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■「日中国交回復」の正体 





  ▼ニクソンゆかりの地で歴代政権批判演説を行つたポンペオ国務長官(続)
   天安門事件で民主派勢力を見殺しにしたニクソンとキッシンジャー

 


 天安門事件が起きたのは1989年6月4日である。

 事件から20日ほど後、ニクソン元大統領はロサンゼルスタイムズ紙に次のやうな意見を寄稿した。

《 ブッシュ大統領は、中国叩きの奇妙な連合から、強硬な行動を起こすよう圧力を加へられてゐる。中国とのあらゆる関係に反対する極右は、経済的・外交的制裁を求めてくるだらう。人権ロビーもまた、我々の利益や、制裁で最も苦しめられる数百万の人々のことは気に懸けず、我々の規範に従はない体制全てを罰することを求めるだらう。ブッシュ政権は、かうした過激論者の声を無視し続け、既に定めた慎重な方針を継続すべきである。》
 
 ブッシュ大統領は事件直後に「私は平和的なデモ参加者に対する武力行使の決定を遺憾に思ふ」といふ非難声明を発したが、それは極めて抑制的な調子のものだつた。ブッシュ政権は事件2日目に、対中武器売却の中止、軍の相互訪問中止などの制裁措置を発表したが、それは議会の民主党や共和党保守派の要求に押されてのもので、対中制裁はブッシュの本意ではなかつた。実際その数日後には記者会見で、「今は感情的反応を示す時ではなく、熟慮を重ねた上で慎重に行動する時だ」と本音を吐露してゐる。

 ニクソンの寄稿文にある、「中国叩きの奇妙な連合(a strange coalition of China-bashers)」とは、リベラルな民主党と共和党の保守派が手を結んで、対中強硬制裁を主張してゐることを指す。ニクソンにとつて、対中制裁を求める共和党の保守派は「極右」にほかならず、これら「過激論者」の声などは無視して、制裁は慎重であれ、とブッシュ政権に呼びかけたのである。

 中国との国交回復の立役者だつたキッシンジャーも7月30日付けの同紙に、対中制裁に反対する意見を寄稿した。

《 世界のいかなる政府も、自国の首都の中心にある広場が数万のデモ隊に8週間にわたって占拠されてゐる状況を甘受することはない。・・・懲罰的な制裁はいつか失敗するだらう。それは、地政学的現実が米中の和解を決定付けるからである。・・・米中関係が近年成長を遂げてきたのは、米国が中国の内政から距離を置いてきたからである。》

 ニクソン大統領の子分だつたブッシュは、ニクソンの対中関与性政策の忠実な継承者であつた。ブッシュはニクソンとキッシンジャーの提言に従つて、事件の一カ月後に、キッシンジャー派のスコウクロフト補佐官とイーグルバーガー国務副長官を極秘に訪中させた。そして、7月には早々と対中武器売却を解除させたのである。

(スコウクロフトとイーグルバーガーは12月にも訪中し、歓迎晩餐会でスコウクロフトは、私共は米中関係改善を妨害する米国内の「否定的勢力(the negative influence)」を消滅させるために訪中しました、と発言して中共首脳部を喜ばせた。この発言がマスコミで暴露されると物議を醸し、共和党内の対中穏健派議員らからも、「誤つた時に発せられた誤つたメッセージ」と批判を浴びた。)

 ニクソンとキッシンジャーも11月に別々に訪中した。二人は「私人」としての訪中とされたが、ブッシュ政権の意向であつたことはいふまでもない。中国側がブッシュ政権に強力に働きかけた結果である。帰国後、ふたりはブッシュ大統領に対して、「中国と良好な関係を復活させることは我が国の国益に適ふ」とアドバイスし、ブッシュ政権の制裁解除を後押しする役割を果たした。ニクソンは共和党内の強硬派議員に制裁解除に賛成するやう説得の電話をかけまくり、その姿はほとんど中共政府のロビイストを思はせた。

