢東はスターリンから学んだが、毛沢東が独自に編み出したものも少なくなかつた。

 強制収容所の種類、洗脳の手法、拷問方法などは、ソ連にはみられない多様なものが考案された。

 大飢餓時代、食糧を全部出せと農民を拷問することが日常化してゐたが、人民公社の党役人たちには、新たな拷問方法を考へることが奨励された。かれらは「俺は70考へた」「俺は150」と自慢しては、それを農民に試して死に追ひやつてゐたのである。

 大飢餓時代の人肉食の記録はおびただしく存在するが、毛沢東支配を通じて、共産軍の兵士や役人が虐殺した人間の腹を断ち割つて、内臓を分けて食べたなどといふ話も珍しくはない。

 毛沢東の時代は、人間の残虐性の底知れぬ怖さを我々に教へてくれる。

 中華人民共和国をつくりあげたのは毛沢東である。

 毛沢東が分からなければ天安門虐殺事件は理解できない。

 毛沢東が分からなければチベット弾圧は理解できない。

 毛沢東が分からなければ習近平の中国も理解できない。

 そして毛沢東を理解するためには、毛沢東による大殺戮の歴史を知らなければならないのである。


      (続く)

■プーチンとスターリン 2






  ▼北方領土強奪を正当化するための「対日戦勝記念日」




 

 ロシアの対日戦勝記念日は、日本の敗戦に付け込んだ火事場泥棒的北方領土強奪を正当化するためのもので、ロシアにとつて、対ナチスドイツの大祖国戦争勝利記念日とは甚だ意味合ひが異なる。


 ソ連軍は昭和20年8月9日、満州に侵攻して掠奪を開始。日本がポツダム宣言を受諾して降伏した8月15日、スターリンは極東軍司令官にクリール諸島(千島列島)への侵攻を命じた。

 ソ連軍が歯舞諸島までの全北方領土の侵攻を完了したのは9月5日だつた。

 ミズリー号上で日本が降伏文書に調印したのは9月2日であるから、ソ連軍はその後も強奪行為を継続してゐたわけである。

 スターリンは千島侵攻の翌日、プラウダに声明を出し、千島侵攻の理由を並べ立てた。それは連合国向け、といふよりアメリカ向けのアピールだつた。

《 天皇が行つた降伏の発表は単なる宣言にすぎない。日本軍による軍事行動停止命令は出されてゐない。・・・極東のソ連軍は対日攻撃作戦を続行する。》
 
 プラウダに声明が載つた16日、スターリンはトルーマンに、全クリール諸島のほか北海道の北半分を要求する電報を打つ。しかし、北海道侵攻はトルーマンに拒否された。

 ソ連軍が歯舞群島に上陸した9月2日、スターリンの国民向けの長い戦勝メッセージがラジオを通じて流された。

《 我が国に対する侵略を日本は1904年の日露戦争によつて開始した。帝政政府の衰えを利用して日本は背信的に宣戦布告なく我が国を攻撃した。ロシアは敗北を喫し、日本は南サハリンを横取りし、クリール諸島に地盤を固めた。》

 このスターリンメッセージは、ソ連政府の日露戦争評価を180度転換させたものとして重要な意味を持つ。

 ソ連の公式文書では、日露戦争勃発の原因と敗戦の責任は帝政ロシアにあるとされてきたからである。

 ソ連のイデオロギーを集約した「全ソ連邦共産党史小教程」では、日露戦争についてかう説明されてゐた。

《 レーニンとボリシェビキは、この掠奪戦争で帝政政府が負けたことは有益で、それがツァーリズムの弱体化をもたらし、革命の強化をもたらす、とみなしてゐた。》

 ところがスターリンは、、日露戦争は帝政ロシアに対する日本の侵略戦争にほかならないと、レーニンの教説を引つ繰り返してしまつたのである。千島列島強奪を正当化するために。

 そしてスターリンは、9月3日を「帝国主義日本に対する勝利の日」と宣言した。

 これが対日戦勝記念日の由来である。

 ソ連崩壊後もロシア連邦は9月3日の対日戦勝記念日を引き継いだが、その後、ロシア国内には新たな記念日を制定する多くの動きがあつた。

 例へば1998年には、9月2日を「軍国主義日本に対する勝利の日」とする法案が、ロシア国家院などで採択された。日本政府がこれを阻止すべく働きかけた結果、当時のエリツィン大統領が拒否権を発動して法案は廃案になつた。

