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■福田恆存―孤高の精神





  ▼司馬遼太郎の乃木将軍愚将論を批判した福田恆存
 



 評論家の福田恆存は、「歴史と人物」昭和四十五年十一月号に「乃木将軍は軍神か愚将か」(単行本化の際に「乃木将軍と旅順攻防戦」と改題)といふ文章を寄稿した。

 福田恆存は、乃木将軍を稀代の愚将のやうに描く司馬遼太郎の『殉死』と福岡徹の『軍神』を読んで憤りを発して筆をとり、「乃木将軍は軍神か愚将か」を書いたのであつた。この原稿が発表されたのは、司馬が三島事件に関する所見を毎日新聞に寄稿した前月のことだつた。

 『殉死』は、司馬遼太郎が昭和四十二年に雑誌に発表した「要塞」と「腹を切ること」を一本にまとめ、同年単行本として刊行されたものである。

 『殉死』には、乃木希典の軍人としての無能さを強調する文言に満ちてゐる。

 「・・なぜ、これだけの大要塞の攻撃にこのような無能な軍人をさしむけたのか・・・」
 「精神主義は多くは無能な者の隠れ蓑であることが多いが、乃木希典のばあいには、そういう作為はない。しかしながら歴史の高みからみれば、結果としてはそれと多少似たものになっている。」

 「(ドイツ留学中)乃木はおもに服装と容儀に関心をもちつづけた。・・・いつのほどからか、乃木の調査は戦術戦略よりもむしろそのことに重点がおかれた。」

 「この独逸留学中、その生涯で唯一というべき近代戦術の習得の機会において、要塞と要塞攻撃に関する研究はなかったようであった。」

「乃木希典は近代要塞に関する専門知識を示さなかったし、示すほどの知識はこの精神家にはなかったようにおもわれる。」

 「乃木が参加した最初の戦争は西南の役であったが、この戦争では、一戦場での死傷は桁が十であった。・・・その記憶がつねに物事を発想する要素になっているのであろう。」
「・・・児玉にとって乃木ほど無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりの無能さゆえに殺したいほどに腹立たしかったが・・・」

 司馬の乃木愚将論に対して、福田恆存は「私も将軍を智将とは思はない」としながらも、旅順攻防戦における将軍の行動を調べた限りでは「将軍を愚将と呼ぶ事は出来ない」と述べ、司馬らの旅順攻防戦観について四つの疑問点をあげてゐる。

 第一。旅順攻防戦を戦略の失敗としか見做してゐないこと。

 第二。それが乃木将軍を司令官とする第三軍の独善と無能によるといふ断定。

 第三。第三軍が、堅固な永久要塞がめぐらされてゐる東北方面を主攻とした事に対する非難。

 第四。満州軍総司令部総参謀長の児玉大将が、主功方面を転換せしめ、自から南下して、二〇三高地を攻め落とし、旅順港内の敵艦を撃滅して、漸く旅順要塞は陥落したといふ見方。

 これらの見解について、福田は事実を挙げて逐一論駁した。

 例へば、

・旅順要塞の攻略自体、大本営も総司令部も当初はその必要を考へてゐなかつた。

・大本営は旅順要塞の堅固さも理解してゐなかつた。

・第三軍は強大な旅順要塞を攻め落とした後、沙河、遼陽の会戦に参加するといふ二重三重の役割を担はされてゐた。

・バルチック艦隊の来航予測について海軍側の大きな誤算があり、これが第三軍の総攻撃を急がせた。

・第三軍は肉弾を欲したのではなく砲弾を欲したがこの要求は退けられた。主攻方面を西方方面にとるといふ考へは大本営にも満洲総軍にも第三軍にもあり、二説に分裂してゐた。

・はじめから主攻を西方方面に選んでゐたとしても、二〇三高地は簡単にはとれなかつた。二〇三高地はとれても要塞は容易には陥落しなかった。

 乃木将軍愚将論に象徴されるやうな歴史の見方を、福田恆存は「合鍵を持つた歴史観」と呼んだ。後世の人間は戦争の帰趨を知つてゐる。結果を知つた人間が戦争の是非を論ずるのはやさしい。これが「合鍵を持つた歴史観」である。

 歴史を現在の「見える目」で裁いてはならぬ、歴史家は当事者と同じ「見えぬ目」を持たねばならない、と福田恆存はいふ。

 福田がこのやうに 『殉死』を厳しく批判を加へたころ、司馬遼太郎は産経新聞に『坂の上の雲』を連載してゐた。『坂の上の雲』で司馬は『殉死』より過激で露骨な乃木将軍愚将論を展開してゐた。