 共和党内の対中強硬派の先頭に立つてゐたヘルムズ上院議員は、ブッシュ政権の制裁解除を批判して次のやうに訴へてゐた。

 「中国の共産主義者の指導者たちは、彼らが歴史的に行つてきた人権抑圧を止めることを望んでゐない」

 「この残虐行為への対応として、我が国の共産主義政府との軍事協力及び技術共有を終はらせなければならない」 

 「我々は、いかなる共産主義国家に対する兵器供給ビジネスにも決して関はるべきではなかつた」

 「世界は共産主義の国と自由諸国に分かれてゐることを理解しなければならない」

 「我々は共産主義にできる限り譲歩した。しかし、我々は敗れた。自由は敗れたのだ」

 天安門事件後の米国政治家の発言の中で、今回のポンペオ国務長官の演説に一番近いものを探すとすれば、これらヘルムズ上院議員の発言であらう。

 ヘルムズ議員はこんな発言もしてゐた。「誰も中国共産主義党政府を制御することはできない。かれらはまつたくガラガラヘビと同じである。何か事が起きれば噛みついてくるのだ」。ヘルムズが使つた「噛みつく」(bite)といふ言葉が、ポンぺオ演説にも登場することに気がつくと思ふ。

 ヘルムズ上院議員は、ニクソン大統領の訪中を、ナチヒトラーに対するチェンバレン英首相の「ミュンヘン宥和」に例へたほど、ニクソン=キッシンジャーの対中関与路線を批判してきた政治家である。

 ポンペオ国務長官は演説の中で、ニクソン元大統領が晩年にもらしたとされる、こんな述懐も紹介してゐる。

《 中華人民共和国を国際社会に迎へ入れたことが、フランケンシュタインを生み出してしまつたことを私は恐れる。》

 ニクソンのこの言葉は、解釈が分かれる。ニクソンを20世紀最大の戦略外交家として評価する人々はかう解釈する。ニクソンは、中国を対ソ連抑止のチャイナカードとして使ふためだけに中国と国交を回復したのではない、ニクソンは中国が将来恐るべき大国になることも見据えてゐたのだ、と。

 他方で、ニクソンの対中外交を批判する人々はかう解釈する。ニクソンのフランケンシュタイン発言は、自分の対中外交が間違つてゐたことを死ぬ間際になつて認めたのだ、と。

 ポンペオ長官が、あのニクソン元大統領でさへ最後には自分の誤りを認めたのだ、といふ証左としてこの言葉を紹介したとすれば、ニクソンに対する痛烈極まりない皮肉といふしかない。

 ここでひとつ誤解のないやうに言つておきたい。これらポンぺオ演説など米政権高官の言葉だけをとらへて、トランプ大統領その人が、天安門事件当時の共和党強硬派と同じやうな信念の持ち主だと考へてはならない、といふことだ。
 
 ボルトン元補佐官は、トランプ大統領が中共政府の新疆ウイグル自治区における弾圧政策に理解を示し、2019年に香港で起きた大規模な民主化デモにも無関心だつた、と証言してゐる。

ドナルド・トランプといふのは、大統領選挙に出馬する前、天安門事件で犠牲になつた学生や市民たちを「暴徒」と呼んでゐた男なのである。


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■「日中国交回復」の正体




  ▼「アメリカの中国関与政策は失敗だつた―」
    ニクソンゆかりの地で歴代政権批判演説を行つたポンペオ国務長官

 
   

 アメリカのポンペオ国務長官は7月23日、カリフォルニア州のニクソン記念図書館で、「習近平国家主席は中国共産主義による世界制覇の野望を抱いてゐる」「われわれは新しい独裁国家に打ち克たねばならない」と中国を激烈に批判する演説を行つた。

 ポンペオ演説で注目したいのは、「中国への関与政策は我が国が膨大な赤字を抱える結果に終はつた」「中国に無分別に関与する古臭いパラダイムはもはや捨てさるべきである」と歴代政権の対中政策批判を強調したことにある。

 ポンペオ長官はさらに、
 「自由世界が共産主義体制の中国を変へなければ、共産中国の方がわれわれを変へてしまふだらう」
 「中国は一段と権威主義化して、自由世界を敵視し、攻撃を仕掛けてゐる」
 「中国共産党を信頼してはならない」
と弁舌をふるひ、
 「自由世界は新しい独裁国家に打ち克たねばならない」
と打倒共産中国への結束を呼びかけたのである。

 ポンペオ演説は、オブライエン補佐官、バー司法長官、レイFBI長官に続く、トランプ政権首脳部による対中批判の第4弾である。トランプ政権は5月に、「アメリカの対中国戦略的アプローチ」といふ報告書を発表してゐる。この報告書は「過去20年間の対中関与政策は誤りだつた」と明言してゐて、ポンペオ長官らの演説も基本的に報告書の見解に沿つたものだ。

 ボルトン元補佐官が暴露本で、トランプ大統領には一貫した外交戦略などなく、あるのは自分の再選のことだけだ、と書いてゐる。ボルトンの見解に与する私は、中国批判をエスカレートさせるトランプ政権の意図(中共政府は単なる選挙対策とみなしてゐるフシがある)には関心がない。

