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■三島由紀夫の流儀 




  ▼豆撒き―亡祖母からの奇妙な伝承



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 ・・・家へかへつて、吉例の豆撒き。昔から、家では私が歳男をつとめ、各室、厨、厠まで、念入りに「鬼は外」「福は内」とやつて歩き、そのあとで、家族全員犬猫にいたるまで、おのおの年齢に一を足した数の豆をひろひ集め、それをめいめいの封筒に小銭と共に封じ込んで、全身を撫でまはし、さて取りまとめて、最寄の四つ角に捨てに行き、振り向かずに家へかへつてくれば、私の任務が終るのである。これは私の亡祖母からの奇妙な伝承だ。

   (  『裸体と衣装』  昭和三十四年  ) 
 
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 豆を玄関に撒いてゐる最中、ある編集者が「鬼ですよ」と顔を出す。豆撒きの間、彼に待つてゐてもらつて、用談にかかつてからも、三島は心中、「頭の病気にかららぬやうに」と念じて頭を豆入り封筒で撫でまはし、「鼻の病気にかからぬやうに」と鼻を撫でまはし、これが全身に及んでつづけられるのを見て、編集者は「呆れ返つたやうな、気の毒なやうな顔をしてゐた」。

 豆撒きのやり方を伝承した亡祖母とは、父方の祖母夏子(戸籍名なつ)のことである。  

 夏子は、幕府最後の若年寄(老中に次ぐ職責)をつとめた永井玄蕃頭尚志の養子永井岩之丞の長女である。夏子の母も水戸徳川家の支藩である宍戸藩藩主松平頼位の娘であつた。

 歳男は、元来は武家で新年の諸儀式一切を行つた役をいひ、節分の豆撒き役をもつとめた。夏子もこの風習の中に育つたものだらう。

 武家名家のプライドが高く、ヒステリー持ちで、『仮面の告白』に「狷介不屈な、或る狂ほしい詩的な魂だつた」と描かれるこの祖母は、一方で、泉鏡花を偏愛し、観劇に孫を連れて行つて歌舞伎を開眼させ、三島の幼少年期の精神形成に巨大な感化を及ぼした人でもあつた。

 この祖母を通じて、三島の幼少年期には家の中に武家の生活が生きてゐた。むかしの殿様まで家に出入りしてゐたのである。

 三島由紀夫に「好色」といふユニークな作品がある。本名の平岡公威といふ作者が、祖母夏子と彼女の伯父の子爵松平頼安について実名で語るといふ作品である。

 夏子の母の兄である松平頼安は、最後の宍戸藩藩主であつた。

 次々と側女を替へ、好色の権化の如き頼安は、「昔にかはらぬ殿様生活を文明開化の中で固執」し、「殿様は御寝(ぎよし)になつた」といふ生活を続けてゐた。

 頼安はしよつちゆう祖母を訪ねてくる。親しげに話してゐたと思つたら、涙ながらに愛する姪に愚痴を訴へた。

 ときには二人の間に諍ひが始まる。祖母の目が怒りに燃える。

 「伯父さま、夏が平岡のことでこんなに苦労してこんなに夜の目も寝ずにあれはかうこれはかうと心づもりをしてゐるのをお茶化しになるのでございますか。夏は何も好きこのんで苦労してゐるのはございませんよ。誰が何も好きこのんで・・・」

 昭和初期の平岡家では、むかしの殿様と武家直系の老女との間に、このやうな会話が繰り広げられてゐたのである。









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■三島由紀夫の流儀 




  ▼結婚についての「あれかこれか」―それならままよ、後悔しなければいいのである


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 キェルケゴールの有名な「あれかこれか」の一節は永いこと私を魅してゐた。
 「結婚しまたへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、やつぱり君は悔いるだらう。」
 ・・・それなら、ままよ、後悔しなければいいのである。

   (  『裸体と衣装』  昭和三十四年  ) 
 
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 昭和三十三年から三十四年にかけて三島由紀夫は「新潮」に「日記」の題名で日録風随想を連載、のちに『裸体と衣装』として刊行された。生活実録のみならず、文学評論、文明批評などが随所に織り込まれてゐる。

 五月九日(昭和三十三年)の日附がある記述。

 「杉山家と結納をとり交はす。」

 ここから、結婚についての長い考察が始まる。

 「『結婚』といふ観念が徐々に私の脳裏に熟して来たのは、一昨年ころからのここと思はれる。それまで私は小説家たることと結婚生活の真向からの矛盾をしか見なかつたが、私も年をとり、矛盾をすこし高所から客観視するやうになつたのである。この世の慣習や道徳に与し、その中に一応生活して、すべての慣習や道徳を疑つてかかる仕事をつづけてゆくのは、ずゐぶん明白な論理的矛盾だが、論理的潔癖といふものをむりに支へるには、しやちよこばつた若さを維持して行かねばならず、却つてこんな努力のはうが仕事を阻害することになりかねない。それに、真に自由になるには、まづ自分を縛つてかからなければならぬといふ人生上の智恵を、私はおそらく人より永い年月をかけて、徐々に学ぶにいたつてゐた。」