 福田論文が端緒となり、『坂の上の雲』に対する本格的な批判が出始めたのは昭和五十年年代後半になつてからである。『坂の上の雲』がいかに独断偏見に満ち、事実を捻じ曲げてゐるか。それを指摘する著作が次々にあらはれた。

 NHKは『坂の上の雲』を「是非大河ドラマに」と司馬遼太郎にたびたび持ち掛けた。しかし、司馬は結局首をタテにふらなかつた。少なからぬ人々は、この事実をもつて、晩年の司馬は『坂の上の雲』の欠陥を自認してゐた証左とみなしてゐる。












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■三島由紀夫の流儀 






  ▼ 男のおしやれ


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 男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。ボロを着せてみて、はじめた男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。

  (「男のおしやれ」 昭和三十四年 )

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 男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニュキアをさせる男が増えた。三島がこの文章を書いたのは、男のおしやれがはやりはじめた時代だつたが、「私はこんな風潮が一切まちがつてゐると考へる人間である」。

 男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引き立たせるおしやれは、「ボロであつても、華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ」。

 お仕着せの服装が我慢のならない三島は、「背広なんか犬に喰はれてしまへ」「タキシードも犬に喰はれてしまへ」と言ひ放つが、自身はかなりの衣装持ちで、スーツもタキシードも銀座のテーラーであつらへてゐた。

  「日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だ」といふ。

 三島が最期に来てゐた服は軍服(楯の會の制服)であつた。

 没する二年前の文章「軍服を着る男の条件」にはかう書いた。

 「それ(軍服)を着る条件とは、仕立のよい軍服のなかにギッチリ詰つた、鍛へ抜いた筋肉質の肉体であり、まさかのときに命を捨てる覚悟である」。

 楯の會の制服は、ド・ゴール大統領の洋服をデザインした名デザイナーの手に成る、凛々しい軍服だつた。帽章は三島自身がデザインした。

■三島由紀夫の流儀 





  ▼行動家の世界


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 行動家の世界は、いつも最後の一点を附加することで完成させる環を、しじゆう眼前に描いてゐるやうなものである。瞬間瞬間、彼は一点をのこしてつながらぬ輪を捨て、つぎつぎと別の輪に当面する。

   ( 「小説家の休暇」 昭和三十年 )

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 「小説家の休暇」の中で、「葉隠」について触れた文章の一節。

 このやうな行動家の世界に対し、藝術家の世界とはどのやうなものか。

「藝術家や哲学者の世界は、自分のまはりにだんだんひろい同心円を、重ねてゆくやうな構造をもつてゐる。」

 さて死がやつてきたとき、行動家と藝術家のどちらが完成感が強烈であらうか?

 「私は想像するのに、ただ一点を添加するすることによつて瞬時にその世界を完成する死のはうが、ずつと完成感は強烈ではあるまいか?」

 行動家の最大の不幸は、そのあやまちのない一点を添加したあとも、死ななかつた場合である。

 行動家の真の幸福を夢想した山本常朝自身は、
 「四十二歳のとき、鍋島光茂の死に殉じようとして、光茂自身の殉死禁止令によつて、死を拒まれた。彼は剃髪出家し、葉隠聞書を心ならずも世にのこして、六十一歳で畳の上で死んだ。」

 
   

■三島由紀夫の流儀






  ▼ 「私はともあれ、交通事故なのだ」

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 ウワ―ッと両手で顔をおほつて、その指のあひだから、こはごはながめて「イヤだア」とかなんとか言つてゐる手合ひを野次馬といふ。私に対する否定的意見は、すべてこの種の野次馬の意見で、私はともあれ、交通事故なのだ。

  (「平凡パンチ」 昭和四十四年 )

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 昭和四十年代前半、三島由紀夫は若者向け週刊誌「平凡パンチ」にたびたび登場した。「平凡パンチ」は政治記事あり、ヌード写真あり、ニューファッションありといふユニークな雑誌だつた。

 三島と「平凡パンチ」の関はりについては、同誌編集部で三島を担当してゐた椎根和の『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮文庫)といふ本に詳しい。