 ただ、ポンペオ演説で私の興味をひくのは、歴代政権の対中政策批判の演説を行ふ場として、なぜニクソンゆかりの地(同図書館敷地内にはニクソンも埋葬されてゐる)を選んだのか、といふことだ。

 ポンペオ国務長官は演説の中で、ニクソン元大統領についてかう言及してゐる。
 
●来年はキッシンジャー博士の秘密訪中から半世紀を迎へ、2022年はニクソン大統領訪中から50周年にあたる。

●世界は当時とは大きく変貌した。

●われわれは、中国への関与政策が共生と協力の明るい未来を約束すると想像した。

●ニクソンは1967年にフォーリンアフェアーズへの寄稿記事の中でかう云つた。「長い目で見れば、中国を永遠に国際社会の圏外においておく余裕はない。中国が変はるまで、世界は安全ではあり得ない。・・・われわれの目標は、中国に変化を誘発させることである」と。

●歴史的な北京訪問で、ニクソン大統領は中国に関与する戦略を開始した。ニクソン大統領は、より自由でより安全な世界を希求し、中国関与政策が中国内部の変化を誘発することを期待した。

●しかし、その後の我が国の中国関与政策は、ニクソン大統領が望んでゐたやうな中国内部の変化をもたらさなかつた。自由諸国は中国の脆弱な経済を支援してきたのに、中国はそれに感謝するどころか、手を差し伸べる国々にかみついてきたのだ。

●我が国は中国市民にも門戸を開いたが、中国共産党がやつたのは、記者会見場、研究機関、高校、大学、さらにはPTA組織にまでプロパガンダ要員を送り込んむことだつた。

 ポンペオ国務長官のニクソン元大統領に対する考へ方は、かう要約できるだらう。

 ニクソン大統領は中国が自由で開放的な国になるのを願つて中国を国際社会に迎へ入れた。しかし中国はニクソン大統領の好意を裏切つて、アメリカはじめ自由諸国に牙をむき始めた。歴代政権は中国の暴虐に対して有効な手を打たなかつた。それが中国を増長させ、中国共産党は今や世界制覇を目論むまでになつてしまつた―。

 ポンペオの演説は、ニクソンに関して、大事なことがひとつ抜けてゐるやうに思ふ。それは、中国を今のやうな独裁専制国家に育てあげたことについて、ニクソンに責任はなかつたのか、といふことである。

 ニクソンが訪中して中国と手を結んだことを言つてゐるのではない。中国が西側諸国と国交回復するのは時間の問題だつた。私が云ふのは天安門事件のことである。

 天安門事件の後、アメリアはじめ西側諸国は中共政府に対して足並みを揃へて制裁措置に踏み切つた。ところが、早々に制裁措置の解除に動いた国があつた。それはどこの国だつたか?アメリカなのである。
 
 そして、対中制裁措置を発動した当時のブッシュ政権に、制裁を解除させるべく画策した人物がゐた。誰か? ニクソン元大統領とニクソンの腹心だつたキッシンジャー元補佐官・元国務長官なのだ。

 中国における民主化の流れを逆流させ、中共政府を毛沢東時代の全体主義体制に戻したのが1989年の天安門だつた。圧殺された民主化勢力を救ふことができるのは西側諸国しかなかつた。今の香港情勢をみれば分かるであらう。しかし天安門事件のあと、アメリカ政府が救済したのは、民主化勢力ではなく、中共政府であつた。そして、中共政府の救済に一番功績があつたのがニクソンとキッシンジャーだつたのである。


     (続く)

■「日中国交回復」の正体






  ▼周恩来に招かれた「鬼の大松」
  「東洋の魔女」と中国女子バレーボールチーム





 周恩来が総理在任中、三顧の礼で招いた日本人がゐる。東京オリンピックで女子バレーボールチームに金メダルをもたらした大松博文である。

 東京オリンピックのあつた昭和39年(1964)の11月、大松博文はエキジビジョン試合で日本チームを率いて訪中し、周恩来総理から二度にわたつて招きを受けた。その時、周恩来から中国女子チームを指導してもらへないかと依頼を受けたのである。