 この考察はさらに二ページほど展開され、キェルケゴールの「あれかこれか」のくだりが登場するのである。

 「あれかこれか」を敷衍したキェルケゴールの言葉も引用され、考察はさらに一頁ほど続き、最後にかう締めくくられる。

 「・・・人は本当のところ、自分の行為が、宿命のそそのかしによるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない。結局、海上の上を浮身をするやうな身の処し方が、自分の生に対する最大の敬意のしるしのやうに思はれる。・・・こんなことを考へたのち、私は結婚することに決めたのである。」

 結婚するにあたり、三島由紀夫はこのやうな人生哲学的考察ばかり重ねて決断するに至つたのだらうか。

 集英社の芸能誌編集者で三島を担当してゐた粉川宏が、結婚する前の三島について面白いエピソードを書き残してゐる。(『今だから語る三島由紀夫』)

 粉川は三島より若いが既に結婚してゐた。或る時、三島が不意に生真面目な調子で粉川に質問した。

《「ね、粉川さん、あなた結婚の先輩だからきくんだけけど・・・」
 「センパイだなんてそんな・・・」
 「いや、先輩だよ」
  氏は煙草をひと息吸ってから言った。
 「結婚って・・・あきないかい?」 
 「・・・?」
 「毎日、同じ顔をつきあわしていて、あきないものかね?」 》

 それまでも粉川は三島から質問を受けることがあつた。それは主に芸能界の問題に関することであつた。

 「自分のよく知らないことを質問するときの氏は、まことにまじめで、勉強好きの学生のようなおもむきがあった」と粉川は述懐してゐる。









■三島由紀夫の流儀 




  ▼不味い味噌汁とみじめな日本

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 日本料理をたべさせる店があり、私の泊つたお粗末な宿のやうに、日本料理の献立を看板にしてゐる日本人経営のホテルがある。ここでは日本といふ概念が殊のほかみじめなので、まるでわれわれは祖国の情ない記憶だけを強ひられてゐるやうな気持になる。顔いろのわるい刺身と、がさつな給仕と、一膳飯屋の雰囲気と、粗悪な味噌汁と、日本では下等な宿でしか使はない均一物の食器との食事である。
 身をかがめて不味い味噌汁をすすつてゐると、私は身をかがめて日本のうす汚れた陋習を犬のやうに啜つてゐる自分を感じた。

   (  『アポロの杯』 昭和二十七年 ) 
 
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 三島由紀夫は昭和二十六年十二月から翌年五月まで北米、南米、欧州を周遊した。帰国後、「北米紀行」「南米紀行」などを新聞や雑誌に発表、それらをまとめたものが『アポロの杯』である。

 プレジデント・ウィルソン號で横浜を出港、ホノルルを経て桑港(サンフランシスコ、三島はかう書く)に着き、日本人街で日本食を食したときの記述。

 一民族の風習は、支配者を通じて他国に専制的に君臨する場合もあるし、被支配者と通じて浸潤する場合もある。だが、「桑港の味噌汁は、君臨もせねば、浸潤もしない」。

 「日本のうす汚れた陋習」の象徴のやうな「粗悪な味噌汁」。

 「私はその『陋習』と「いふ存在に復讐され、刑罰を課せられてゐるのである。」

 ささやかに日本人の間だけで売られてゐる味噌汁の醜悪さ。

 「それは善意を欠いた消極的な小さな汚れた嘘のやうなものであると同時に、移住した風土と調和を見出し、あるひはこれに反抗しようにも、その対象を見出すことのできない迷児になつた風習であり、しかも遠い故国の風土自身が精力に乏しいところから、畸型に育つたその遺児なのである。」

 桑港で味噌汁の味に絶望してから数カ月後、憧れの希臘(ギリシャ)の地に立つた三島は、「無上の幸」に酔ひ、至福の日々を送ることになる。










■三島由紀夫の流儀 




  ▼もうかうなつたら、しやにむに長生きをしなければならない


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 私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画をたてるべきときが来た。芥川龍之介より長生きをしたと思へば、いい気持ちだが、もうかうなつたら、しやにむに長生きをしなければならない。・・・人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜悪なだけである。それなら、もう、しやにむに生きるほかはない。
  (  「『純文學とは?』その他」  昭和三十七年 )

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 三十七歳の時に書いたエッセーの一節。

 このエッセーは、純文學とは何かといふ話から始まつて、純文學には何か危険なものがなければならない、危険なものを扱ひながらもそこに幸福感が漂つてゐなければならない、そのやうな条件を具備した最近の文學作品に川端康成の「眠れる美女」がある、と進んだあと、突如自分の話になり、上記のくだりになる。

 そしてそこから、「老いの美学」が展開される。

 老いの美学を発見したのは中世の日本人だけではないか。肉体藝術やスポーツの分野でも、先代坂東三津五郎は老齢にいたるまで見事な舞台姿を見せた。七十歳の剣道八段は現役の実力を持つてゐる。精神の領域でも、日本人ほど「老い」に強い人間はゐない。世阿弥のいふ、最上の境地である「萎れたる風躰(ふうてい)」とは、青春の美の開花の末に生れるものだ。・・・

