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■三島由紀夫の流儀  




  ▼ 失つたら二度と取り返しのつかぬ「日本」


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 ・・・昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失つたら二度と取り返しのつかぬ「日本」は無視され軽ぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。戦後の「日本」が、小生には、可哀想な未亡人のやうに思はれてゐました。
    ( 清水文雄宛手紙  昭和四十五年十一月十七日附 )

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 清水文雄は学習院時代の恩師。中等科で三島の国文法と作文を担当した。「花ざかりの森」を自身が拠る「文芸文化」に推薦、その際使はれた三島由紀夫といふペンネームは清水の命名になる。中世文學を研究する国文学者で、戦後は広島大学などで教鞭をとり、終生広島に在住。平成十年、九十四歳で死去した。

 三島はこの恩師に生涯で九十九通の手紙を送り、『師・清水文雄への手紙』として刊行されてゐる。これはその最後の手紙で、自決八日前の日附がある。

 便箋四枚に書かれた手紙には、のちによく引かれる次の言葉が見える。

 「『豊穣の海』は終はりつつありますが、『これが終はつたら・・・」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終はることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、かつて『癩王のテラス』といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。」

  このあと三島は恩師に、現下日本への憤懣を書き連ねる。

 「・・・昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失つたら二度と取り返しのつかぬ「日本」は無視され軽ぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。戦後の「日本」が、小生には、可哀想な未亡人のやうに思はれてゐました。・・・」

 「このごろ外人に会ふたびに、すぐ『日本はどうなつて行くのだ?日本はなくなつてしまふではないか』と心配さうに訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。・・・日本中が利口な大人になつてしまひました。『これでいいぢやないか、結構ぢやないか、角をたてずに、まあまあ』さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。・・・」

 「どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。烈しい時代精神は時代おくれになり、このごろのサラリーマンは、ライスカレーさへ辛くて喰べられず、『お子様用ライスカレー』と注文するさうです。」

 「こんな愚痴を、よく伊沢氏と語り会つては呑んでゐます。文壇に一人も友達がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏一人になりました。・・・」

 「春まで御上京にならぬ由、洵に残念に存じます。お話したことが山ほどある昨今であります。『山ほど』と云つたつて、悲憤慷慨だけですが。
 向寒の折柄、くれぐれも御身御大切に。               匆々  」

 この手紙を受け取つた清水は文面にただならぬものを感じ、とつさに上京さへ考へた。清水の子息はのちに母親から「お父さんは繰り返し繰り返し讀んで泣いてゐましたよ」と告げられた。












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■三島由紀夫の流儀 




  ▼ 幸福か藝術か、どちらかを犠牲にしなければなりません
 

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 どんなに流行作家になつても通人にならないやうにしませう。荷風のやうに一生「大野暮」で通しませう。そして幸福か藝術か、この二者択一の問題を青年時代に解決しておきませう。幸福か藝術か、どちらかを犠牲にしなければなりません。僕が久米正雄や菊池寛に敬服することは、彼らが断乎として藝術を犠牲にして幸福を求めたからです。中途半端は唾棄すべきです。
   ( 清水基吉宛手紙 昭和二十二年七月二十七日附 )

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 清水基吉(もとよし)は小説家・俳人。昭和二十年に「雁立」で芥川賞受賞。昭和二十一年に鎌倉の川端康成宅で会つて以来親交を深め、二年間ほど頻繁に手紙を取り交はした。

 東大法学部に在学してゐた三島はこの頃作家生活に半分足を踏み入れてゐて、創作の傍ら高文試験の勉強をしてゐた。この手紙では、七歳年長の先輩作家に自己の文學者観などを明け透けに披瀝してゐる。

 「文学者は結局一生のうち少なくとも数年間は一世を風靡しなければいけない。確固たる『自分の時代』といふものを持たなければいけない。深くあらうとして広さを忘れてはならない、・・・」

 「生命力の盛んな人を僕は愛します。自分が貧血症のせゐでもないでせうが、貧血症の文學はきらひです。たとへば大へん失礼な申し様かもしれませんが、貴下の文學にはハイカラな一面、どこか野暮なところがあります。この野暮がなくなつたら堀辰雄風な貧血文學にならないと誰が申せませう。・・・ 」

 「野暮こそ新時代の文學の要素です。・・・」

 「――太宰治、石川淳、これはもう古くて、時代の残滓にすぎないことがわかつてゐる人が何人ゐるでせう。・・・この二人は高貴な文學への背反者です。正しい壮大な反逆者でなく、背中から唾を引つかける卑賎な裏切者です。この卑しさが見物人の卑しさを満足させるのですね。二人とも四畳半式の通人です。・・・そのくせ、わざと野暮ぶつて与太者ぶつて、大いにその粋を発揮してみせてゐるのです。古い通人から喝采されるのも無理はありません。」

 このあと、上掲の文章が続く。

 三島由紀夫が、知人宅で太宰治に出会ひ、面前で「あなたの文學はきらひです」と言ひ放つたのは、この手紙が書かれる半年ほど前のことだつた。












■三島由紀夫の流儀 




  ▼ 小生たうとう魅死魔幽鬼夫になりました
 

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 前略
 小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓讀は学問的に正に 正確でした。小生の行動については、全部わかつていただけると思ひ、何も申しません 。ずつと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思つてゐました 。・・・・・
 ( ドナルド・キーンに宛てた、昭和四十五年十一月二十六日の消印のある手紙 )

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 日本文學研究者ドナルド・キーンと三島由紀夫との交遊は十六年に及んだ。キーン宛の手紙九十七通は『三島由紀夫未発表書簡』として刊行されてゐる。これはその最後の手紙。ドナルド・キーンに宛てた遺書である。死後に讀まれることを想定した手紙は、ほかにはアイヴァン・モリスに宛てた手紙(英文)があるのみである。

 ドナルド・キーンはよく三島への手紙の宛名に、親しみと遊び心から、「魅死魔幽鬼夫様」と書いた。(三島もこれに応へて、手紙の宛名に「怒鳴土起韻様」と書き、署名にも時に「幽鬼亭」などと書いた。)

「キーンさんの訓讀は学問的に正に正確でした」とは、あなたが私の名前に不吉な漢字ばかりあてはめたのは正しかつた、私はまさにそのやうな運命をたどつたのですから、といふ三島一流の諧謔である。

 「今さら御挨拶するのも他人行儀みたいですが、キーンさんが小生に盡して下さつた御親切、友情、やさしさについては、ただただ感謝のほかありません。キーンさんのおかげで、僕は自分の仕事に自信を抱くことができましたし、キーンさんとの交際はたのしさに充ちてゐました。」

 そして、「この上何かお願ひすることは洵に厚かましいのですが」と断りつつ、「豊穣の海」第三巻、第四巻の出版について鄭重に頼み事を述べ、訣別の言葉で結んでゐる。

 「この夏下田へ来て下さつた時は、実にうれしく思ひました。小生にとつての最後の夏でもあり、心の中でお別れを告げつつ、たのしい時をすごしました。
 何卒この上もお元氣で、すばらしい御研究を次々に発表されることをお祈りいたします。」