 ところが2010年になつてロシアでは、9月2日を「第二次世界大戦終結の日」とする法案が議会に提出され、メドベージェフ大統領が署名して成立した。


 新記念日は、対日勝利の意義は後退したやうに見えるが、それは表向きだけのこと。

 北方領土問題に関して、新記念日はロシアにとつて次のやうなメリットがあつた。

 第一に、9月2日を対日勝利記念日とするアメリカはイギリスなどと歩調を合はせることによつて、ロシアは連合国の一員だつたと強調することができる。

 第二に、9月2日を戦争終結の日と明示することで、この日以前のソ連の行動、つまり千島侵攻を正当化することができる。

 つまり新記念日は、千島占有を正当化したいというロシアの思惑が色濃く反映したものだつたのだ。

 同国での第二次世界大戦の終結日を、ソ連時代に「対日戦勝記念日」としていた9月3日に変更する法案に署名した

 9月2日の「第二次世界大戦終結の日」がまた9月3日にもどされたのはことし4月のことだ。

 サハリン州出身の下院議員らが、ソ連時代に対日戦勝記念日として祝日にもなつてゐた9月3日に変更することを盛り込んだ法案を提出。上下両院で可決され、プーチンがこれに署名した。

 千島諸島はサハリン州の管轄下にあり、サハリン州選出の議員たちはかねてから、9月2日を「第二次世界大戦終結の日」とするのはアメリカへの追随主義だ。ソ連時代と同じやうに9月3日の「対日戦勝記念日」に戻せ、と主張してきた。

 9月3日は、中国の「人民抗日戦争及び世界反ファシズム戦争勝利記念日」でもある。
 プーチンが対日強硬派の提案に乗つたのは、中国との連携強化を図るプーチン戦略にも適つてゐたからである。

 ことしの9月3日にはモスクワで、ナチスドイツと軍国日本を打ち破つた記念日としてさぞかし盛大なパレードが行はれることだらう。

 「第二次世界大戦」はまだ終はつてゐない。

 

■プーチンとスターリン




  ▼大祖国戦争とプーチン
   金正恩に贈られた「大祖国戦争勝利75周年」記念メダル




 ロシアのメディアによると、ロシア政府は5月5日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長に「1941-1945年・大祖国戦争勝利75周年」記念メダルを授与した。記念メダルは、アレクサンドル・マツェゴラ駐北朝鮮ロシア大使から李善権北朝鮮外相に手渡された。

 金正恩に記念メダルが贈られたのは、「北朝鮮領土で死亡し埋葬されたソ連市民の記憶永続に対する多大な貢献、また同国内のソ連兵士の埋葬地および記念碑の維持における配慮」によるものとされる。

 大祖国戦争とは、1941年6月22日から1945年年5月9日まで、旧ソ連がナチスドイツと戦つた戦争をいふ。

 ロシア帝国に侵攻したナポレオン軍を撃退した戦争は祖国戦争と呼ばれ、スターリンはこれに倣つて対独戦を大祖国戦争と称し、ナショナリズを鼓舞したのである。

 ソ連が日本の敗戦間際に参戦した対日戦争は大祖国戦争には含まれない。

 対独戦における勝利こそが旧ソ連体制を支へる最大の国家イデオロギーだつた。

 邪悪で狂信的な軍国主義国ナチスドイツを打ち破つたのは、偉大な指導者スターリン大元帥に率いられた共産主義国ソビエト連邦である―。

 このソ連の対独戦勝利イデオロギーだけは、スターリン批判が起こつた後も揺るがす、ソ連崩壊後も生き残り、プーチン政権になると大祖国戦争賛美の度合ひが甚だしくなつた。

 そんなわけでプーチン政権は5月9日の大祖国戦争戦勝記念日を毎年盛大に祝つてきた。ことしは75周年を迎へるとあつて、プーチンも張り切つて、外国の元首クラスを招いた大規模な記念式典を予定してゐたものの、コロナウィルス禍の襲来で、5月9日の大祖国戦争戦勝記念式典は延期を余儀なくされる。