 このやうに、三島由紀夫には珍しく「老いの美学」の考察に及んだ文章である。老人は真つ逆さまに醜悪に転落する、と云つたのはもつと後のことである。

 三島由紀夫の言葉にはたへず逆説がひそんでゐるので、三十七歳のときの「しやにむに長生きをしなければならない」といふ言葉をそのまま受けとめることはできない。ただ、この頃はまだ、「老いの美学」に思ひをめぐらす「余裕」があつたことだけはたしかである。

 「年をとつたら草深い田舎で子供たちに剣道を教へるのが俺の夢だ」と人に語つたのもこの頃のことだつたらうか。












■三島由紀夫の流儀 




  ▼青春の敵

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 近ごろ、青春におもねる文章の多いこと、おどろくばかりである。父親は息子におもねり、学校の先生は学生におもねる。「青春に非ざれば人にあらず」といふ世の中だから、気の弱い老人は、青春を愛するなどといふ仮面のもとに、青春にビクビクして、遠慮し切つて、ひたすら青春の感情を害さぬやうに気がねしながら日を送つてゐる。

  ( 「青春の敵」   昭和三十五年 )
 
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 六十年安保の年、「婦人公論」に連載してゐた「巻頭言」の一節。

 友人吉田健一は若い人の作品を原則として認めない。若い人の作品をほめそやすことは、若さに対して失礼な仕打であつて、若さの可能性をお節介にも限定してしまふと彼はいふ。今、このやうな態度をとる人は稀である。

 「一方、若い世代は何の抵抗もなくなり、ぶつかつてゆくべき権威も崩れ、何一つ『正当な敵』を見出すことができないので、中ぶらりんの状態で、ヒステリーを起して八つ当たりしてゐる。・・・現代日本でもつとも必要とされてゐるのは、青春そのものよりも、青春の敵なのであつて、これなしにはせつかくの青春も力を失ひ、去勢されてよくほかないのである。」

 「父親の問題」は、この頃から文學作品の上でも、三島由紀夫の重要なテーマになつてゆく。父親といふテーマとは、「男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくもの」を描くことであつた。

 父親をテーマにした三島作品の集大成ともいふべきものが『絹と明察』(昭和三十九年)である。

 近江絹糸の争議に取材したこの小説では、「すべてに家族制度の比喩をあてはめて飽かない」、古くさい、浪花節調の経営者駒澤が、時代に敗れ去り、諦念のうちに死んでゆく姿がシニカルに描かれてゐる。









■三島由紀夫の流儀 




  ▼ゴルフをやらざるの辯


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 ゴルフをやらないから人間ぢやない、といふことはなからう。だから私はゴルフをやらない。それに、いま節を屈してゴルフをはじめたら、大岡昇平氏をはじめ、大姑、小姑、大鬼、小鬼のただ中へ、求めて入つてゆくことになる。これは健康上よくない。健康上よくない運動なら、よしたはうがいい。だから、私はやらない。何事でも熱中すればおもしろくなることはわかつてゐるが、何だつて「ゴルフがおもしろい」といふことを、ああガミガミ吹聴するのか。

 (  「ゴルフをやらざるの辯―私は天下のヘソ曲り」  昭和三十四年  )

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 文壇随一のゴルフ狂として知られた友人の大岡昇平に対する挑戦状の如きエッセー。

 ゴルフが中年すぎのスポーツを思ひ込むのは、ゴルフが金かかるところからきた経済的な錯覚であつて、十代、二十代の青年たちが参入してくれば、今までヤニ下がつてゐた老童ゴルファ―など、ひとたまりもなく駆逐されるにきまつてゐる、と文壇ゴルファ―たちに悪態をついてゐる。

 「ゴルファ―のいやなところは、私のこんな文章を見れば、たちまち不敬罪を犯した犯人のやうに、私を取扱ふにきまつてゐることだ。そして、私をつかまへて、食つてかかるならまだしも、思想善導のために、ますます私にゴルフをやらせやうと、シンネリムッツリ持ちかけてくるにきまつてゐることだ。」

 大岡昇平が三島由紀夫をゴルフの世界に引きずりこまうとして成功しなかつたことは、「三島由紀夫に振られ、福田恆存に振られ」と自分でも書いてゐる。

 大岡昇平のゴルフ狂ぶりは、一時は月の半分以上コースに出て、金がなくなると娘の貯金まで下ろし、ゴルフ専門誌に「アマチュア・ゴルフ講座」といふ連載まで始め、のちにそれを本にしたことからも知られる。

 自分が名指しされた三島のこの文章に対して、大岡昇平はなにも反論しなかつた。しかし、師匠筋にあたる桶谷繁雄(高名な金属学者・評論家)が雑誌に、「ゴルフ族のイヤラシサは、ゴルフを他人に強制するところにある」と、三島と同じ趣旨のことを書いたときには、鬱憤を晴らすべく猛然と反撃に出た。