 そして翌1965年4月、大松監督は上海で一カ月間、中国女子バレーボールチームを指導することになつた。

 大松監督の正式招聘が決まる前、北京の中南海で共産党指導者たちを集めて映写会が開催された。それは、「鬼の大松」が「東洋の魔女」と呼ばれた日紡貝塚チームを鍛える練習風景を追つた、日本制作のドキュメンタリー映画だつた。周総理が大松監督を中国に招聘することを考へてゐるといふので、外事弁公室が幹部たちに観てもらはうと企画した映写会だつた。大松監督の「おれについてこい」「なせばなる!」といふスローガンは中国でもよく知られてゐた。

 通訳としてその場に立ち会つた周斌の著書『私は中国指導者の通訳だった』(岩波書店)によると、映写会には鄧小平や彭真らもゐたといふ。

 映画が始まると、大松監督が一人の部員に200回のレシーブを命ずるシーンが出てきた。監督がボールを速射砲のやうに部員の左右に投げつける。セービング、バックと受けてゐた部員は最後には顔を両手で守つてからうじて立つてゐるだけになるが、大松は容赦なくボールを投げ続け、「できないなら死ね」と叫ぶ。特訓が終了すると、彼女は蹌踉と立ち上がり、監督に「ごめんない、ごめんなさい」と謝り続ける。

 これを見ていた鄧小平は頭を横にふりながら、「信じがたい」と何度もつぶやいた。

 鄧小平は「骨身を惜しまずトレーニングすることは必要だが、ヒューマニズムと科学的精神も必要だらう。女子より中国の男子の方が苦しさによく耐へられるかもしれない。彼にまづ中国の男子バレーチームを訓練させることを総理に提言してみなさい」と言つた。

 これに対し、彭真ら他の幹部たちは鄧小平とは違ふ感想を抱いてゐたと周斌はいふ。往時の日本の武士道精神や特攻隊はこのやうに鍛えられたのかもしれない、と。

 彭真らの日本精神との連想などはさもありなんと思はせるが、数々の死線をくぐり抜けてきた鄧小平が、たかがスポーツの「死の特訓」に拒絶反応を示したといふこのエピソードは、のちに彼が命じた天安門弾圧事件などを思ひ合わせると、なかなか興味深いものがある。

 大松監督は上海でのトレーニングで、選手たちに一日10時間の過酷な練習を深夜まで課した。医者と救急車を待機させ、回転レシーブの特訓でフラフラになつた選手に「やる気がないなら田舎へ帰れ」と怒鳴りつけた。それは日本の選手への特訓のやり方とまつたく変はりがなかつた。

 耐へかねたある選手は、大松監督をすごい形相でにらみつけ、「大松の鬼、あんたにかみついてやる」と食つて掛かつた。

 大松は通訳に「この選手はなんて言つたのか?」と聞いた。

 通訳は仕方なく、「大松さん、もつとやつて下さい。あなたなんか怖くないから、と言つてます」とごまかした。彼女の顔をみれば、これがウソであることはすぐ分かる。日本にも反抗的態度を示す選手はゐたけれど、さすがに「かみついてやる」とまでは言はなかつた。

 女子チームを指導してゐたある日、大松は人民大会堂の宴席に招かれ、周総理に練習の様子を聞かれた。大松が「中国チームの練習量は日本チームの半分にも及びません」と正直に答へると、周恩来は「真剣に取り組みたい。大松精神を中国チームに教へ込んで下さい」と懇願した。

 一カ月のトレーニングを終へた大松は、選手たちと別れる際、一人一人にタオルを贈り、「これからは今まで以上に汗をかくやうに」と言ひ残して中国を去つた。大松は特訓を施しながら、「意志が強く飲み込みの早い選手が多い」と中国チームの素質を見抜いてゐた。

 大松博文は昭和53年(1978)に他界した。中国の女子バレーボールチームは、大松の特訓を受けた選手の一人が指導者となつた1980年代に飛躍し、世界最強チームに成長した。そして、オリンピックなど三大大会を次々に制覇するまでになつたのである。

 他方、日本の女子バレーボールチームはといへば、オリンピックなどでも金メダルにはトンと縁がなくなつた。

 日本は、ODAで巨額援助を施してきた中国に、GDPであつといふ間に抜き去られた.。女子バレーボールのケースは、日中逆転がスポーツの世界でいち早く起きてゐたといふお話なのである。





■三島由紀夫雑記 





   ▼中共文化大革命と三島由紀夫



 昭和42年2月28日、三島由紀夫は川端康成、石川淳、安部公房とともに、4人連名で、中共の文化大革命に関する声明を出した。以下がその全文である。


   *********

 昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に携はる者として、座視するに忍びざるものがある。
 この政治革命の現象面にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に留保するが如きは、われわれのとるところではない。われわれは左右いずれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究も含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明する者である。

 われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、ここに改めて確認し、あらゆる『文学報国』的思想、またこれと異形同質なるいわゆる『政治と文学』理論、すなわち学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。

   *********

 この声明を起草したのは三島由紀夫である。この顔ぶれを見ると、文化大革命に関する声明を出すことを他の3人に語らつたのも三島と思はれる。安部公房は元日本共産党員(昭和36年に除名)であり、川端康成と石川淳は政治的に無色の作家である(他にいくらでもゐた(右派の)思想的共鳴者を敢て外したところに三島の配慮がうかがへる)。

 当時全盛だつた左翼の常用後のやうな「われわれ」は、三島由紀夫が最も嫌つた言葉である。自分の意見をいふなら、「私」はかう思ふと書くべきである。さう考へてゐたからである。

 外国の政治問題で記者会見を開いたり、声明を出したりするのも三島由紀夫の流儀ではなかつた。

 ところが文化大革命に関する声明では、三島由紀夫は自分に誡めてゐたこれらの禁を破り、「われわれ」が主語の、隣国の政治問題に関する声明を発したのである。
 
 三島の友人の大岡昇平(この頃は疎遠になつてゐたが)は、この頃書いたある小説で、主人公にかういはせてゐる。

「一体よその国の家庭の事情に、国交のない国の四人の作家が声明を出すのに何の意味があるんだろう。」

 三島らがこの声明を発したのは、1966年から始まった文化大革命が猖獗を極めてゐた時期だつた。

 この声明をよく読むと、これは中共政府に対する抗議声明でも非難声明でもないことは明らかである。

 声明はまづ、文化大革命は「本質的には政治革命である」と規定する。

 文化大革命の本質が劉少奇らの追ひ落としを終局の目的とした権力闘争であることはやがて明らかになるが、日本のマスコミや左翼勢力はこの頃、「魂の革命」「中国の精神革命」と、中共政府の発表を鵜呑みにして文革を礼賛してゐたのである。声明にある「政治革命の現象面にとらはれて」とは、そのやうな浮薄な文革礼賛への批判にほかならない。
 声明が「芸術家としての態度決定を故意に留保するが如き」といふのは。中国に好意的な日本の文化人たちも、さすがに内乱状態にまで発展した文革の現状をみて何かをかしいと気づき始めてゐたものの、正面から疑問の聲を発しようとしなかつた態度のことだ。

 「中国の学問芸術が(その古典研究も含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明する者である」。造反派の暴虐に苦悩してゐた中国の文化人たちは、このメッセージを秘かに感知して勇気づけられた、と後に語つてゐる。

 文革初期の段階で日本の文化人らに衝撃を与へたのは、中国文芸界の第一人者で、魯迅の後を継ぐ文人とも称され、日本との関係も深かつた郭沫若の「自己批判」声明だつた。

 全人代常務委員会副委員長でもあつた郭沫若は1961年4月、同委員会の席上で、「劇的な自己批判」を行つたと中国紙が報じた。郭沫若の「自己批判」とは次のやうなものだつた。

 「すでに七十歳以上となつたが、労働者の血と脂(あぶら)の印を私の皮膚に刻みつけたいと思ふ。私が誤りを犯した原因は毛沢東思想を誤つて学んだこと、社会階級に関する私の考へが混乱してゐたことにある。今や私自身、兵士、農民、労働者から学ぶべき時が来た。できることなら今後は彼等ののために尽くすべき時がきた。現在の基準では私の著作は絶対的に無価値であり、焼き尽くさるべきものである。私は中国科学院院長であるから、その責任を決して拒否しようとは思はない。知識人たちは兵士、労働者、農民に感謝すべきである。この声明の締めくくりにあたつて、私は後悔と悲しみと苦しみにさいなまれてをり、涙をおさへ切れない。もし帝国主義者がわれわれを攻撃するなら、私にこそ手榴弾を投げつけよ。」

 これを讀んだ福田恆存は昭和41年5月、朝日新聞に「郭沫若氏の心中を想ふ」と題する文章を寄稿した。

 「郭氏は同委員会の副委員長であるばかりでなく、中国科学院院長、全国文学芸術会主席の要職にあり、さらに現代中国の良心と正義の象徴として伝統文化に対しても深い造詣と関心を払つて来た人だけに、その転向が全国の知識人に与へた衝撃は測り知れぬものがあるに違ひない。これによつて彼等に対する政府の「闘争」即「弾圧」は決定的段階」即「決定的勝利」を約束するものになるからである。
 それにしても郭氏の言葉はまことに激烈凄惨なもので。拷問の鬼と思はれてゐたかつての日本の特高も、共産主義転向者からこれほど感激的な誓約書を手に入れることは出来なかつたであらう。」