 手紙の後附はかう書かれてゐた。

《    昭和四十五年十一月
                        三島由紀夫 
  ドナルド・キーン様                     》       

 手紙には日附を忘れなかつた三島なのに、この手紙だけは日附が入つてゐないことに気がつく。

 ドナルド・キーンは平成二十年に文化勲章を受賞、平成二十三年に日本に帰化し、平成三十一年、九十六歳で没した。









■三島由紀夫の流儀  




  ▼ 「英霊の聲」を書いて僕は救はれたのです
 

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 「英霊の聲」といふ小説は、作品のできは知りませんけれどもね、僕はあれで救はれたのですよ。昭和四十年に「三熊野詣」とか一連の短編を書いたことがある。あの時は、自分がどうなるかと思ひました。文學がほんたうにいやでした。なにをしても無駄みたいで、なにか「英霊の聲」を書いた時から、生々してきちやつたのですよ。人がなんと言はうと自分が生々してゐればいいのですからね。あれはおそらく一つの小さな自己革命だつたのでせう。

  ( 「私の文學を語る」  昭和四十三年 )

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 昭和四十三年の評論家秋山駿との対談で、「英霊の聲」に話が及んだときの発言。

 「英霊の聲」は昭和四十一年六月、「文芸」に発表され、「十日の菊」と「憂国」とをあはせた作品集『英霊の聲』が同月、河出書房新社から刊行された。
 
 「政治的な季節の時代ですから、危険な言説かもしれません」と心配する秋山に三島は答へる。

 「さうですよ。もちろん承知の上ですね。危険な言説を吐いたら、これから責任をとらなければならないでせう。・・・「英霊の聲」を書いた時に、・・・なにか自分にも責任がとれるやうな気がしたのです。だからあんなことを書いたのです。さういふ見極めがつかなければあんなもの書けないですね。」

 「英霊の聲」のモチーフは、天皇の「人間宣言」である。

 二・二六事件の青年将校の御霊の聲。

 「 ・・・
 陛下のわれらへのおん憎しみは限りがなかつた。佞臣どもはこのおん憎しみを背後に戴き、たちまちわれらを追ひつめる策をたてた。
 ・・・
 ・・・
 われらは陛下が、われらをかくも憎しみたまうたことを、お咎めする術とてない。 
 しかし、叛逆の徒とは! 叛乱とは! 国体を明らかにせんための義軍をば、叛乱軍と呼ばせて死なしむる、その大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか。
 こは神としてのみ心ならず、
 人として暴を憎みたまひしなり。
  ・・・
  ・・・
 血の叫びにこもる神への呼びかけ
 ついに天聴に達することなく
 陛下は人として見捨て給へり、
  ・・・
  ・・・
 このいと醇乎たる荒魂より
 人として陛下は面(おもて)をそむけ玉ひぬ。
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。」

 特攻隊員の御霊の聲。
 
 「 ・・・
  陛下がただ人間(ひと)と仰せ出されしとき
  神のために死したる霊は名を剥奪せられ
  祭らるべき社(やしろ)もなく
  今もなほうつろなる胸より血潮を流し
  神界にありながら安らひはあらず」
 「日本の敗れたるはよし
  ・・・
  ・・・
  されど、ただ一つ、ただ一つ、
  いかなる強制、いかなる弾圧、
  いかなる死の脅迫ありとても、
  陛下は人間(ひと)なりと仰せらるべからざりし。
  ・・・
  ・・・
  などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。」
 
 日本の戦前と戦後を分断するもの、それは天皇の「人間宣言」であると三島は考へた。

 単行本『英霊の聲』の後記(「二・二六事件と私」)には、 「人間宣言」への疑念のつぶさな表白がある。

 「・・・かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは。たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の『人間宣言』に引つかからざるをえなかつた。」

 「昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期と後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生れてきてゐた。・・・そのとき、どうしても引つかかるのは、『象徴』として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この『人間宣言』であり、この疑問はおのずから、二・二六事件まで、一すじの影を投げ、影を辿つて『英霊の聲』を書かずにはいられない地点まへ、私を追ひ込んだ。・・・私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐことを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけにはゆかぬのである。」   
















■三島由紀夫の流儀  




  ▼ 日本精神の純粋極致としての神風連


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 それでは、彼ら(神風連)がやらうとしたことはいつたい何かと言へば、結局やせても枯れても、純日本以外のものはなんにもやらないといふこと。・・・食ふものから着物からなにからなにまで、いつさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。失敗するのに決まつてゐるのですがね。僕はある一定数の人間が、さういふことを考へて行動したといふことに、非常に感動するのです。

  ( 『対話・日本人論』 昭和四十一年 )

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 林房雄との『対話・日本人論』で、神風連に話が及んだときの言葉。この本が刊行された昭和四十一年、三島は『奔馬』取材のために熊本に赴き、神風連研究家荒木精之に会ひ、神風連の故地を尋ね歩いた。『奔馬』は、神風連に傾倒し、財界人暗殺を企図した主人公飯沼勲が、右翼塾頭である父親の背信などに直面し、最期に切腹して果てるまでの物語である。『奔馬』の主題は「日本精神」と「純粋」である。

 三島は神風連の行動を熱を込めて語る。
 
 「紙幣は西洋風のものだからといふので、箸ではさんで持つたり、電信線は西洋のものだからといつて絶対にその下をくぐらない。毎日、清正公の廟にお参りするのに、電信線のないところを迂回して行く。どうしてもくぐらなければならないときは、頭の上に白扇を乗せて行つたとか。戊辰の役のとき、藩主の護久公について上京したときに、西洋流の鉄砲をかつがされた。途中で、きたならしいといふので、淀川に入つて、羽織を洗濯したといふのですね。それから塩をいつも袖に入れてゐて、坊さんに会つたり、洋服を着た人に会つたり、汚れた人間にあつたりすると塩をまいた。」

 神風連の二大方針とは、第一に当路に建白して秕政を改めしめんとすること、第二は刺客となりて当路の奸臣を倒すこと。神様の神意をうかがふ「うけひ」を神儀の中で一番大切にしてゐて、行動自体が「神のまにまに」となる。

 「その根本思想といふのは、実際の神に仕へるものも、現生の神である天皇に仕へるものも、幽顕の違ひこそあれ、その理において異なるところはないといふ考へですね。」

 「手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあひだの乖離といふのはあり得ない。」










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  ▼ 天皇がなずべきことは、お祭、お祭、お祭



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 天皇といふのは、国歌のエゴイズムといふものの、一番対極のところにあるべきだ。さういふ意味で、天皇が尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根源にあるのは、とにかく「お祭」といふことです。天皇がなずべきことは、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。

  ( 「文武両道と死の哲学」 昭和四十二年 )

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 福田恆存と行なつた対談での発言。「論争ジャーナル」誌に掲載されたこの対談では、天皇と憲法の問題を中心に率直に語り合つてゐる。
 
 「つまりぼくの言つてゐる天皇制といふのは、幻の南朝に忠勤を励んでゐるので、いまの北朝ぢやない・・・幻の南朝とは何ぞやといふと、人に言はせれば、美的天皇制だ。戦前の八紘一宇の天皇制とは違ふ。・・・それは何かといふと、没我の精神で、ぼくにとつては、国家的エゴイズムを制肘するファクターだ。・・・ぼくの考へが既成右翼と違ふところだと思ふのは、天皇をあらゆる社会構造から抜き取つてしまふんです。抽象化しちやふ考へです。」

 「天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、そこにゐなけりやいけない。それをいまから準備してゐなければならない。それはアンティエゴイズムであり、アンティ近代であり、アンティ工業化であるけど、決して古き土地制度の復活でもなければ農本主義でもない。」