 「桶谷繁雄先生に訴ふ―ゴルファ―の悲哀」といふエッセーに曰く、
 ゴルフと似たやうなものに凝つてゐる人はたくさんゐる。桶谷先生だつてルノーとスクーターに凝つて、僕にもやれつてすすめたではありませんか。車を持つと行動半径が大きくなるから文士には必要ぢやないかな、と。先生のスクーターによるヨーロッパ縦断記を讀んで、十六になる息子はどうしてもオートバイを買へと言ひ出した。彼がいづれ首の骨を折ることは必至である。大事な一人息子に万一のことがあつたらどうしてくれるんですか。・・・・・

 三島由紀夫も悪い友人を持つたものである。

 大岡昇平は当時、大磯に住んでゐた。

 三島は「僕は大磯に住んでなくてよかつた」と言つた。







 


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  ▼堀江青年は美名で包み美名で忘れてゆくべき存在であつた



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 堀江青年は、美名で包み、美名で忘れてゆくべき存在であつた。われわれの社会で今何らかの英雄を要求してゐるなら、こんないいチャンスはなかつたのに、世間はみすみすそのチャンスをのがし、又してもプロ野球の選手や角力とりのはうへ帰つてゆく。かういふものなら、大衆が金を拂ひ、大衆が頭を下げさせる「英雄」だから、そのはうが扱ひよいのだ。

   ( 「堀江青年について」 昭和三十七年 )
 
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 太平洋横断を果たした堀江青年へのジャーナリズムの態度を批判した文章。

 昭和三十七年、二十三歳の堀江謙一は単独無寄港太平洋横断を試み、五月十二日に小型ヨット「マーメイド号」に乗つて兵庫県西宮を出港、八月十二日にサンフランシスコに入港した。

 この間、海上保安当局は密出国者として捜索、サンフランシスコ到着が伝はると、日本のマスコミは、彼は密出国者として強制送還されるだらうと報じた。

 しかし、サンフランシスコ市長が「コロンブスもパスポートは省略した。われわれは名誉市民として彼を迎へる」とコメントし、米国のマスコミも堀江青年を称賛する記事を掲げるに至るや、日本のマスコミも密出国者扱ひから一転して堀江青年の快挙を称へ始めた。

 帰国した堀江青年は記者会見に臨み、そこでぶつきら棒な態度で応じたことから、マスコミは硬化し、「英雄気取りだ」と悪口に転じる。やがてマスコミには、堀江青年は本当に太平洋を横断したのかと疑問を呈する記事まで出るやうになる。

 「近ごろヨットで太平洋横断をした堀江青年ほど、上げたり下げたりされた人物は珍しからう」と三島は書く。

 「はじめは密出国者扱ひで新聞も小體に扱ひ、アメリカのジャーナリズムで大いに騒がれると、記事はどんどん大きくなり、そのうち素人眼には何のことやらわからぬ太平洋の大波の写真をデカデカと載せ、帰朝の日が近づくにつれて、サンフランシスコを発つたハワイに着いたと写真入りの記事が出、羽田到着のその日こそ山荘殺人事件の大特ダネへ持つて行かれたが、羽田のインタビュー以後、ジャーナリズムの態度は、先見の明ある某誌の会見記事をさきがけとして、一せいに攻勢に転じ、好意的な記事は目立つて少なくなり、記者たちの感情的な批判がすべてを覆つてしまつたばかりか、航海日誌の有無から、航海そのものへの疑惑を暗示した文章まで載るやうになつた。」

 航海日誌の有無は航海の有無とは何の関係もない。妙な疑惑だけで彼を包むのは不徳義である。

 「新聞記者の心證をよくするといふことが、太平洋横断といふ達成された事実と何の関係があるのか。太平洋横断をした青年が何で英雄気取りになつてはいけないのか・・・大体、青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。・・・今度のジャーナリズムの態度は、大衆社会化の一等わるい例を、又われわれに示した。それは社会的イメージの強制であり、そのイメージは凡庸な平均的情操から生れ、無害有益なものとして、大衆社会からすでに承認されたものである。これは一堀江青年のみならず、藝術に対する大衆社会化反応の進みゆくおぞましい時代をも暗示する。」

 堀江謙一はその後、小型ヨットによる単独無寄港世界一周航など数々の冒険に挑戦、なかには失敗に終はつて「無謀な計画」とマスコミに叩かれたこともある。すべては三島没後のことである。












■三島由紀夫の流儀 




  ▼小説の方法―不断のメチエの鍛錬がすべて



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 小説を藝術として成立せしめるのは、一にかかつて、この言葉、すなはち文體であるといつていい。
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 小説の文體は理論的に作り出されるものではない。言葉の使用法に関する技倆(メチエ)は、普段の訓練からしか生まれないのである。

  ( 「私の小説の方法」  昭和二十九年 )

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 河出書房が企画した『文章講座』に寄稿した小説の方法論。
 
 小説は誰にでも書け、どのやうにでも書ける。小説には古典的方法といふものがないから、『ドン・キホーテ』がそれ以前の騎士道小説に対する批評から生れたやうに、小説を書く上での最大の要請は、「既成の小説に対する批評を方法論の根本におくこと」でなければならない。