 「平凡パンチ」は昭和四十四年六月、六頁に及ぶ三島由紀夫の特集を組んだ。タイトルは〈広域重要人物きき込み捜査 エッ! 三島由紀夫???〉

 「スーパー・スター、三島由紀夫。キミは心情三島派か? それともアンチ三島派か? それが問題だ・・・」といふリード文がついてゐた。

 「スーパー・スター」三島由紀夫を持ち上げるだけではなく、あはせて「アンチ三島派」の声も紹介するといふ「平凡パンチ」らしい企画だつた。

 椎根和は、何とか三島の悪口を言つてほしい、と著名人たちに電話をかけまくつた。そして二十一人からコメントが得られた。

 ・東海林さだお(漫画家)「だけど、服装とか筋肉とか見てゐると、なんとなく、コッケイな感じがしますネ。(・・・)それにしても、三島さんがオジイサンになったら、あの筋肉がどんなグアイにシナびるか、それだけが興味がありますネ。」

 ・中山千夏(女優)「申し訳ないけど、名前と職業とハダカしか知らないの。作品なんか読んだことないワ。」

 ・カルメン・マキ(歌手)「ゴツゴツした男らしさを売ろうとする男なんて、キライだワ。だけど、他人のことなんて考えたってつまんないし、あたしは無関心。それだけの男よ。」

 ・加藤登紀子(歌手)「理由もなくキライ。顔もイヤ。とくに目がイヤだワ。わたしが見つめていたい目じゃない。肉体的な顕示欲がつよいのもキライ。(・・・)でも、わたしは二十二歳くらいまで、三島さんの小説が好きだっんだけど、だんだん耐えられなくなってきたわ。」

 椎根和はこれらのコメントを清書した原稿を持つて、後楽園のボディビル・クラブへ行つた。ベンチプレスをこなした三島に原稿を差し出すと、三島は七、八分で原稿を読み終へた。「感想は?」と尋ねると、「ぢやあ、喋るからメモをとつてくれ」と言つた。

 それを必死に書きとめてゐると、三島は彼からメモ帳とボールペンを取り上げ、端正な筆跡で二、三分で書き上げた。これが上掲の短文である。これは特集記事の最後に「感想」といふ題で入れられた。




 
      






■三島由紀夫の流儀 






  ▼教育の根本は古典の暗誦

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 ・・・現代の教育で絶対にまちがつてゐることが一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。古典の暗誦は、決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし。

   (「生徒を心服させるだけの腕力を―スパルタ教育のすすめ」 昭和三十九年 )
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 日本語についてあれほどやかましかつた三島由紀夫だが、国語教育について私見を述べた文章は案外少ない。ここでは珍しく、古典の暗誦を捨てた戦後の国語教育を正面から批判してゐる。








 
■三島由紀夫の流儀 






  ▼三島由紀夫の健康法


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 三十代に入り、ここで体をガッチリ作らねば一生損をすると思ひ、ボディ・ビルをはじめ、胃がすつかり丈夫になり、全然病床につくことがなくなつた。現在三十七歳だが、体力・スタミナ、まだ二十五、六のやうな肉体的気分。
     (「私の健康」 昭和三十七年 )

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 三十代半ばに書いた自分の健康法についてのエッセー。結婚して四年、この年長男を得て二児の父親となり、意欲作「美しい星」を執筆中で、仕事も家庭も順調そのものだつた。

 日常の健康法。

 「十分な睡眠」―睡眠時間は午前五時ごろから午後一時ごろまでのほぼ八時間。午前中の眠りは深く、ジェット機が屋根スレスレに飛ばうが気がついたことがない。

 「日光浴」―一年を通じ、十二月だらうが一月だらうが、快晴なら裸で庭のテラスで朝食ととる。

 「スポーツ」―一週にニ、三回ボディ・ビル、一回は必ず剣道。

 「食事」―週に最低三回は三百六十グラム見当のビフテキを欠かさない。つけあはせには、じやがいも、玉蜀黍、サラダを馬の如く喰べる。

 「風邪」―大厚着をして、薬缶に一杯、熱い番茶をガブガブのみ、全身に発刊して直す。

 「腹痛」―お腹をこはしたときは、こはした瞬間にわすれることにし、平常と同じものを喰べる。すると、あくる日には治る。

 「仕事」―自分の体力以上の仕事を決して引き受けず、自分のペースを乱さないこと。

 三島由紀夫の健康法は終生かはらず、ボディ・ビルは死の直前まで続けられた。





■三島由紀夫の流儀 






  ▼「私の理想とした徳は剛毅であつた」



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 感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。・・・感じやすさの持つてゐる卑しさ、われわれに対する他人の感情に物乞ひする卑しさである。自分と同じ程度の感じやすさを他人のうちに想像し、想像することによつて期待する卑しさである。
    (「アポロの杯」 昭和二十七年 )

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 三島由紀夫は自分に感じやすさ―感受性が過剰であることに久しく悩んでゐた。若いころにかぶれたボードレールは「不感不動」を以てダンディーの定義をした。感じやすさ、感じすぎることは、ダンディーと対極にあるものである。