 この転向声明は二つの解釈ができる、と福田恆存は書いた。ひとつは「内心の真実の言」として受け取ること、他は「強ひられた発した自棄絶望の聲」として聞くこと。もし前者なら、「かくの如くあり得べからざる心理的変化が実際に起つたと本人にまで錯覚させる恐怖政治特有の洗脳を無視する譯には行かない」。

 思想家の著作は著者のものであると同時に読者のものである、と福田恆存はいふ。

 「自作の焼却を命じるのは、儒家を坑(あな)に埋め焚書を命じた秦の始皇帝以上の暴挙であり、思ひあがりの極致と言ふべきである。始皇帝は単に自分の思想に反する「敵」を滅ぼさうとしただけのことだが、郭氏は自分が影響を与へ、自分を支持してきた「身方」を冷酷に裏切つたからだ」。

 そのニか月後、郭沫若はAA作家緊急会議における演説で、福田恆存を激しく非難した。

 「私はこの道徳高邁な先生が“百%自由”をもつてゐることを承認する。しかし、遺憾なのはデマを飛ばし、中傷を行うことの“百%自由”だといふことであり、みずからの愚昧無知を暴露する百%の自由であり、反人民、反社会主義の百%自由であることだ。」

 「自己批判」を行つた郭沫若はその後、毛沢東を賛美する詩を書き、毛沢東から有難い「保護命令」(郭沫若には手を出すな!)を頂戴した。毛沢東が死んで四人組が逮捕されると、今度は一転して江青らを批判する詩を発表して激動期を生き延び、1978年に北京で没した。

 福田恆存はのちに、「郭沫若氏の心中を想ふ」の後書きで、「時がすべてを語り明かしてくれるであらう」と書いた。この言葉通り、文化大革命が壮大な誤りだつたことが中共政府の公式見解になつた今日、郭沫若の評価は地に堕ち、特に文革期に書いた著作などは無価値とみなされてゐる。



■三島由紀夫雑記 





    ▼右翼フィクサー田中清玄と三島由紀夫
      右翼フィクサー児玉誉士夫と林房雄


 

 三島由紀夫が昭和43年に結成した「楯の会」から「論争ジャーナル」系の会員7人が相次いで退会したのは翌年の夏だつた。

 「論争ジャーナル」は中辻和彦、万代潔ら民族派の学生が刊行した雑誌である。三島は彼らの志に心を動かされ、「論争ジャーナル」を全面的に支援し、雑誌には無償で寄稿してゐた。「楯の会」結成前の昭和42年2月、中辻、万代ら10名と血判状を作成したのも「論争ジャーナル」の事務所であつた。

 「楯の会」結成後も「論争ジャーナル」のメンバーは楯の会の中核を形成し、楯の会の事務所も「論争ジャーナル」の編集部に置かれてゐたが、やがて、三島と「論争ジャーナル」メンバーとの間に亀裂が生ずることになる。

 「論争ジャーナル」が右翼フィクサーの田中清玄から財政援助を受けてゐて、しかも田中清玄が、「楯の会」は俺が養つてゐると吹聴してゐる、といふ話が三島に伝はつたのだ。

 これを耳にした三島由紀夫は激怒した。運動の純粋性はカネに帰着すると考へ、自分の印税で「楯の会」を維持してきた三島由紀夫にとつて、これは裏切りに等しい背信行為だつた。三島は村松剛を立ち合ひ人にして、「論争ジャーナル」グループに絶縁を申し渡した。

 非合法時代の日本共産党の中央委員長をつとめ、治安維持法で逮捕され、獄中で天皇主義者に転向し、戦後は石油利権をめぐるフィクサーとして活動してきた田中清玄は、60年安保では全学連に資金提供してゐたことでも知られる。

 『田中清玄自伝』といふ本がある。自伝といふより田中清玄の聞き書きで、共産党時代から戦後のフィクサー活動まで持前の大法螺を交へて語つてゐて、この中に三島由紀夫に言及したくだりがある。