 この方法論的構造をいかにして超克するかは、言葉の問題にかかはつてくる。

 言葉とは文體である。文章と文體といふもおのを分けて考へなければならない。

 「文體は普遍的であり、文章は個性的である。文體は理念的であり、文章は体質的である。」
 
 「小説の文體は理論的に作り出されるものではない。言葉の使用法に関する技倆(メチエ)は、普段の訓練からしか生まれないのである。」

 それなのに、インスピレーションや人生経験からいきなり小説を書かうとする人が跡を絶たない。

 「・・・世の中には音痴といふものがあるやうに、言葉の感覚が生れつき鈍感な人もある。さういふ人は小説を書かなければよいやうなものだが、言葉は日常使つてゐるものであるから、誰でも自由に使ひこなせるといふ迷信があつて、文章もなければ文體もない堂々五百枚の自称傑作などが生れて、原稿用紙をいたづらに費消させることになる。」

 「言葉のそれぞれの比重、音のひびき、象形文字の視覚的効果、スピードの緩急、かういふ感覚を生れつき持つた人が、訓練に訓練を重ねて、やうやく自分の文體を持ち、はじめて小説を書くべきなのである。」







 

■フェミニズムの潮流




  ▼「夫婦別姓」といふ地雷




 

 自民党は15日開催した党会合で、第五次男女共同参画基本計画案を了承した。

 夫婦別姓問題では、当初案にあつた別姓推進の記述は大幅に削除され、一応、別姓反対派が盛り返した形となつた。

 そもそも夫婦別姓問題に関する内閣府原案の記述は、夫婦同氏制が「結婚に踏み切れず少子化の一因になっている」などと「弊害」を羅列し、最高裁判決の別姓賛成派の少数意見を引用するだのして、二ページに及ぶ異常な代物だつた。

 自民党が了承した計画案では、これらの記述の大半が削除され、「選択的夫婦別子制度」といふ文言も消え、かはりに次のやうな記述が盛り込まれた。

 「戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度の歴史を踏まえ、家族の一体感、子供への影響なども十分に考慮し、国民各層の意見や国会における議論の動向を注視しながら、司法の判断も踏まえ、さらなる検討を進める」

 もつともこれを、別姓反対派の一方的勝利とみるのは早計である。別姓推進派の抵抗で、「司法の判断も踏まえ」などといふ文言は残されたからである。

 内閣府・男女共同参画局のホームぺージをご覧いただければわかるが、https://www.gender.go.jp/
内閣府では男女共同参画基本計画策定のたびに、専門委員会を設置し、フェミニズム学者らを集結して、フェミニズム政策の策謀をめぐらせてきたのである。

 今回の第五次男女共同参画基本計画策定では、丁度内閣の交代時期に重なつた上、新内閣が新型コロナウィルス問題に忙殺されてゐるスキをついて、夫婦別姓推進派による強行突破が図られたものの如くである。

 夫婦別姓を企む勢力の拠点は、内閣府・男女共同参画局と法務省である。

 かれらの今回の策動は失敗に終はつたが、夫婦別姓制度の導入がかれらの最大の目標であることにかはりはない。

 かつて、民主党政権時代に、福島瑞穂が男女共同参画担当大臣に就任して、夫婦別姓法制化を目論んだ。夫婦別姓をめぐる今回の自民党内の紛糾は、自民党の中にも福島瑞穂がウジャウジャゐることを露呈した。

 夫婦別姓といふ地雷はたへず爆発の危険性を秘めてゐることを忘れてはならない。












■『夫婦別姓大論破!』




  ▼「夫婦別姓」問題の基本構造





 『夫婦別姓大論破!』といふ本を共著で出したのは二十年以上も前のことだ。

 平成八年に法務省の法制審議会が「選択的」夫婦別姓制度を盛り込んだ答申を出したことから、夫婦別姓推進勢力の実態と別姓制度の危険性を世に訴へるべく緊急出版された本である。(残念ながら『夫婦別姓大論破!』は現在絶版になつてをり、ネット書店では中古本にバカ高い値がついてゐる。)

 平成八年の法制審議会の答申は、国民世論の反対が圧倒し、この時は民法改悪の動きを阻止することができた。

 しかし、夫婦別姓推進勢力はその後も、法廷闘争、自民党への働きかけなど執拗に運動を継続し、今に至つてゐる。

 夫婦別姓問題をめぐる情勢で、平成八年当時と現在とではひとつ変はつたことがある。

 それは、「男女共同参画社会基本法」といふ法律が平成十一年に公布されたことである。

 「男女共同参画社会基本法」は、ジェンダーフリーといふスローガンがまかり通つてゐた頃、フェミニズム勢力が画策して制定した法律である。

 「男女共同参画」イコール「フェミニズム」なのに、自民党議員もその意味もわからずに賛成して、「男女共同参画社会基本法」は全会一致で国会を通過したのである。

 この「男女共同参画社会基本法」の中に、政府は男女共同参画基本計画を五年ごとに策定しなけばならないといふ一項が入つてゐた。

 要するに、政府は、フェミニズム政策について、五年ごとに進捗状況を検証し、次の新たなフェミニズム政策の策定が義務づけられたのである。

 夫婦別姓推進勢力は五年ごとに、この基本計画の中に夫婦別姓の法改正をもぐりこませるべく、血道をあげてきたことはいふまでもない。 夫婦別姓問題が五年ごとに浮上するサイクルが出来上がつたのである。