 三島は感受性といふ病気を治さうと試みた。ひとつは濫費して使ひ果たすこと、もうひとつは出来うる限り倹約することであつた。この二つをかはるがはる併用することによつて、感受性治癒効果は倍加した。

 まづ自分の文体から感じやすい部分を駆逐しようと試みた。ついで自分の生活から感じやすさから来る剰余物を取り去らうと試みた。

 三島由紀夫は意志によつて感受性をねじ伏せやうとしたのだ。

「私の理想とした徳は剛毅であつた。それ以外の徳は私には価値のないやうに思はれた。」







■三島由紀夫の流儀






 ▼退屈でないのは「くりかへし」の作業である


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・・・すると間もなく、今度は、進まないといふ不安が生まれて、不安は焦燥をかもし出し、又仕事を渋滞させるのだ。われわれの仕事はいつもかういふ、自分に対する言訳や言ひのがれと戦つて行かねばならぬ。仕事の苦境にさしかかるときほど、われわれがどんな小さな日常生活の蹉跌をとり上げて、鬼の首でもとつたやうに、それを仕事の捗らぬ原因にまで拡大してふか、自分でも驚嘆するほどだ。
  ( 「裸体と衣装」 昭和三十四年)

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 書き下ろしの「鏡子の家」を執筆中に、筆が渋滞してゐた時の感想。

 今やつてゐる仕事がうまくいかない時、うまくいかない原因をなにかに転嫁したがるのが人間の常。三島由紀夫もその例外ではなかつた。

 そんな時、三島由紀夫は手作業の原理に返ることをこころがけてゐた。

 退屈さを怖れてはならない。「退屈でないのは慣習や熟練、要するに『くりかへし』」の作業であり、冒険こそ、その当人にとつては、一等退屈な作業だといふことを忘れてはならぬ。」

 書くためには「見る」ことを怠つてはならない。

「行住坐臥、観察を等閑にすべからず、といふのは、自然主義の家憲であつたが、実は『見ること』は作家にとつて職業上の倫理でも何でもなく、感覚に不断の再生の力を与へる一種の快楽だといふことは、きつと秘儀とされて来たのにちがひない。」

「・・・作者は又、何ものであれ、物を見に出かけなければならぬ・・・」 









■安倍政権の「負の遺産」






  ▼「戦後終はらせた」といふ安倍前首相の詭弁




 産経新聞が安倍前首相のインタビュー記事を十月十三日と十五日(詳報)の二度にわたつて掲載した。

 インタビュー記事の中で、歴史認識問題に関する発言を点検してみる。まづ、「戦後七十年首相談話」について。

 「第一次政権で『戦後レジームからの脱却』を掲げたが、少し戦略性に欠けていたと思う」
 「第二次政権時の七十年談話では歴史の時間軸を100年とった」
 「70年談話と前後して豪州議会と米国上下院合同会議での演説、その後のオバマ大統領の広島訪問、私の真珠湾訪問へと続いた。ここで戦後を終わらせることができた」
 「これをもって終止符を打たなければいけなという気持ちは強かった」

 で、次に「日韓合意」についての発言。

 「慰安婦問題の日韓合意は国際社会が証人となり、『最終的かつ不可逆な解決』を確認した。政府として『河野談話』の検証も行った。多くの人たちが歴史の真実により近づくことによって歴史問題に終止符を打つことができた」

 首相を辞めた今なほ、「戦後七十年首相談話」と「日韓合意」によつて戦後を終わらせることができました、と宣つてゐるのだ。

 私は先月出版した『安倍政権の「負の遺産」』(Kindle)の中で、「戦後七十年首相談話」と「日韓合意」のカラクリについて検証しておいた。

 その概略を述べると、安倍首相は「戦後七十年談話」の作成にあたつて、「村山談話」及び「小泉談話」を踏襲しようとはじから考へてゐた。それをカモフラージュするために有識者懇談会を立ち上げた。懇談会のリーダーとして、ゴリゴリの侵略史観の持ち主である北岡伸一といふ人物を起用した。北岡は安倍首相と呼応して、侵略史観に反対する委員の意見を封殺し、侵略史観に満ちた報告書を作成した。