 「随分あなたは天皇につらい役目を負はすんだね」といふ福田に、「ぼくは天皇に過酷な要求をする」、忠義は過酷なものだといふことを証明したのが二・二六事件だと云ふ。

 三島 握り飯の熱いのを握つて、天皇陛下にむりやり差し上げるのが、忠義だと思ふんです。
 福田 召し上がらなかつたらどうする。
 三島 おわかりでせう。(笑)でも、ぼくは、君主といふものの悲劇はそれだと思ふ。覚悟しない君主といふのは君主ぢやないと思ふ。








■三島由紀夫の流儀 




  ▼ ぼくはさうやすやすと敵の手には乗りません

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 ・・・だが、ぼくはさうやすやすと敵の手には乗りません。敵といふのは、政府であり、自民党であり、戦後体制の全部ですよ。社会党も共産党も含まれてゐます。ぼくにとつては、共産党も自民党も同じものですからね。まつたく同じものです。どちらも偽善の象徴ですから。ぼくは、この連中の手にはぜつたい乗りません。いまに見てゐてください。ぼくがどういふことをやるか。(大笑)

 ( 「三島由紀夫 最後の言葉」 昭和四十五年 )

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 蹶起一週間前の昭和四十五年十一月十八日夜、自宅で行はれた古林尚との対談。古林は三島への峻烈な批判を発表してゐた評論家で、この時まで対談の申し出を拒まれ続けてゐた。

 この発言の前に、「あの民兵たちは日本の軍国主義化の地ならし、徴兵制実施のためのチンドン屋といふことになりませんか」といふ古林に、三島はかう答へてゐる。

 「古林さん、いまにわかります。ぼくは、いまの時点であなたにはつきり言つておきます。いまにわかります。さうではないといふことが。」

 この対談は「図書新聞」の十二月十二日号、四十六年一月一日号に掲載された。テープやCDで対談を今も聞くことができるが、「論敵」との対話を楽しむ如く、戦後文学の話から、バタイユ、二・二六事件、天皇、人間宣言、北一輝、ソルジェニーツィン、ニーチェまで闊達、縦横に語つてゐる。

 全共闘との討論会の話になり、かれらに心情的共感を示しつつも、「ぼくは死の問題において彼らに期待してゐませんよ」と三島はいふ。

 「明治維新のときは、次々に志士たちが死にましたよね。あのころの人間は単細胞だから、あるひは貧乏だから、あるひは武士だから、それで死んだんだといふ考へは、ぼくはきらひなんです。どんな時代だつて、どんな階級に属してゐたつて、人間は命が惜しいんですよ。それが人間の本来の姿です。命の惜しくない人間がこの世の中にゐるとは、ぼくは思ひませんね。だけど、男にはそこをふりきつて、あへて命を捨てる覚悟も必要なんです。」

 予定時間を一時間半も超過し、古林が対談を打ち切らうと、「今後の日本文学についてどう考へてをられるのか」と最後に聞いた。

 「ぼくは自分はペトロニウスみたいなものだと思つてゐるんです。そして、大げさな話ですが、日本語を知つてゐる人間は、おれのゼネレーションでおしまひだと思ふんです。日本語が体に入つてゐる人間といふのは、もうこれからは出てこないでせうね。・・・世界中が、すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかへ、言葉こそ違へ、まつたく同じ精神、同じ生活感情の中でやつていくことになるんでせうね。さういふ時代が来たつて、それはよいです。こつちは、もう最後の人間なんだから、どうしやうもない。」
 
 ペトロニウスは第五代ローマ皇帝ネロの側近で、古代ローマの頽廃を描いた「サチュリコン」の作者である。








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  ▼ 私は精神の戦ひにだけ私の剣を使ひたい


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 ・・・人が戦争をしてゐるところへ行つて、小説用のメモをつけてゐるといふのは、いかに決死的であつても、私には何だかをかしな行為に思はれる。報道写真家の客観性といふものに、今でも私は説明しがたい疑惑を抱いてゐる。

  ( 「『國を守る』とは何か」 昭和四十四年 )

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 「私は何とか政治に参加したくないと考へ続けてきた」で始まるこの文章は、朝日新聞に掲載された。

 戦時中の文士には、岸田國士のやうに自ら敵地に踏み込んで行つた人もあり、報道班員にされた作家もたくさんあつた。一方には谷崎潤一郎のやうに美的世界を一歩も踏み出さない人もあつた。

 「同じ立場におかれたら、私は谷崎氏にもなりたくはなく、いはんや岸田氏にもなりたくなく、報道班員には死んでもなりたくないと考へたのである。」

 安保闘争では、言葉とその内容概念の乖離、言葉の多義性のほしいままな濫用、ある観念のために言葉が瀆(けが)される状況を見た。「私は不遜にも、自分の文學作品のなかに閉じ込めた日本語しか信用しないことにした。」

 とろこが言葉といふものは自家中毒を起こす。言葉を以て言葉を守るといふのは方法上の矛盾ではないのか。

 「もし私が日本語のもつとも壊れやすい微妙な美を守らうとしてゐるのなら、それを守るのは自ら執る剣であるべきであり、またそのお返しに、剣のもつとも見捨てられた本質を開顕すべく、言葉を使つたらよからうと思つたのである。これが私の文武両道論のはじまりであるが、こんな素朴な考へをも思想と呼ぶことができるなら、私もまた、思想とは単なる思考活動ではなく、全身的な人間の決断の行為であると考へる者の一人になつたと言へよう。」

 「私は精神の戦ひにだけ私の剣を使ひたい。」







■三島由紀夫の流儀




  ▼ 仮寝の鼾に埋まつた豚小屋


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 昭和十一年に居眠りをし、昭和十一年に出鱈目の限りをつくしてゐた連中の末裔は、昭和四十二年にも居眠りをし、昭和四十二年にも出鱈目の限りをつくしてゐる。われわれのまはりは、仮寝の鼾に埋まつてゐて、豚小屋のやうである。

  ( 「『道義的革命』の論理―磯部一等主計の遺稿について」  昭和四十二年 )
 
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 二・二六事件の三十年後にして世に出た磯部浅一一等主計の遺稿は、三島由紀夫を強烈に惹きつけた。

 磯部の遺稿には、「日本の正気が去つたら、日本は亡びるのだ。神々は何をしてゐるのだ」といふ憤怒と呪詛の言葉とともに、名高い「暗黒裁判」の実態が記述されてゐる。

 磯部が残した裁判官たちのスケッチは、「昭和の転回点をなしたこの大事件の公判に臨む人間として、戯画以上のものである。」

 「アクビをし、居ねむりをし、終始顔をいぢり、(顔面シンケイ痛の少佐裁官)(居ねむりは肥大せる少佐裁官)、等々出タラメのかぎりをしてゐるではないか」

 これを引用したあと、三島は上記のやうに書き付けたのである。









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  ▼ ウサギの肉の効用

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 革命の気が熟したとき、文化人はあひもかはらず、女子供と同様に扱はれるであらう。それはいはばウサギの役割なのだ。もしプラカードを持つてフラフラして、ぶち殺されれば、革命陣営は口をきはめてその「英雄的行動」をほめそやすであらう。しかしそれはウサギの英雄にすぎないのだ。

  ( 「日録」 昭和四十二年 )

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 三島がこの文章を書いたころ、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ、日本では全共闘運動に知識人たちが同情を寄せてゐた。
 