 平成二十七年十二月二十五日に閣議決定された第四次男女共同参画基本計画では、夫婦別姓問題は次のやうに書かれてゐた。

《 家族に関する法制について、家族形態の変化、ライフスタイルの多様化、国民意識の動向、女子差別撤廃委員会の最終見解も考慮し、婚姻適齢の男女統一、選択的夫婦別氏制度の導入、女性の再婚禁止期間の見直し等の民法改正等に関し、司法の判断も踏まえ、検討を進める。》

 最高裁は、夫婦別姓訴訟三件を小法廷から大法廷に回すことを決めた。またまた憲法判断が下されるわけである。原告たちは、男女共同参画基本計画の策定時期に最高裁判決が出るやう計算して訴訟を提起してゐるのだ。

 知らぬは国民ばかりなり。

 マスコミに、夫婦別姓賛成〇〇パーセント、反対〇〇パーセントといふ世論調査の数字が躍るのもこの時期である。

 別姓訴訟を起こしてゐる連中は、自分たちが別姓を実践したいから提訴してゐるのではない。夫婦別姓運動の一環としてやつてゐるのだ。夫婦別姓運動家たちは「夫婦別姓はやりたい人だけがやればいい」といふデマゴギーを三十年前から振りまいてきたのである。

 政府は今、第五次男女共同参画基本計画を策定しつつある。自民党内の議論が報道されてゐるが、自民党の中には稲田朋美の如き変説漢もありし故、どう転ぶかわかつたものではない。危ふいかな。

 私はかつて『男と女の戦争』といふ本を書いたことがあるが、確実に言へることは、夫婦別姓が制度化されたなら、男と女の間に戦争を引き起こすといふことである。



















■三島由紀夫雜記  




  ▼左傾化した文學座への三行半―《『文學座の諸君への「公開状》 (續)

  「反共的なセリフは僕にはしやべれません」








 三島由紀夫の文學座のと関はりは古く、昭和二十五年に『近代能楽集』第一作の「邯鄲」が文學座で上演された時にさかのぼる。昭和三十一年には文學座に入座し、この年、「鹿鳴館」が創立二十周年記念公演して上演された。

 文學座に君臨してゐたのが杉村春子である。杉村は60年安保のデモにも参加し、団員たちにも左翼思想に染まるものが多くなる。

 これに反旗を翻した芥川比呂志、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、加藤治子、小池朝雄ら中堅若手二十九名が文學座を脱退し、福田恆存を中心として現代演劇協会・劇団雲を結成する。

 この文學座の分裂事件の直後に起きたのが、「喜びの琴」上演拒否事件だつた。

 「喜びの琴」の上演可否を決定する臨時総会を文學座が開催したのが昭和三十八年十一月である。

 総会をリードしたのは劇団の総務部のメンバーであつた。

 かれは口々に発言した。

 「この戯曲は松川事件を連想させる。列車爆破が小道具のひとつにすぎないといつても、観客はさうはうけとめないだらう」

 「労演も買はず、NHKも中継を断はるやうな芝居は、興行的にも不安だ」

 「正月早々、こんな気持ちの悪い芝居の切符は売りたくない」

 主役の公安係巡査部長役に決まつてゐた男優(北村和夫)は、涙ながらに語つた。

 「僕の役の反共的なセリフは、僕にはしやべれません。役者としてこの役は、どうしてもやれません!」

 当時は共産党など左派勢力が劇団にシンパをもぐり込ませてゐた。文學座でも、左翼シンパが総務部などスタッフ部門に巣食ひ、役者バカたちを躍らせる構図が出来上がつてゐた。

 三島は公開状を発表すると同時に文學座を脱退し、松浦竹夫、矢代静一、中村伸郎、村松英子、夏原夏子、丹阿弥谷津子ら十七名も脱退した。これ以降、三島は文學座に自作の戯曲の上演を固く禁じた。

 騒動の末、「喜びの琴」は昭和三十九年五月に、浅利慶太が主宰する劇団四季により日生劇場で上演される運びとなる。

 日生劇場での上演が決まり、三島は「プラカードを首からかけて銀座を練り歩いてもよい」といふほどの熱の入れやうだつた。

 日生劇場プログラムに三島はかう書いた。

《 いろんな事情で、この芝居ぐらゐ作者の私を苦しめた作品はめづらしい。上演の日から、私はこの作品が作者を喜ばせ、人々を喜ばせるものになることをのぞんでゐる。「喜びの琴」よ。もうそろそろ改心して、お前の本當の音色をひびかせてほしいものだ。》

 











 
■三島由紀夫雜記  




  ▼左傾化した文學座への三行半―《『文學座の諸君への「公開状》





 
 三島由紀夫は、《『文學座の諸君への「公開状》を昭和三十八年十一月二十七日附の朝日新聞に発表した。《「喜びの琴」の上演拒否について》といふサブタイトルが附いてゐる。

 三島由紀夫の戯曲「喜びの琴」は文學座の正月公演のために書かれ、既に稽古にまで入ってゐた。ところが文學座は、外遊中だつた杉村春子の帰国を待って臨時総会を開き、「喜びの琴」の上演中止を突如決議したのだつた。