 侵略史観に反対した委員とは、中西輝政・京都大学名誉教授のことである。

 中西氏はのちに、有識者懇談会の内情を「文藝春秋」の対談で暴露してゐる。拙著の中でも引用したが、ここで改めて中西氏の発言を紹介しよう。

《 最も言いたいのは、あの談話は「東京裁判史観」そのものだということです。それにより、私がそれまで持っていた「保守政治家・安倍晋三」という見方が粉々に砕け散りました。あの懇談会に私が入れられたのは、「保守派の中西も賛成した」という右派への言い訳のためであり、座長代理の北岡伸一氏(JICA理事長)をはじめ、外務省の息のかかったメンバーばかりが集められ、私は意見を発表する機会さえほとんど与えられませんでした。》

《 報告書では日本の行いを一方的に「侵略」と定義するというので、何度も辞表を用意して抵抗しましたが、後世に記録として残すために、〈複数の委員より、「侵略」と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった〉ことと、その理由を説明する〝注釈〟をつけることで安倍談話への対抗軸を残すことを選びました。》

 中西氏は、非「侵略史観」の持ち主である自分が懇談会のメンバーに加へられたのは、「保守派の中西も賛成した」といふ右派への言ひ訳のためだつた、と気づいた。「安倍晋三」を「保守政治家」と信じてきた自分は間違つてゐた、安倍首相に謀られたのだ、と気づいた時には遅かつた。中西氏は発言の機会さへロクに与へられず、「侵略派」が多数を占める懇談会で孤独な闘ひを強いられたのだ。

 安倍首相にまんまとハメられた中西氏の言葉ほど、「戦後七十年談話」の正鵠をついてゐるものはない。

 安倍談話の正体は「東京裁判史観」そのものであると中西氏はいふ。

《 戦勝国アメリカが、自らを正当化するために敗戦国日本を断罪しようとした「十五年戦争論」に基づく歴史認識です。》

 中西氏は、「戦後七十年談話」を「百点満点」などと持ち上げた者たちを「紐付き保守」と断罪した。かれらは今に及んでも、「安倍首相は戦後を終はらせた」と叫んでゐる。「紐付き保守」たちの体質は変はらない。安倍政権の「負の遺産」は重い。

 「紐付き保守」たちを安倍首相がどれほど珍重してゐたかを示すエピソードがある。「戦後七十年談話」を「百点満点」と持ち上げた「紐付き保守」が数年前に死んだ。安倍首相は総理の公用車を使つてこの男の自宅を弔問した。永年にわたる「紐付き保守」活動への返礼が「総理大臣としての弔問」だつたといふわけである。















■三島由紀夫雜記








  ▼司馬遼太郎と三島由紀夫(3)
   
  「薄よごれた模倣」―司馬が投げつけた悪罵の真意




   
  
 
 司馬遼太郎は昭和44年に《武市半平太―映画『人斬り』で思うこと》といふ文章を残してゐる。

 勝プロダクションなどの製作による映画『人斬り』は、司馬遼太郎の短編『人斬り以蔵』を参考文献として、橋本忍が脚本を書いたオリジナル作品で、昭和44年8月に封切られた。司馬は映画の原作者ではないけれど、「参考文献」の作者として寄稿を求められて書いた文章であらう。

 映画『人斬り』は、勝新太郎、仲代達矢、石原裕次郎といふ当代のスターたちと並んで三島由紀夫が田中新兵衛役で出演したことで注目を集め、三島の演技について毀誉褒貶、芸能ジャーナリズムに取りざたされた。

 『人斬り』にかけた三島由紀夫の意気込みは並々ならぬものがあつた。

《 何ゆゑ私に、幕末の刺客、薩摩侍の田中新兵衛の役が振られたか、多分、下手な剣道をやつてゐてサムラヒ・イメージを売り込んでゐたり、テロリズムを礼賛してゐるやうに世間から思はれてゐたり、また私を使へばその分の宣伝費はタダですむと計算されてゐたり、いろいろの理由があるだらうが、「もの」を選ぶといふのは、最終的には総合的判断である。総合的判断とは、非合理的なものである。さういふ風にして、私の知らないところで、さういふ相談が進んでゐた、といふことが……そして私の「知的な部分」なんかは全然考慮の外に置かれたといふことが、私をうれしがらせたことは相当なものだつた。それはともかく、橋本忍氏のすぐれたシナリオの中でも、ろくに性格描写もされておらず、ただやたらに人を斬つた末、エヽ面倒くさいとばかりに突然の謎の自決を遂げる、この船頭上りの単細胞のテロリストは私の気に入つた。》

《 何といつても五社監督の本領は立ち回りで、立ち回りのシーンの撮影になると、もう監督の目の色がちがふ。現場全体の空気が躍動してきて、スタッフの目も血走り、役者はもとより張り切つて、無上の興奮から全員子供に返り、血みどろの運動会がはじまる校庭のやうになつてしまふ。私も大よろこびで十数人を斬りまくつたが、大映京都撮影所が一年間で使ふ分量の血ノリを、その日一日で使つてしまつたさうだ。フィクションとはいひながら、殺意が、そこにゐる人すべてを有頂天にするといふのは、思へばおかしな人間的真実である。》