 「・・・文化人知識人といふものは、老人か、女子供に類する肉体的弱者に決つてゐるから、『弱者が殺された』といふ民衆的憤激をそそり立てるのに効果的であり、ただ弱者であるのみならず、その上、多少の知識や文化的活動の経歴名声がプラスして、『尊敬すべき弱者が殺された』といふ政治的効果は多大なものだ。革命における文化人の効用は、ウサギの肉の効用である。」

 「私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。・・・ウサギにしろ、ニハトリにしろ、豚にしろ、さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉はうまい部類に入る。
 肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を固めたのである。」

 かくて三島由紀夫は、己の「肉をまづく」するために、数カ月後、陸上自衛隊に単身で体験入隊することになる。








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  ▼ 私は自殺をする人間がきらひである

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 私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を敢行しなかつたのは単に私の怯懦からだと思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や一騎打と同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。

   ( 「芥川龍之介について」 昭和二十九年 )
 
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 二十九歳のとき文藝雑誌に書いた「芥川龍之介について」といふ一文。

 「私は弱いものがきらひである。・・・肉体の弱さに対しては私自身に対すると同様寛容で、逆に異常な肉体的精力に対して反感を催すはうであるが、心の弱さだけはゆるすことができないのである。」

 この頃、三島由紀夫はまだ強靭な肉体を保有してゐなかつた。

 「あるひは私の心は、子羊のごとく、小鳩のごとく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に変はるのかもしれない。しかし厄介なことは、私のかうした自戒が、いつしか私自身の一種の道徳的傾向にまでなつてしまつたことである。」

 芥川が脅えてゐたやうな未来は大したことではなかつたといふのも、人工の翼が破れて敗北したといふのも俗論である。ホフマンスタールがオスカア・ワイルドの生涯について言つたやうに、「人生といふものをこのやうに陳腐にし、・・・何事も『不運な事件』といふ水準にまで引き下げてしまつてはならない」のだ。

 「私はしつこくは言ふまい。芥川は自殺が好きだつたから、自殺したのだ。私がさういふ生き方をきらひであつても、何も人の生き方に咎め立てする権利はない。」







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  ▼ 作家を志す人々の為に


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 なぜ自分が作家にならざるを得ないかをためしてみる最もよい方法は、作品以外のいろいろの實生活の分野で活動し、その結果どの活動分野でも自分がそこに合はないといふ事がはつきりしてから作家になつておそくはない。

    ( 「作家を志す人々の為に」 昭和二十五年 )

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 『仮面の告白』を出した翌年、「蛍雪時代」に寄稿した文章。大学受験進学の月刊誌「蛍雪時代」は短歌、俳句、詩の投稿欄なども充実してゐて、文学に関心のある若者にも愛読者が少なくなかつた。後年、文学青年を毛嫌ひし身辺から遠ざけた三島も、ここでは「作家を志す人々の為に」、實生活に携はることの重要さを正面からアドバイスしてゐる。

 「小説家はまづにしつかりした頭をつくる事が第一、みだれない正確な、そしていたづらに抽象的でない、はつきりした生活のうらづけのある事が必要である。何もかもむやみと悲しくて、センチメンタルにしか物事をみられないのは小説家としても脆弱である。」

 フロベールは法律を勉強した。ポール・クローデルは外交官だつた。ポール・モーラン、ジャン・ジロード―、ゲーテ、みな實生活の裏づけを持つてゐた。

 しかるに日本では實生活の経験を有する作家は森鷗外以外にほとんど見られない。日本の職業は個人生活全部を束縛してしまふ。加へて、日本人の体力やエネルギーの不足といふこともある。

 「森鷗外の様に驚くべき少ない睡眠時間で、いそがしい軍務と、文学的生活とを両立させたやうな例は日本人の誰でものぞめるやうな事ではなく、私自身の経験によつても役所勤めをして、帰つて来てから夜小説を書く事ははなはだしい体力の消耗であつて、どちらの仕事にもマイナスになるやうな気がした。」

 それでも作家志望の人々に實生活の方へゆく事をすすめるのはなぜか。

 「その両立しえないやうな生活を両立させようとぎりぎりの所まで努力する事が、たとへそれが敗北に終はらうとも小説家としての意志を鍛へる上に、又藝術と生活との困難な問題をぎりぎりまで味はふために決して無駄ではないと思ふからである。」

 バルザックは毎日十八時間小説を書いた。

 「このコツコツとたゆみない努力の出来る事が小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては藝術家も實業家も政治家もかはりないと思ふ。なまけものはどこに行つても駄目なのである。」







■三島由紀夫の流儀 




  ▼ 父親の最低限度の教育
 

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  ・・・女児が生れたとき、私は父親の最低限度の教育として、三つの言葉を教へようと骨を折つた。それは、
「こんにちは」
「ありがたう」
「ごめんなさい」
 の三つである。「こんにちは」は、おはやう」「おやすみ」「ごきげんよう」「こんばんは」「さやうなら」等々を含み、要するに日常の挨拶である。
 ・・・
 この三つが、大人になつてもスラリと出ない人間は社会生活の不適格者になる。私は口やかましくこれだけを言ひ、子供たちはどうやら言へるやうになつたが、言はないときは忘れずに寸時を措かずにこちらから催促する。とにかく命令して言はせるのである。
  ( 「わが育児論」 昭和四十一年 )

   * * * * * * * *



 三島由紀夫には二人の子供がゐた。長女六歳、長男三歳のときに書いた文章である。

 理想的な父親の教育とは、漁師の父親が、息子に、縄のなひ方から、櫓のこぎ方、網の打ち方などをだんだんに教へるやうな、父子相伝の技術の教育である。しかるに都市のインテリ階級は、息子に伝へるべき技術を何も持たぬ。

 「考へてみれば、私の職業上の利点として、子供に教へてやれるのは、言葉だけだと思ふ。」

 「新潮」編集部で三島を担当してゐた小倉千加子は、三島邸で親子のこんな場面を目撃してゐる。
 
《 最後の年となつた年の夏過ぎのある日。馬込の応接室で面談中、まだ小学生の長男、威一郎さんがどこかへ出掛けるらしく、テラスから顔をかしげるやうに父親の三島さんに向けて、「行つて参ります」と挨拶をした。客に気兼ねしたのか、小さな声だ。途端に、びつくりするやうな強い声でその父親は、
「ダメだッ。そんな言ひ方では! もう一遍やり直しッ」
 威一郎さんが今度は正面切つて直立し、語尾までしつかり言ひ終へると、
「よおし! それでよしッ」
 と深く頷き、やつと放免してあげた。》
     (『三島由紀夫と壇一雄』)

  







■『明治天皇御製集』拝誦 




    ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆ 

  ますらをにはたてさづけておもふかな
       日本(ひのもと)の名をかがやかすべく  
             
                 (明治三十七年)

    ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 帝国陸軍では、歩兵連隊と騎兵連隊の軍旗は天皇から連隊長に親授された。

 勇士に軍旗を授与して思ふことだ、日本の名を輝かせねばならぬ、と。

「はたて」は長旗の風にひるがへる先端をいふ。「旗手」と書くのは当て字。御製の「はたて」は旗の持ち役でなく、旗そのものをさしてゐる。

 古歌に「雲のはたて」と詠まれたのは、雲のたなびくさまを旗がなびくのに見立てたもの。







■ 『明治天皇御製集』拝誦




    ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆ 

   いくさびといかなる野べにあかすらむ
        蚊の聲しげくなれるこの夜を
    
              (明治三十七年)


    ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 日露戦役中の明治三十七年八月の御作と伝へられる。御題は「深夜述懐」。