 文學座の五人の企画委員が三島宅を訪れ、上演中止を申し入れた。三島はこれを応諾し、双方の間に覚書が交わされた。

《 三島由紀夫作「喜びの琴」を文学座は思想上の理由により上演中止を申し入れ、作者はこれを応諾した。》


 《『文學座の諸君への「公開状》に三島は云ふ。

《 事件といふのはこれだけのことである。世にもつまらない小事件である。
 しかし文學座諸君にとつては、決して小事件であつたとは思はない。諸君の代表がこの覚書に署名捺印したとき、正にそのときに、文學座創立以来の藝術理念は完全に崩壊したのである。藝術至上主義の劇團が、思想的理由により台本を拒否するといふのは、喜劇以外の何ものでもない。》

《 諸君は、戯曲の主題などには目もくれず、ただ劇的手段としての反共的セリフや、左翼が列車を転覆させたといふ設定ののために、「この役はどうしてもできない」とこぼしたり、悩みに悩んで泣いたり、何ものに気兼ねしてかヒステリックな上演拒否の申入れをしたりして、あらはさないでもよい馬脚をあらはす始末になつたのである。》

《 諸君が藝術および藝術家に対して抱いてゐる甘い小ずるい観念が今やはつきりした。なるほど「喜びの琴」は今までの私の作風と全くちがつた作品で、危険を内包した戯曲であらう。しかしこの程度の作品におどろくくらゐなら、諸君は今まで私を何と思つてゐたのか。思想的に無害な、客の入りのいい芝居だけを書く座付作者だとナメてゐたのか。さういふ無害なものだけを藝術として祭り上げ、腹の底には生煮えの政治的変更を隠し、以て藝術至上主義だの現代劇の樹立だのを謳つてゐたのなら、それは偽善的な商業主義以外の何ものでもない。》
 
 「座付作者だとナメてゐたのか」といふ言葉に三島の怒りの感情が籠つてゐる。

 「喜びの琴」は、都内の警察署の公安係室が舞台である。若い公安係巡査片桐は反共の信念を抱く上司の巡査部長松村を深く敬愛してゐる。公安係室に右翼団体による列車爆破計画の情報がもたらされる。松村の命で片桐は現場に赴き、右翼団体員を捕へる「手柄」をたてた。しかしまもなく真犯人が逮捕され、片桐の前に姿をあらはす。それは上司の松村であつた。警察にもぐり込んでゐた極左集団のスパイ、それが松村の正体だつた。松村は「俺を信じたのがお前の罪だ」と片桐にいふ。裏切られた片桐はどこからか聞こえてくる琴の音にすがる。・・・

 「主題は一目瞭然であり、政治思想はここでは物として扱はれ、物として分析されてゐる。」

 しかし外見は風俗劇として展開されるから、反共的言辞がふんだんに出てくる。

 例へば片桐の次のやうなセリフ。

「 ・・・国際共産主義の陰謀ですよ。あいつらは地下にもぐつて、世界のいたるところに噴火口を見つけようとう窺つてゐるんです。・・・いつか日本にも中共と同じ血の粛清が吹きまくるんです。地主の両足を二頭の牛に引張らせて股裂きにする。妊娠は八カ月の女地主の腹を亭主に踏ませて踏ませて殺す。・・・いいかげんの人民裁判の結果、いいですか、中共では十カ月で一千万以上の人が虐殺された。・・・それが共産革命といふものの実態です。・・・」

 「喜びの琴」の執筆当時は、中共の文化大革命の最盛期であつた。片桐は毛沢東政府の蛮行を並べたてて共産革命の恐ろしさを語る。

 この頃の文學座は左傾化してゐた。訪中公演では、中共政府に阿諛迎合してセリフを改竄し、革命歌まで加へた。団員の多くは毛沢東を崇拝してゐた。

 こんな芝居は堪へ難いと、団員の中の極左グループが「喜びの琴」の上演拒否に向けて動いたのである。

                       (續く)













■三島由紀夫の流儀  




  ▼ 日本語を失つたら日本人は魂を失ふことになる



  * * * * * * * * 

 今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、われわれは日本につかまれてゐる。だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。
  (「日本への信條」 昭和四十二年 )

   * * * * * * * *



 生活において西洋かぶれの典型と目される私が、日本や日本人を真顔で論じると、時世に追随した日和見主義者と見做されかねないが、西洋的生活は見かけだけであつて、私の本質的な生活は書斎で毎夜扱つてゐる日本語といふ「生粋の日本」にあり、これに比べたら、「あとはみんな屁のやうなものである」といふ趣旨の文章。

 文中、「戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者」と三島が言つてゐるのは、志賀直哉のことである。

 志賀直哉は昭和二十一年、「改造」に「国語問題」といふ文章を発表した。

「日本は思ひ切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。」

「(フランスは)文化の進んだ国であり、小説を読んでみても何か日本と通ずるものがあると思はれる。」

 東京帝大の英文科に入学し、のちに国文科に転科した志賀直哉は、フランス語を勉強したこともなく、フランスの小説を原文で読めもしなかつた。その人が、フランス語を国語として採用したらよからうと言ひ出したのである。