 延期を決めたのは一カ月ほど前のことだが、実際今では、ロシア国内のコロナ感染者は一日一万人の驚異的なペースで増加してゐて、戦勝記念式典どころではない。

 ロシアでは65周年、70周年など5年ごとに記念メダルを大量に作つて国内外にバラまき、ヤフーオークションなんかにもたくさん出品されてゐる。

 記念式典は延期になつてしまつたが、準備した70周年記念メダルだけは5月9日(明日だ)に合はせて配り始めてゐるらしく、金正恩に贈られたのもそのひとつといふわけだ。

 で、プーチンが延期になつた大祖国戦争戦勝記念式典の日取をいつに変へたかといふと、9月3日。

 9月3日は対日戦勝記念日である。この日に、対日戦勝記念式典と大祖国戦争戦勝記念式典を一緒にやりたい、とロシアは各国に通告したのである。

 既に報道されてゐる通り、5月9日の大祖国戦争戦勝記念日の招待にはOKを出してゐた安倍首相も、9月3日の開催なら出席しない、と断りの返事を出した。

 対日戦勝記念日に、当の日本の首相に参列をお願ひしたいとヌケヌケと言ひ出すのがロシアといふ国である。

 対日戦勝記念日は旧ソ連時代には9月3日だつた。ロシア連邦もそれを引き継いできたが、プーチン時代になつてそれが9月2日に変はり、また9月3日に戻された。

 対日戦勝記念日の変遷の裏には、ロシアの日本に対する腹黒い戦略があることを知らなければならない。

 そのことは次回に。


      (続く)
■北朝鮮の行方




         56



   ▼金正恩重体説はガセネタだつたのか謀略か?



 北朝鮮の金正恩が姿を現したことで、韓国では、金正恩重体説などを唱えてゐた脱北者の国会議員二人が謝罪するハメになつた。

 北朝鮮北朝鮮の労働新聞と朝鮮中央テレビが二日に金正恩の順川・肥料工場の竣工式出席を報じてからといふもの、「金正恩氏は自ら立ち上がることも、まともに歩くこともできない状態」「金正恩氏の死亡率は99%と確信する」と主張してゐたこの二人は、「偽情報の煽動者」などと悪罵と糾弾を浴びて、「国民の皆様にお詫び申しあげます」と謝罪に追ひ込まれた。

 韓国政府は、「金委員長になんらの異変は起きてゐない」といふ我々の情報が正しかつたと鼻高々である。

 韓国政府は、北朝鮮軍は金正恩の健在を誇示した翌日、非武装地帯の韓国軍監視哨所に向けて高射銃をぶつ放した。

 北朝鮮軍が使用したのは14.5ミリ高射銃といふ対空兵器だといふのに、韓国政府は「偶発的なもの」と平然としたものである。

 14.5ミリ高射銃(重機関銃)は北朝鮮の戦車などにも搭載され、最大射程8キロ。一分あたり600発の発射能力がある。金正恩が義理の叔父の張成沢を処刑する際にこれを使用し、張成沢の体は四散したとされる。
 
 金正恩再登場後の韓国政府の反応をみてゐると、まるで「偉大なる金正恩委員長様」を称へる北朝鮮メディアのやうだ。

 金正恩の再登場後も影武者説はたへないが、それ以外に謎めいたことは色々ある。

 金正恩が順川にある肥料工場竣工式に出席したとされるのは5月1日である。

 写真や動画をみると、竣工式は広大な敷地に大がかりな式場をしつらへ、多数の民衆を居並ばせたビッグイベントである。

 順川は平壌の北わずか50キロのところにある。

 5月1日といへばアメリカや韓国が金正恩の行方を血眼で探してゐた日である。

 まさにその日に、平壌のわずか北50キロのところで大々的に開催されてゐたビッグイベントと、そこに登場した金正恩の姿を、アメリカも韓国もまつたく察知できなかつたといふことになる。

 その直前まで、金正恩が滞在してゐたとされる南山に列車が長らく停車してゐたが、これはアメリカや韓国に対する陽動作戦だつた可能性もある。もしさうだつたとすれば、北朝鮮はアメリカや韓国の裏をかいて再登場作戦を練つてゐたわけである。

 肥料工場竣工式が実際は5月1日ではなく他の日だつたとしても、アメリカも韓国もその事実を把握してゐなかつたことにかはりはない。

 アメリカと韓国の諜報力とはその程度のものだつたと考へるしかない。

 金委員長が元気でよかつた! 殺戮をやめない独裁者と、腫物をさはるやうに独裁者に接する無能無策な国々。
 
 再登場した金正恩が本物であつても偽物であつても、北朝鮮はアメリカや韓国の目を欺くだけの能力を依然として保持してゐることだけは間違ひない。


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tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト・評論家。皇室問題やフェミニズム問題に取り組む。三島由紀夫研究家。國語問題研究家。


フェミニズム論の著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

皇室関連の著作としては『天皇を喰ひ物にした侍従長』『天皇と宮内庁の「背信」』など。

執筆には正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を使用、当ブログも正仮名遣ひを用ゐる。

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