 「いくさびと」は軍人。

 「あかすらむ」は「夜をあかすならむか」の意。

 この頃、満洲の地では、第一軍と第二軍が遼陽に逼らんとしてゐた。

 野営する将兵はさぞ苦しみてあるらん、と思ひやりて詠まれた御製。







■三島由紀夫雑記 




  ▼  三島由紀夫の「ビートルズ見物記」


 歩きながらウオークマンでFMラヂオを聞いてゐたら、「ことしはジョン・レノンの没後四十周年にあたるので、この時間は毎日一曲ジョン・レノンの作品をお届けしてゐます」と男のパーソナリティの声が聞こえて、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が流れてきた。曲が終はると彼は「すごい曲ですね」と言つた。

 さうだ、ことしは三島由紀夫の没後五十周年だが、ジョン・レノンの四十周年でもあつたのだ。

 ジョン・レノンは1980年12月8日、ニューヨークのダコタ・ハウスの前で、マーク・チャップマンに拳銃で撃たれて死んだ。三島由紀夫が死んだのが1970年(昭和四十五年)十一月二十五日だから、そのほぼ十年後にジョン・レノンが死んだことになる。

 十代のころビートルズ氣違ひだつた私はジョン・レノンの死に激しい衝撃を受けた。テレビのニュースでジョン・レノンの死を知らされ瞬間、私の心に浮かんだのは「もうこれで二度とビートルズを見ることはできない」といふ感想だつた。私はビートルズが再結成されることを願つてゐたのである。

 三島由紀夫に「ビートルズ見物記」といふ面白い文章がある。昭和四十二年六月三十日に日本武道館で行はれたビートルズ日本公演の初日を「見物」したレポートで、週刊誌「女性自身」に掲載された。

 おそらく三島由紀夫はビートルズの楽曲なんかほとんど聞いたことはなかつたと思ふ。しかし「何でも、見て、味はつてから、批評するといふ気持ちを失ふまい」と思つてゐる作家は、「ビートルズとはそもそも何者ならん、といふ探求心のとりこ」になつて、ビートルズ公演初日に出かけたのだつた。

 日本武道館で彼が目にしたものは、とてつもない厳重な警備だつた。

 「遠くのはうで車をおろされ、武道館まで歩くわ、歩くわ、その道ぎはにはお巡りさんが密集してゐて、その整理のうまいこと、誘導の整然としてゐること、まるで警視総監のお葬式に参列するやうな気分である。」

 中に入つて席に座ると、場内の異様な光景に驚く。

 「切符には一階の三列目と書いてあるのに、一階といつても実は二階で、一階は完全にとつ拂はれてゐるのである。その一階の全平面は、壁ぎはに警官がとり巻き、中央近くまでガランと床があき、さらに花輪の列がとり巻き、さらに頑丈な城壁が組まれ、その上をテレビ・カメラが占領し、さらに奥に舞台が二つあり、またその上に高い舞台があつて、そのうしろに大きくTHE BEATLES といふ字を書いた壁が張りめぐらされてゐる。ここから舞台までは百メートルほどもあるだらうか。」

 克明に場内の様子を述べたのは、「ほかでもない、ビートルズがいかに最低の舞台条件で歌つたか」といふことを言ひたいからであつた。

 警備のために場内の電気はつけつぱなし、演出もヘッタクレもあつたものではなく、しかも正味たつた三十数分の演奏・・・。

 歌ひ出すやいやな、キャーキャーといふさわぎで、歌もろくすつぽきこえない。どうにかきこえたのは、イエスタデーがどうしたかうしたといふ一曲だけ。

 「私は舞台へ背を向けて、客席を見てゐるはふがよほどおもしろかつた。何のために興奮するかわからぬものを見てゐるのは、ちよつと不気味である。」

 「私の数列うしろの席は、ビートルズ・ファンの女の子たちに占められてゐたが、その一人はときどき髪をむしつて、前のはうへ垂れてきた髪のはしをかんでゐるが、アイ・ラインが流れだしてゐる恨むがごとき目をして、舞台をじつと眺めてゐる顔は、まるでお芝居の累(かさね)である。」

 累とは、醜女で嫉妬深いところから夫に殺され、その怨念が一属に祟つたといふ因縁ばなしの主人公である。

 終演後、退場の時間になつても、二人の少女が、まだ客席に泣いてゐた。

 「腰が抜けたやうに、どうしても立ち上がれないのを見たときには、痛切な不気味さが私の心をうつた。そんなに泣くほどのことは、何一つなかつたのを、私は知ってゐるからである。」

このレポートのタイトルが、ビートルズ「見物」記となつてゐるのもむべなるかな。

 半世紀前、あのビートルズを三島由紀夫が日本武道館の客席で見てゐたといふことが何だか信じられないやうな気がする。






 
■三島由紀夫の流儀 




  ▼ 日本人の誇り


   * * * * * * * * 

 言ひ古されたことだが、一歩日本の外へ出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。先ごろハンブルグの港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、船尾に日の丸の旗をひるがへして、威風堂々と入って来るのを見た。私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは別に応答もなく、まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。
 これは実に単純な感情で、とやかう分析できるものではない。・・・北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な明るい心情が、そこから光を放つてゐるやうだつた。
 ( 「日本人の誇り」 昭和四十一年 )

   * * * * * * * *


 それでは自分がその「素朴で明るい」日本人の一人かといふとはなはだ疑はしい。しかし、異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。

 「私は巣を持たない鳥であるより、巣を持つた鳥であるはうがよい。」

 「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは余計なお節介といふべきであり、「私はあらゆる文化政策的な見地を嫌悪する」。日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、どうせ帰るところは日本しかないのである。








■三島由紀夫の流儀 




  ▼ わが室内装飾


   * * * * * * * * 

 日本人の美学は、金ピカ趣味を失つてから衰弱してきた、といふのが私の考へである。従つて、私の室内装飾は、金ピカ趣味一点張りになつた。
 ・・・装飾品にはつとめて対のものを置くやうにすること、壁面は余白を少くして大きくなるたけシンメトリカルに飾ること、色は、金・白・緋・紫などを基調にすること、見てゐるうちに目はチカチカし頭はカッカとしてくるやうな具合に装飾すること、これが私のプランであり、大略そのやうな成果を得たと自負してゐる。

 ( 「私の室内装飾」 昭和三十七年 )

   * * * * * * * *



 昭和三十四年、三島由紀夫は馬籠に白亜の新居を建てた。ラテン・アメリカの家が好きだつた三島は設計者の鉾之原捷夫に、「ヴィクトリアン王朝のコロニアル様式」の家を建ててほしいと依頼した。「よく西部劇に出てくる成り上がり者の悪者が住んでゐるアレですか」と皮肉屋の設計者が応じると、「ええ悪者の家がいいね。ロココの家具に、アロハ・シャツにジン・パンツで腰かけるやうな生活が僕の理想でね」とカラカラと笑つた。

 家が完成すると、室内をフランス骨董やスペイン骨董で飾りたてた。新妻瑤子とスペインを旅行したときには、買ひ物魔となり、スパニッシュ・バロックの骨董をあさり歩いた。

 「スパニッシュ・バロックはゴテゴテ趣味の最たるもの」で、スペインで買つてきた純バロックの金ピカの一対の聖画の額は、白壁にまことによく合つた。

 「このごろ、新しいビルなどでも、どんな壁の色が仕事の能率を上げるとか、疲労度を増すとか、研究が進んでゐるやうだが、私は人間の神経は、壁の色によつて左右されるほどヤハなものである筈がない。いや、あるべきではない、といふ考へである。又、椅子一つでも、むやみと快適な角度や柔らかさが重要視されてゐるやうだが、私は背の直立した固い椅子ほど、健康によい、といふ考へである。」