 田中新兵衛は司馬の『人斬り以蔵』では数カ所に名前が出てくるにすぎないが、橋本忍の脚本では、勝新太郎の演ずる岡田以蔵との絡みのシーンなどが設定されてゐた。乱闘場面では三島は五社英雄監督に真剣を使はせてくれと直訴した。最期の切腹の場面では竹光を使用したが、役にのめりこんで竹光を腹に突き刺して血を流したほどだつた。

 三島由紀夫と司馬遼太郎はほとんど接点といふものを持たなかつたが、この映画『人斬り』がわずかながら両者の接点といへたかもしれない。

 さて、本題の司馬遼太郎のエッセー《武市半平太―映画『人斬り』で思うこと》に戻る。。

 司馬はこの文章で、土佐勤王党の首魁として岡田以蔵らの暗殺者を動かした武市半平太の所業をたどり、桜田門外で井伊直弼の首級をあげた襲撃者たちの行動との比較に及ぶ。

 文久年間、武市一派らは京都で天誅として数々の暗殺事件を引き起こした。しかし、同じ倒幕を目的とした暗殺でも、武市らの暗殺は桜田門外における暗殺とは異なると司馬は断じてかういふ。

《 武市らのやった文久年間の天誅さわぎなどは、その桜田門外ノ変の人気に乗じた薄ぎたない模倣にすぎない。》

 桜田門外ノ変の人気に乗じた「薄ぎたない模倣」。

 司馬が、幕末の暗殺事件の中で肯定乃至容認するのは桜田門外ノ変のみである。あのヒトラーでさへ支持世論といふものがあつた。だが、井伊直弼の時代にはさういふ支持世論はなかつた。「絶対権力の暴走を停止させるには、その生存を停止させる以外、方法がない」。 ところがその後、幕府体制のなかに世論といふものが生まれかけてゐた。にも関はらず、武市ら勤王浪士たちはテロリズムに走つた。その結果、どうなつたか。「武市らを首領に岡田以蔵らがやったテロリズムというのは、武市が期待した効果などすこしもなく、白痴の政治活動におわった」―これが幕末の暗殺事件に関する司馬の論理である。

 これによると、司馬の『人斬り以蔵』の登場人物たちは全員、桜田門外ノ変の「薄ぎたない模倣」をし、「白痴の政治活動」に従事した救ひやうのない悪人どもといふことになる。

 ここで、司馬が「異常な三島事件に接して」で用いた言葉を思ひ起してほしい。

《 ただ、この死に接して、かれの死の薄よごれた模倣をする者が出るのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く。》

 かれの死の「薄よごれた模倣」。

 「薄よごれた模倣」といふ、聞くだにいやらしい言葉は、武市論と三島論の中に同じやうに登場するが、その文脈は甚だ異なる。

 三島の死の「薄よごれた模倣」といふならば、三島の死そのものは、桜田門外ノ変の「義挙」にあたるものでなければならない。しかし、司馬はもちろん、三島の死を「義挙」などとは考へてゐなかつた。

 司馬が、「かれの死の薄よごれた模倣」と書いた時、「薄よごれた」といふ形容詞は「模倣」だけではなく、「かれの死」の方にもかけてゐたのだ。少なくとも、「薄よごれた模倣」といふ表現によつて、読者にこの事件に対してあるイメージを喚起させることを期待してゐた筈だ。さう考へると、幕末のテロリストたちに投げつけた「薄よごれた模倣」といふ言葉を三島事件にも使つた司馬の意図がよく見えてくると思ふ。

 事件後あらはれたおびただしい三島への否定的言説の中でも、司馬のこの文章は、ある意味で、もつとも悪意に満ちてゐるといへる。
    
  




■三島由紀夫雜記








  ▼司馬遼太郎と三島由紀夫(2)
   
   三島は楯の会を「美の密室」に引き入れたといふ司馬遼太郎の珍説
   





 毎日新聞に掲載された司馬遼太郎の寄稿文「異常な三島事件に接して」の続きである。
 司馬は、三島由紀夫の死は有島武郎、芥川龍之介、太宰治らの自死と同じく、「文学論のカテゴリー」に属すると断じた上で、「美」といふ言葉を持ち出す。