・三島由紀夫は最初、評論家の村松剛が引つ張つてきた。

・彼から「自衛隊に入りたいので紹介してくれ」と言つてきたことがあつた。話を聞くと、日本の解体につながる危険な思想だつたので断つたが、「あれは自分の理想であつて、実行するわけぢやない」といふので、陸幕長を定年退職してゐた杉田一次さんに紹介してやつた。あとで杉田さんは「三島の熱情は買ふけど、考へ方は二・二六事件の連中と同じだな」と言つてゐた。

・彼はやがて「楯の会」といふのを作つて、僕も軽井沢に講師として引つ張り出された。暴動が起こつたら自衛隊を中心に立ち上がらなけれければならない、そのために俺を説得するといふ。何をいふか、ソ連やアメリカが日本をつぶしにかかつたら、貴様らたちまちひねりつぶされてしまふぞ、と毎日毎晩かれらと激論だつた。

 ざつとこんな話である。

 既成右翼を唾棄してゐた三島由紀夫がどうして田中清玄のやうな右翼フィクサーと結びついたのか?

 田中清玄は、評論家の村松剛が連れてきたと言つてゐる。ところが村松剛は評伝『三島由紀夫の世界』では、三島の自衛隊の体験入隊について、「防衛庁との交渉についてはあまりよく知らないのだが」と書いてゐて、防衛庁への橋渡しをした人物として毎日新聞常務の狩野近雄と藤原岩市(元陸将)の名をあげるのみである。「論争ジャーナル」グループとの決裂についても、「ある右翼系の人物」から財政上の支援を受けてゐたことが三島を立腹させ、と田中清玄の名をボカしてゐる。
 
 この本の中で田中清玄は林房雄についても語つてゐる。林房雄とは東大新人会以来のつきあひである。
 
 田中清玄によると―

・児玉誉士夫が山口組の田岡一雄や林房雄までつかつて何べんも俺に会ひたいと言つてきたが、絶対に会はなかつた。児玉は戦前は軍が使ひ、戦後は自民党が使つた。一番悪質な恐喝、強盗のたぐひだ。

・林がなんと言はふと、児玉にだけは会はなかつた。

・林は晩年は児玉から資金援助を受けてゐた。林は児玉を激賞してゐた。この話は新人会の浅野晃から聞いた。浅野は「林は児玉が一切をまかなつてゐるからなあ」と言つた。

 児玉誉士夫は戦前、上海に海軍の物資調達を請け負ふ児玉機関をつくり、終戦後、外地で築いた財利をもとに政界の黒幕として暗躍した人物である。CIAから資金を受け取つて、数々の政界工作にその金をバラまき、岸信介などに重用された。

 反米右翼の田中清玄は、CIA直轄の親米右翼フィクサー児玉誉士夫を毛嫌ひしてゐた。

 「林房雄論」を書き、対談本まで出した三島由紀夫にとつて林房雄は、文士としての付き合ひを越えた特別な存在だつた。「林房雄論」は、中間小説を書き散らしてゐた林房雄の再評価につながつた(三島評論の中でも白眉とされるこの作品はある意味で三島由紀夫論でもあつて、三島自身にとつても重要な意味を持つ)。

 その林房雄さへ三島は最後に見限つた。理由は林房雄の「金」だつた。

 三島が信頼し、最期の手紙を託したジャーナリストの一人である徳岡孝夫は蹶起の二カ月ほど前、料理屋で三島由紀夫と会つた。

 遅れて着いた徳岡が部屋に入ると、三島は畳の上に寝そべつてゐた。そして「自堕落に寝たまま」いきなり言つた。

 「林さんはもうダメです」
 「もうダメです。あの人、右と左の両方からカネを貰つちやつた」

 それまで見たこともない投げやりな姿と言葉遣ひで、執拗に言つたといふ。

 徳岡はかうも書いてゐる。林房雄は政財界や右翼から学生たちに来る金の「濾過器」の役割を買つて出て、青年たちが無分別に使つてしまはないやう、小分けにして学生たちの団体に渡してゐた。それを三島さんは誤解したのではないか、と。

 林房雄は三島の死後、『悲しみの琴―三島由紀夫への鎮魂歌』を書いたが、この中で、三島に除名された「論争ジャーナル」グループを罵倒してゐる。「彼らは結局『天人五衰』の主人公のようや悪質の贋物だった。やがて雑誌も出て、後援者が増え、多少の金が集まるにつれて、急速に変質して行った」。

 林房雄は昭和50年に亡くなつた。その翌年、ロッキード事件が起こり、「ロッキード社が秘密代理人として雇つた超国家主義者」児玉誉士夫への巨額資金提供が発覚して、児玉は起訴され、判決直前の昭和59年1月に没した。

 林房雄がもつと長生きしてゐたら、自分が児玉誉士夫から貰つた金の出所を知ることになつただらう。 林房雄はいい時に死んだのかもしれない。

 「論争ジャーナル」グループも林房雄も、三島由紀夫の見る目に狂ひはなかつたのだ。


■中国の行方








   ▼ 中国外務省の「戦狼」外交はいつまで続くか?