■三島由紀夫の流儀 




  ▼ 「葉隠」から得た実際的な教訓


   * * * * * * * * 

 わたし自身はあくる日の予定を前の晩にこまかくチェックして、それに必要な書類、伝言、あるいはかけるべき電話などを、前の晩に書きぬいて、あくる日にはいつさい心をわずらわせぬやうに、スムースにとり落としなく進むやうに気をつけてゐる。これはわたしが「葉隠」から得た、はなはだ実際的な教訓の一つである。

 ( 「葉隠入門」 昭和四十二年 )

   * * * * * * * *

 「葉隠」の聞書第一にある、「翌日の事は、前晩よりそれぞれ案じ、書きつけ置かれ候。これも諸事人より先にはかるべき心得なり」といふ文言に関する説明。

 三島由紀夫は「葉隠」から、人生哲学のみならず、「日常生活のこまかなことについても、役に立つ、さまざまなヒント」を讀みとつた。

 あくびをとめる方法も「葉隠」から得た「実際的な教訓」の一つであつた。

 「人中いて欠伸仕り候事、不嗜なる事にて候。不図欠伸出で候時は、額を撫で上げ候へば止み申し候。さなくば舌にて唇をねぶり口を開かず、又襟の内袖をかけ、手を当てなどして、知れぬやうに仕るべく事に候。」

 あくびをとめることはけふにも実行できることである。「わたしは戦争中からこれを讀んで、あくびが出さうになると上唇をなめてあくびをがまんした。ことに戦争中には大事な講話の最中にあくびをしてさへ叱責を受けたので、常朝の教へははなはだ有効であつた。」




   











■三島由紀夫の流儀 




  ▼ 私のきらひな人


   * * * * * * * * 

 何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない。酒の上だと云つて、無礼を働いたり、厭味を言つたり、自分の劣等感をあらはに出したり、又、劣等感や嫉妬を根に持つてゐるから、いよいよ居丈高に笠にかかつた物言ひをしたり、・・・何分日本の悪習慣で「酒の上のことだ」と大目に見たり、精神鍛錬だくらゐに思つたりしてゐるのが、私には一切やりきれない。
 ( 「私のきらひな人」 昭和四十一年 )

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 型破りな編集で時代を画した雑誌「話の特集」(表紙絵横尾忠則、デザイン和田誠、編集長矢崎泰久)に寄稿した文章で、「この雑誌は何を書いてもいいさうだから、他の雑誌に書いたら顰蹙を買ひさうなことを敢て書かせてもらふ」といふ前置きがある。

 文士の老年には、谷崎潤一郎型と永井荷風型の二つの背反する型がある。荷風は金よりほかには頼るものなしと大悟したのはよいが、医者に出す金さへ吝しんで、野たれ死同様の死に方をした。潤一郎は出版社から巨額の前借を平然としながら、死ぬまで豪奢な生活を営んだ。二人の人間ぎらひは実に徹底したもので、潤一郎は自分をほめてくれる人間しか寄せつけず、荷風はさういふ人間でさへ遠ざけた。

 自分が荷風型になる兆候はいろいろ見えてきて、同業の文士の顔を見ることがだんだんいやになつて来てゐる。

 「文士の出さうなバアや料理屋はつとめて避けて歩いてゐる。・・・今では、文士ほど、人の裏を見る、小うるさい存在はないと思ふやうになつて来てゐる。」

 「何かにつけて私がきらひなのは、節度を知らぬ人間である。一寸気を許すと、膝にのぼつてくる、顔に手をかける、頬つぺたを舐めてくる、そして愛されてゐると信じ切つてゐる犬のやうな人間である。」

 「われわれはできれば何でも打ち明けられる友達がほしい。どんな秘密でも頒つことができる友達がほしい。しかしさういふ友達こそ、相手の尻尾もしつかりつかんでゐなければ危険である。」

 「私が好きなのは、私の尻尾を握つたとたんに、より以上の節度と礼儀を保ちうるやうな人である。」

 「お世辞を言ふ人は、私はきらひではない。うるさい誠実より、洗練されたお世辞のはうが、いつも私の心に触れる。世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐると称してゐる人間は、概して鈍感な人間である。」

 「お節介な人間、お為ごかしを言ふ人間を私は嫌悪する。親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものがあるものだが、お節介な人間は、善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。善意のすぎた人間を、いつも私は避けて通るやうにしてゐる。私は、あらゆる忠告といふものを、ありがたいと思つてきいたことのない人間である。」

 それほど、あれもきらひ、これもきらひと言ひながら、言つてゐる手前はどうなんだと訊かれれば、返事に窮する。

 「多分、たしかなことは、人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると考へてよい、といふことである。」








■三島由紀夫の流儀





  ▼ ヒットラーは二十世紀そのもののやうに暗い



   * * * * * * * * 

 ずいぶんいろんな人に、「お前はそんなにヒットラーが好きなのか」と聞かれたが、ヒットラーの芝居を書いたからとて、ヒットラーが好きになる道理はあるまい。正直のところ、私はヒットラーといふ人物には恐ろしい興味は感ずるが、好きかきらひかときかれれば、きらひと答へる他はない。ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必須な、爽やかさ、晴れやかさ、彼には決定的に欠けてゐた。ヒットラーは二十世紀そのもののやうに暗い。

 ( 「わが友ヒットラー」覚書 昭和四十四年 )

   * * * * * * * *



 戯曲「わが友ヒットラー」上演に際して、劇団浪漫劇場プログラムに書いた文章。

 「わが友ヒットラー」は、1934年のレーム・突撃隊粛清事件に立脚した戯曲である。

 ヒットラーに「わが友」と呼びかけるのは、その友情を愚直に信じて殺されてしまふレームである。

 ヒットラーは現代史上、悪魔の代名詞である。そのヒットラーを戯曲に取り上げ、のみならず、題名に「わが友ヒットラー」といふ刺戟的なを冠したのは、「お前はそんなにヒットラーが好きなのか」といふ反応を当然計算に入れてのことだつた。

 三島はアラン・ブロックの『アドフル・ヒトラー』を讀むうちに、レーム事件に甚だ興味を覚えた。

 「国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的鉄則であるやうに思はれる。・・・それをヒットラーは一夜でやつてのけたのである。是非善悪はともかくヒットラーの政治的天才をこの事件はよく證明してゐる。」

 驚くのは、あの文学少年三島由紀夫が十代のころ、ヒットラーのものをよく讀んでゐたことである。ヒットラーにかぶれた父親に無理やり讀まされたのである。文学仲間の先輩への手紙では、「官吏根性に凝り固つた」父親の圧政ぶりを訴へてゐる。

 「父はナチスだの何だのといふ本を讀ませますから、父の前ではカムフラアジュのためその種の本ばかり讀んでゐる・・・」

 「父はたとへ冗談にしろ、「亡国の民」と私を呼びます。・・・それから私は、父のあてがふ書物ばかり讀みはじめました。やれナチス運動だ、ナチス政策だ、ヒットラアだ、鉄衛団だ、・・・おかげでその方面の知識をすこしは得ましたけれども・・・」

 『三島由紀夫書誌』をみると、蔵書の中にはヒットラーの『わが闘争』が三種類もある。うち二種が、それぞれ昭和十五年刊、昭和十七年刊と戦前のもので、いづれも父親に讀まされた文献と思はれる。