《 三島氏の場合、思想というものを美に置きかえたほうが、よりわかりやすい。》

 「美」とは三島由紀夫の芸術理念の中核をなすものだつた。だが三島は自分の政治的言論及び行動と、芸術(美)とをはつきり峻別してゐた。そのことは何度も書いてゐる。ところが、司馬はここで何の論証もなく「思想」を「美」に強引に置きかへてしまふのだ。そして奇妙な理屈を展開する。

《 思想もしくは美は本来密室の中のものであり、他人が踏みこむことができないものであり、その純度を高めようとすればなおさらのこのであるが、三島氏はここ数年、美という天上のものと政治という地上のものとを一つのものにする衝動を間断なくつづけていたために、その美の密室に他人を入れこまざるを得なくなった。楯の会のひとびとが、その「他人」である。》

 たしかに、三島の自決を「美」に置きかへることもできるであらう。しかし三島が一緒に行動した楯の会のメンバーたちは、三島の政治思想に共鳴した人々であり、「美」などといふ思想とは無縁の人たちだつた。楯の会メンバーの行動は「美」では説明がつかない。そこで司馬は、三島は「美の密室」にかれらを引き入れたと珍妙な理屈を編み出す。

 その例証として司馬は、三島由紀夫の『午後の曳航』(昭和三十八年)を引つ張り出す。『午後の曳航』は少年たちがある船員の破滅を夢想して死に至らしめる物語である。

《 少年たちが精密な観念論理を組みあげ、その観念を「共同」のものにしたあげく、その論理に命ずるところによって、現実的になんのかかわりもない一人のマドロスを殺す。そういう主題である。「共同」がすでにはじまっている。
 その「共同」はしかし氏の観念のなかでのみ成立させるべきところを、現実の生活者であるところ氏はその密室に生き身の他人を入れたがために、その「共同」がこんど現実のものになってしまったのである。》

 このやうにして司馬は、楯の会のひな型は、殺人を謀議した『午後の曳航』の主人公たちにあつたといふ珍説を開陳する。三島及び楯の会会員たちが抱いてゐた政治思想を黙殺するがためのレトリックである。

 これ以下の文章は、いかに締め切り時間に追はれてゐたとはいへ、ほとんど支離滅裂といつていい。

《 であるがためにあくまでも、氏の死は政治論的死ではなく、文学論的死であり、であるから高貴であるとか、であるからどうであるという計量の問題はさておき、それ以外の余念を考えるべきではないように思える。》

 三島の死をなんとしても「文学論的死」に押し込めておきたい司馬は必死に言葉をさがすが言葉が出てこない。「であるがためにあくまでも」とか、「であるからどうであるという計量の問題はさておき」など、そのあがきの表現にすぎない。

 この後に、甚だ有名になつた司馬遼太郎の自衛隊員=健康観が語られる。

《 いずれにせよ、新聞に報ぜられるところでは、われわれ大衆は自衛隊員をふくめて、きわめて健康であることに、われわれみずから感謝したい。三島氏の演説をきいていた自衛隊員は、三島氏に憤慨してヤジをとばし、楯の会の人をこづきまわそうとしたといったように、この密室の政治論は大衆の政治感覚の前にはみごとに無力であった。このことはさまざまの不満がわれわれにあるとはいえ、日本社会の健康さと堅牢さをみごとにあらわすものであろう。》
 
 司馬はここでも言葉のすり替へをやつてゐる。「密室の政治論」とはどのやうな意味なのだらうか。三島の死が「文学論的死」であつたといふ司馬の論理からすれば、ここは「密室の文学論」でなければならない。三島が「檄」で訴へた主張はまぎれもなく「政治論」であるが、憲法改正の主張のどこが「密室の政治論」なのか?

 戦後体制と社会の全面的支持者であつた司馬遼太郎は、戦後社会を呪詛した三島由紀夫とは対極にある人だつた。「われわれ大衆は」などとごまかさずに、司馬はただ、自分は三島の思想にも行動にも反対だつた、といへばよかつたのである。


     (続く)




■三島由紀夫雜記








  ▼司馬遼太郎と三島由紀夫(1)

   三島由紀夫の死は太宰治の情死と同じ、と断じた司馬遼太郎
 






 昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫と森田必勝が市谷台で自決した。翌二十六日の毎日新聞の朝刊一面に、司馬遼太郎が寄稿した文章が掲載された。「異常な三島事件に接して」と題された司馬の文章は、一面の三分の一を占め、各紙朝刊の三島報道のなかでもひときわ目をひくものだつた。