 中国の無軌道な軍事行動を批判した日本の防衛白書に対して、「中国が脅威であることを極力煽動し、名前は白書だが、実は黒い資料だ」「日本側の一部勢力の暗黒な心理を暴露しただ」と述べたのは中国外務省報道官の趙立堅である。

 趙立堅の名前は。中国の「戦狼外交官」として今では世界に広く知られてゐる。

「戦狼」といふ言葉の起源は、海外に派遣された人民解放軍兵士たちをランボーのやうなヒーローとして描く国威発揚映画「戦狼」である。

 「戦狼」外交は、中国外交の攻撃的な姿勢を象徴する言葉として定着してゐるが、その役割を担ふ「戦狼外交官」の代表が趙立堅なのだ。

 趙立堅が外交部報道局副局長に就任し、報道官として記者会見に姿を現すやうになつたのはことし2月のことだ。

 趙立堅が戦狼外交官として一躍注目されるやうになつたのは2019年7月、パキスタン大使館に勤務してゐた時、ツイッターで猛烈なアメリカ批判を展開してからである。

 人種差別、銃暴力など多くの問題を抱へるアメリカに中国の人権侵害を批判する権利などない、とアメリカに噛みつき、オバマ政権で大統領補佐官を務めたスーザン・ライスがこれに激しく反論し、「恥知らずの人種差別主義者」と趙立堅を罵つた。

 この攻撃的姿勢が習近平のお眼鏡にかなつたらしく、趙立堅は外交部報道局副局長に抜擢された。

 ことし3月、「新型コロナウイルスを武漢に持ち込んだのはアメリカ軍兵士かもしれない」「アメリカはデータを公開し、中国に説明せよ」とツイッターに投稿して、トランプを激怒させたのも趙立堅である。

 中国の外交官や大使館などのツイッターアカウントは今では50を超えるといはれ、中国共産党の宣伝・反論を繰り広げてゐるが、中国外務省のツイッター戦術に火をつけたのが趙立堅なのである。

 趙立堅のフォロワー数は24万人にのぼるが、ツイッターは中国国内では閲覧が禁止されてゐるから、これら「戦狼外交官」のツイッターを中国人民は見ることができない。

 趙立堅に触発された中国外務省の戦狼化は急速に進んでゐて、温和といはれた王毅外相さへ最近では会見で気に食はない質問をした記者を罵倒し、「中国は意図的な侮辱には徹底的に反論していく」と息巻いてゐる。

 アメリカメディアの取材に対しても、「我々から戦いを仕掛けたり、他国をいじめたりすることはない。しかし我々には原則と気骨がある。意図的な侮辱があれば反論し、国家の名誉と尊厳を断固として守る」と語り、戦狼外交官への変貌ぶりを見せつけてゐる。

 中国のメディアもいまのところ、戦狼外交官を「欧米のヒステリックな批判」と闘ふ戦士たちと称賛してゐる。

 それでは中国の戦狼外交化はこのまま一直線に進んでゆくのかといふと、中国専門家たちの間でも意見が分かれる。

 SNSなどを駆使した戦狼外交はますます激化するといふ人もゐれば、戦狼外交は長くは続かないといふ見方もある。中国指導部の中には、攻撃的外交路線をめぐり激しい対立があり、「戦狼外交」が中国の強硬外交の代名詞になることを懸念する幹部もゐるといふ。

 たしかに、このまま中国の戦狼外交化が進めば、メディアに「戦狼」「WOLF OFf WAR」の文字を見ると、世界中の人々は中国の虐殺や対外侵略を連想する―そんな日が来ないとも限らない。さうなれば習近平も渋々「戦狼外交」の呼称禁止を命ずることになるだらう。







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tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト・評論家。皇室問題やフェミニズム問題に取り組む。三島由紀夫研究家。國語問題研究家。


フェミニズム論の著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

皇室関連の著作としては『天皇を喰ひ物にした侍従長』『天皇と宮内庁の「背信」』など。

執筆には正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を使用、当ブログも正仮名遣ひを用ゐる。

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