■三島由紀夫の流儀 





  ▼ 私はなぜカメラを持たないか



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 私がカメラを持たないのは、職業上の必要からである。カメラを持つて歩くと、自分の目をなくしてしまふ。自分の目をどこかに落つことしてしまふのである。つまり自分の肉眼の使ひ道を忘れてしまふ。カメラには、ある事實を記録してあとに残すといふ機能があるが、次第に本末顛倒して、あとに残すために、現在の瞬間を犠牲にしてしまふのである。

  ( 「社會料理三島亭」 昭和三十五年 )

   * * * * * * * *



 三島由紀夫はカメラを持つてゐなかつた。国内の旅行にも海外旅行にも、カメラを持つて行つたことがないといふのが「ヘソまがりの自慢」であつた。

 湖水のかたはらを歩いてゐて、白鳥が今正に飛び立つところを見て、カメラのシャッターを切る。アルバム上の一枚の天然色写真には、湖面から飛び立たうとしてゐる一羽の白鳥が映つてゐる。

 「なるほど写真としては美しい。しかし、それが本當に、その瞬間美しいと思つた印象と同じものかといふと疑問である。・・・そこに写つてゐるのは一羽の白鳥にすぎない。しかし美しさの印象といふものは、一羽の白鳥より大きなものである。写真は一羽の白鳥しか写さないが、われわれの目は瞬間にもつと大きなものを写す。・・・われわれの肉眼には、見えてゐる対象、一羽の白鳥以外に、音楽も写つてゐれば、歴史も写つてをり、さういふものが渾然として美的印象を形づくつてゐるのである。」

 「大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を写しても、ふるさとの懐かしい山といふものは映してくれない。ただ、「ふるさとの懐かしい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。」

 人の家に呼ばれて、家族の成長のアルバムを見せられるほど退屈なものはない。人の家族の成長なんか面白くもなんとないからである。

 最悪なのが赤ん坊の写真である。他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。世間の親はみんなさう思つてゐる。

 「かへすがへすも注意すべきは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に見せるものではない、といふことである。」






■三島由紀夫の流儀 





  ▼ 音楽は頭をかきみだす



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 音楽は頭をかきみだす。ああ、甘い、抵抗のない音楽、世間普通の人が休息のためにきくやうな音楽ほどさうだ。適度の快楽、適度の面白さ、適度の社交、かういふものはみんな私には劇薬のやうに思はれる。その適度さの積み重なりが猛毒なのである。
 ( 「裸体と衣装」 昭和三十四年 )

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 「裸体と衣装」は昭和三十三年から三十四年にかけて「新潮」に「日記」の題名で連載されたもので、家の新築、移転、結婚などの生活実録、讀んだ本の感想と批評(フロベール、西鶴、「千夜一夜」、ホフマンスタール、武道初心集、南方熊楠、折口信夫、古代マヤ聖典、武田泰淳等)などのほかに、自らの生活態度や執筆姿勢に関する自省めいた記述も少なくない。

 三島由紀夫は「書斎にゐる時間を少しでも長くしなければならぬ」と常々考へてゐた。しかるに、芝居の仕事をはじめてから、「生活は色彩を加へもしたが、煩雑さも増した。」

 たとへば、「日記」にこのやうに書いた一日はこんな風だつた。
 
 文藝春秋の樋口氏が来訪、文士劇「助六」の意休の役の「役納め」(役を俳優に伝へて受けてもらふ)。夕刻から歌舞伎座貴賓室で、演出の久保田万太郎、松竹の重役らと「むすめごのみ帯取池」の打合せ会。大ぜいの人がひつきりなしに部屋に出入りし、カメラマンのフラッシュが明滅する目まぐるしい会合。八時すぎ、タキシードに着かへ、ナイトクラブにおける越路吹雪のシャンソンの会。東宝の重役連と肩を組んで、ズボンをまくり上げてフレンチ・カンカンを踊らされる。十一時、明治座へゆき、柳橋みどり会のために書いた舞踊台本「橋づくし」の舞台稽古に立ちあふ。・・・

 ここで生活態度への反省が生まれる。

 「何とかこんな風ではなく、大ぜいの人と会つたり、賑やかに談笑したりするのは、一週一ぺんと決つてゐて、あとの日は静かにすごせないものか。・・・こんな状態が仕事によくないことははつきりわかつてゐるのに、私はさりとて賑やかな場所から全く離れてゐることもできない。都会の児の宿命だ。
 音楽は頭をかきみだす。ああ、甘い、抵抗のない音楽、世間普通の人が休息のためにきくやうな音楽ほどさうだ。適度の快楽、適度の面白さ、適度の社交、かういふものはみんな私には劇薬のやうに思はれる。その適度さの積み重なりが猛毒なのである。」

 音楽についてこのやうに書いたからといつて、三島由紀夫は音楽が嫌ひだつたわけでは決してない。この日も越路吹雪のシャンソンを聞きに行つてゐるし、一カ月前にはポール・アンカのショウも見てゐた。ただ、家では一切音楽を聞かなかつた。書斎にはレコードプレーヤもなかつた。










 
■三島由紀夫の流儀 





  ▼ 見合ひ結婚のすすめ


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 私は本當のところ、戀愛結婚も見合ひ結婚も、本質的には大してちがひのないのが現代だと思つてゐる。・・・日本獨得の見合ひ結婚の利点は、なまじつかな戀愛結婚より、選擇の範囲がかへつてひろいといふことである。だれかの口ききで、いろんな職業、いろんな地域の相手とも、見合ひにまで進むことができる。

  ( 「見合ひ結婚のすすめ」  昭和三十八年  )

   * * * * * * * * 




 三島由紀夫が見合ひ結婚したのは昭和三十三年のこと。相手は日本画家杉山寧の長女瑤子であつた。見合ひの翌月には川端康成の媒酌で式を挙げた。獨身を謳歌してゐるかに見えた文壇の寵児が突如、見合ひで結婚したことは世間を驚かせた。

見合ひ結婚の利点はどのやうなところにあるか?

 見合ひ結婚は日本の特産物のやうに言はれてゐるが、外国の上流社交界でも、名家の令嬢は、少女時代に社交界にお披露目をし、つり合つた縁の若い男女ばかりの生簀に放たれる。その中を泳がせておけば、どんな相手と戀愛しようと、上流社交界のリストにのつてゐる相手ばかりで、いはば複数のお見合ひをするのも同様である。

 「戀愛といつても、大都會でこそ、偶然の出會ひによる珍妙な一組も成立するが、その大都會でも、多くの戀愛は、職場などの小さな地域社會から生まれる。浮氣のチャンスはころがつてゐても、戀愛のチャンスはどこにでもころがつてゐるわけではない。みんな要するに、何かの形の生簀の中を泳いでゐて、同じ生簀の魚と戀してゐるにすぎないのである。」

 北海道の果ての娘と九州の果ての青年が偶然に出會ふ確率は少ないが、見合ひなら、さういふ結びつきも十分にありうる。アメリカのオールドミスが日本の見合ひ結婚の話をうらやましがるのももつともである。

 「結婚生活を何年かやれば、だれにもわかることだが、夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、結婚生活のかなり大事な要素である。性格の相違などといふ文句は、實は、それまでのの夫婦各自の生活史のちがひにすぎぬことが多い。」








■三島由紀夫の流儀 





  ▼ 古典現代語譯絶対反対



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 私は近ごろはやりの古典の現代語譯全集に絶対反対で、推薦文をたのまれても、これには絶対に書かない。・・・日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ讀めないでどうするのだ。

 ( 「古典現代語譯絶対反対」 昭和三十五年 )



   * * * * * * * * 

 讀賣新聞に短期連載してゐたコラムに書いた文章。

 「古典現代語譯絶対反対」といつても、「事は相対的問題」で、「源氏」や「かげろふ」のやうなむづかしいものなら格別、と断りつつ、秋成やカブキ臺本や詩歌まで現代語譯しようといふ風潮を、「これではテレビで怠け癖のついた日本人をますます怠け者にするだけ」と痛烈に批判してゐる。

 「秋成の雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも讀めるはずだし、カブキ臺本にいたつては、問題にもならぬ。」

 それを一流の先生方が身すぎ世すぎのために美しからぬ現代語譯に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。

 西鶴やカブキ臺本が當時の俗語流行語を駆使してゐるからといつて、それを「イカス」とか「最高ね」とかの流行語に移すとしたら、どうなるか?