 その当時、司馬遼太郎はすでに「国民的作家」としての地位を確立してゐた。当時「サンデー毎日」に在籍してゐた徳岡孝夫(三島から檄と手紙を託された人物)は、《 毎日新聞の編集局では、この寄稿の評判は高く、司馬原稿を「取った」記者の功を称える気配があった・・・》と社内の様子を記してゐる。(『五衰の人―三島由紀夫私記』

 司馬遼太郎の文章は原稿用紙にして約九枚の分量があつた。原稿は朝刊の早版から掲載されてゐたから、「司馬氏は事件を聞くや直ちに、長くても三時間以内に書き上げたと思われる」と徳岡は書く。

 司馬はこの文章は次のやうに書き出す。

《 三島氏のさんたるたる死に接し、それがあまりにもなまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない。ただ、この死に接して、かれの死の薄よごれた模倣をする者が出るのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く。》

 「かれの死の薄よごれた模倣」をする者が出るのではないか。それをおそれるがために、この文章を書く、といふ。「かれの死の薄よごれた模倣」といふ刺戟的な言葉は読む者をギヨッとさせた。事件後、三島由紀夫に対する悪罵・中傷・酷評が限りなく出現したけれど、「薄よごれた」といふ表現を使つたのは司馬遼太郎くらゐだらう。(司馬の文章の秘密を解くカギはこの「薄よごれた模倣」といふ言葉にあるが、そのことは改めて述べたい)

 これに続けて司馬は、思想とは何かと説明する。

《 思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである。・・・(思想は)現実とはなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに・・・思想の栄光がある。》

 ところが、「思想は現実と結合すべきだというふしぎな考え方」がつねにあり、「たとえば吉田松陰がそれであった」といふ。そして、松陰論が次のやうに展開される。

《 松陰は日本人がもった思想家のなかで、もっとも純度の高い人物であろう。・・・自分の思想を現実世界のものにしようという、たとえば神のみがかろうじてできる大作業をやろうとした。虚構を現実化する方法はただひとつしかない。狂気を発することである。狂気を触媒にする以外にない。・・・当然、この狂気のあげくのはてには死があり、松陰のばあいには刑死があった。》

《 われわれは日本史に松陰をもったことで、一種の充実があるが、しかしながらそういうたぐいの精神は民族のながい歴史のなかで松陰ひとりでたくさんであり、二人以上も出ればその民族の精神体質の課題という別の課題にすりかわってしまうであろう。》

 松陰論は寄稿文全体の半分近くを占める。三島由紀夫は晩年、思想と行動といふ問題に多くの思索を費やしてゐた。ここまで読んだ読者は当然、松陰の行動と三島の行動とを重ね合はせる。ところが司馬はここで読者に肩透はしを喰はせるのだ。

《 私が松陰という極端な例をここに出したのは、むろん念頭に三島氏を置いてのことである。三島氏のは、三島氏独自の思想であり、日本人の精神の歴史的系列とは別個のものだということを考えたいがためである。》

 三島の死は松陰の死とはまつたく関係がないといふのだ。

 では、三島の死は日本の歴史の中でどのやうな系列の中に位置づけられるのか。

《 三島氏ほどの大きな文学者を、日本史は数すくなくしかもっていないし、後世あるいは最大の存在とするかもしれない。
 ただ氏はここ数年政治的発言をしきりにしてきたために、こんどの氏の異常死をもって、それを政治的死であると解釈されるかもしれない危険(われわれ同時代人にはその危険性はないが)を私は感ずる。三島氏の死は、氏はおそらく不満かもしれないが、文学論のカテゴリーにのみとどめられるべきもので、その点、有島武郎、芥川龍之介、太宰治とおなじ系列の、本質はおなじながらただ異常性がもっとも高いというだけの、そういう位置に確固として位置づけられるべきもので、松陰の死とは別系列にある。》

 有島武郎、芥川龍之介、太宰治。いづれも自殺した文学者である。情死した太宰治を三島由紀夫は唾棄した。これら三者の自死が「文学論」などとは無縁であることを知りつつ、司馬はことさら「文学論のカテゴリー」としてくくり、その中に三島も投げ込んでしまふのだ。「文学者の死のカテゴリー」といはずに、あへて「文学論のカテゴリー」と高尚ぶつて表現したところに司馬の計算がひそんでゐる。


     (続く)


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Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト・評論家。皇室問題やフェミニズム問題に取り組む。三島由紀夫研究家。國語問題研究家。


フェミニズム論の著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

皇室関連の著作としては『天皇を喰ひ物にした侍従長』『天皇と宮内庁の「背信」』など。

執筆には正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を使用、当ブログも正仮名遣ひを用ゐる。

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