 この「正しい」現代語譯は須臾の命しか持たないであらう。

 「現代語譯などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びてしまふ古典なら、さつさと滅びてしまふがいい。」









■三島由紀夫の流儀 




  ▼ 鶴田浩二の顔と東大教授たちの顔


   * * * * * * * * 

 考へれば考へるほど殺人にしか到達しない思考が、人間の顔をもつとも美しく知的にするといふことは、おどろくべきことである。

 ( 『「總長賭博」と「飛車角と吉良常」のなかの鶴田浩二』 昭和四十四年 )

   * * * * * * * * 



 鶴田浩二が主演したヤクザ映画「總長賭博」(内田吐夢監督)と「飛車角と吉良常」(山田耕作監督)を見ての感想。

 三島由紀夫は、場末の映画館にまで足を運ぶほどヤクザ映画のファンだつた。晩年、ことに熱心に見たのが鶴田浩二の映画で、このエッセーは鶴田浩二へのオマージュである。

 「總長賭博」は何の誇張もなしに「名画」だといふ。

 「何と一人一人の人物が、その破倫、その反抗でさへも、一定の忠実な型を守り、一つの限定された社会の様式的完成に奉仕してゐることだらう。」

 若い頃の鶴田には何ら魅力を感じなかつたが、ここ数年の彼は、「万艱こもごも」といふ表情を完璧に見せることのできる役者になつた。
 
 「吉良常の死の病床に侍る彼、最愛の子分松田をゆるしあるひは殺すときの彼、さういふときの彼には、不決断の英雄性とでもいふべきものが迸り、男の我慢の美しさがひらめくのだ。」

 彼が演ずるのは「困惑の男性美」であり、その困惑においてだけ、彼は「男」になるのだ。

 鶴田の演技には、「愚かさ」といふものの、「何たる知的な、何たる説得的な、何たるシャープな表現」が見られることか。

 このころ、東大の安田城攻防戦が繰り広げられてゐた。安田城攻防戦を見守つてゐる教授連の顔に感じる何ともいへない「愚かさ」はどうだらう。

 「それは到底知的選良の顔といへる代物ではなかつた。」

 人間はいくら知識を積んでも、いくら頭がよくても、これほど「愚かさ」を顔に露呈してしまふ。しかもその「愚かさ」にはみぢんも美がない。

 鶴田の思ひつめた「愚かさ」には、この逆なもの、すなはち、人間の情念の純粋度が、或る澄明な「知的」な思慮深さに結晶する姿がある。

 「考へれば考へるほど殺人にしか到達しない思考が、人間の顔をもつとも美しく知的にするといふことは、おどろくべきことである。
 一方、考へれば考へるほど「人間性と生命の尊厳」にしか到達しない思考が、人間の顔をもつとも醜く愚かにするといふことは、さらにおどろくべきことである。」











■三島由紀夫の流儀 






  ▼ 私の讀書術

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 本とはよくしたもので、讀むはうに「讀書術」などといふ下品な、町人風な、思ひあがつた精神があれば、本のはうも固く扉をとざして、奥の殿を拝ませないのが常である。殊に文學作品を讀むには、それなりの一定の時間と、細心の注意と、酔ふべきものには酔ふ覚悟が必要である。

 ( 「私の讀書術」 昭和四十四年 )

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 三島由紀夫は恐るべき讀書家であつた。どんなに忙しい時にも「小難しい本にかじりつく」習慣を保つてゐた。

 芥川賞や谷崎潤一郎賞などの詮衡委員をしてゐて、長編小説を七編も八編も讀まねばならぬことがあつた。「大へんな重量感で、大変な精神的負担である。気持が受身になつたら最後、讀めるものではない。」

 そのやうなときはどのやうに立ち向かふか。

 「心持を水のやうにして、作品の中へ流れ入るやうに心がける。すると大ていな偏見も除かれ、どんなに自分のきらひな作家でも、その作家なりの苦心経営の跡を虚心に味はうことができる。」

 「彼の政治思想は大嫌ひ」と広言してゐた大江健三郎も、その作品は叮嚀に讀み、大江の『万延元年のフットボール』を谷崎潤一郎賞に推した際には、「見事な文体」と賛辞を呈した。

 作品を虚心に味はうためにはどうしても時間がかかる。時間をかけたくなければ「偏見の色メガネ」をかけて讀めばよい。

「これが速讀法としてはもつとも有効確実なものであらう。」








■三島由紀夫の流儀 





  ▼ 美食しかできないといふ人は退廢した人間である




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 ・・・私は別に美食家ではない。おいしいものは好きだけれど、場合によつてはまづいものも好きである。美食しかできないといふ人は、たとへばローマの「トラマルキオーの饗宴」の主人公のやうに、退廢した人間である。

  (「美食について」 昭和四十四年 )

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 この文章に見える「トラマルキオーの饗宴」とは皇帝ネロの時代、ペトロニウスの小説『サテュリコン』が描いた、成金富豪トラマルキオーが催した饗宴のことである。あらゆる珍味が奇趣を凝らして供され、宴は果てしなく続き、人々は何度も入浴し、吐いては喰ひ吐いては喰ひした酒池肉林の饗宴であつた。(三島は喰ひすぎた時には吐ひてしまふといふ習慣だけはこの小説から学んだ。)

 三島由紀夫は喰ひしん紡を自認してゐたが、男は何でも喰へるやうでなければならないといふ哲学を持つてゐた。

 富士の自衛隊に体験入隊してゐた時、東京にトンボ帰りして、客人と「マキシム」で食事をした。

 自衛隊の食事は一日三食二百六十円、マキシムは一食一万円。

「ではマキシムが百倍だけおいしかつたといへば、そんなことはない。自衛隊では自衛隊の食事が相応におしいく、マキシムではマキシムの料理が相応におしいかつただけのことである。その場その場でどちらもおいしいと思ふのは私の胃が健康だからであり、そしてそれだけのことである。」

 銀座にあつた老舗フランス料理店「マキシム・ド・パリ」は三島が愛好した店だつたが、平成二十七年に閉店した。







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tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト・評論家。皇室問題やフェミニズム問題に取り組む。三島由紀夫研究家。國語問題研究家。


フェミニズム論の著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

皇室関連の著作としては『天皇を喰ひ物にした侍従長』『天皇と宮内庁の「背信」』など。

執筆には正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を使用、当ブログも正仮名遣ひを用ゐる。

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