 志賀直哉は高名な作家であつたから、彼のフランス語採用論は少しく世間の注目を惹いた。しかしこの発言を真正面から批判するものはゐなかつた。弟子筋にあたる文学者たちも沈黙した。

 志賀直哉の文名から批判が憚られたといふより、その発言があまりに荒唐無稽なので、まともに取り上げるに値しないと考へられたのである。

 それでは志賀直哉は日本語といふものに鈍感だつたかといふと、さうとも言ひ切れない。

 その後、「当用漢字」や「現代仮名遣い」が施行され、自分の原稿が、出版社の手によつて「当用漢字」や「現代仮名遣い」に直されると、これに激しく抵抗してゐるのである。

 要するに、天下国家の問題や社会情勢に全く疎いこの文人は、日本語が改変されるといふことがどういふ事態を招来するか、想像力が及ばなかつただけの話なのだ。















■三島由紀夫雑記 





 
 ▼ NHKスペシャル「三島由紀夫 50年目の“青年論”」の奇怪な表記(續)





 NHKスペシャル「三島由紀夫 50年目の“青年論”」で朗読・テロップ付きで紹介された三島由紀夫の著作は次の五点であつた。

 「実感的スポーツ論」
 「仮面の告白」
 「陶酔について」
 「金閣寺」
 「青年論」

 ところが、テロップの表記はといふと、「実感的スポーツ論」「陶酔について」「青年論」が正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)で、「仮面の告白」と「金閣寺」の小説二編が現代仮名遣いになつてゐる。

 これは実に奇怪なことといはなければならない。

 前回述べたやうに、三島由紀夫の著作その他はすべて『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)に収録されてゐるが、小説、戯曲、評論はもとより、口述筆記、対談、講演にいたるまですべて正仮名遣ひである。すなはち、三島の著作はすべて正仮名遣ひが正統表記といふことになる。

 文庫本ではよく、歴史的仮名遣ひは新仮名遣い(現代仮名遣い)に改めましたといふ断り書きが見られるが、テレビ局なども、文學作品などを引用するときは現代仮名遣いに統一するといふ方針をとてゐることもありうる。

 しかし、NHKのこの番組の場合はさうではない。小説以外の三篇については正仮名遣ひを採用してゐるのだから。

 しかしそれならなぜ「仮面の告白」と「金閣寺」も正仮名遣ひにしなかつたのであらう?

 思ふに、これはそんなに難しく考へることはないのかもしれない。つまり、NHKの資料室にあつた三島関連の文献のうち、たまたま「仮面の告白」と「金閣寺」は文庫本があつたのでそれを使つた(「仮面の告白」と「金閣寺」の文庫版は昭和三十年代に改版され、その際に正仮名遣ひから現代仮名遣いに改められた)。他方、他の三篇は『決定版 三島由紀夫全集』に収録されてゐるものを使つた、といふ推測である。

 特に、「青年論 ─キミ自身の生きかたを考へるために」(インタビュー)は「平凡パンチ」に掲載されて以降、どの単行本にも収録されたてゐない。これを使はうとすれば、『決定版全集』に依拠するよりほかになかつたであらう。

 『決定版 全集』を参照した三篇をNHKが現代正仮名遣いに直さなかつたのは、原文を尊重した、正仮名遣いに直すのが面倒くさかつた、現代仮名遣いに直せる人間がゐなかつた、など様々なことが考へられる。

 原因はどのやうなことであれ、三島の著作を複数掲げながら、正仮名遣ひと現代仮名遣いが混在するといふ、制作者の日本語能力を疑はせる番組が生れてしまつたのである。

 「三島由紀夫 50年目の“青年論”」の制作担当者たちは、おそらく三島没後に生まれた人たちと思はれる。三島作品を文庫本でしか讀んだことがなければ、「仮面の告白」も「金閣寺」も現代仮名遣いで書かれてゐると勘違ひしてしまふのも無理はない。

 この際、NHKの文化番組担当者諸氏にはお願ひしておきたい、今後、三島由紀夫の特番を制作することがあれば、引用文はすべからく『決定版 三島由紀夫全集』に拠られたし、と。









■三島由紀夫雑記 





 
 ▼ NHKスペシャル「三島由紀夫 50年目の“青年論”」の奇怪な表記



 NHKは十一月二十一日に「NHKスペシャル」として、「三島由紀夫 50年目の“青年論”」を放送した。

 NHKがホームページに掲載した番組紹介にはかうある。

《 没後50年となる作家・三島由紀夫。『命売ります』のヒットなど、今も世代を超えて注目を集めている。その生きざまからは、「天才作家」という一面に加え、劣等感や嫉妬など「弱い人間」としての一面も。同級生が語る幼い頃の姿、美輪明宏さんが語る素顔、ノーベル賞をめぐる知られざる確執、そして、晩年の東大全共闘との対話で語った一言など…三島を身近に見てきた人たちの証言から知られざる素顔に迫る。》

 「三島由紀夫 50年目の“青年論”」は、実に奇怪な番組であつた。何が奇怪だつたか。その話をしようと思ふ。

 この番組は、ダンサーの菅原小春といふ女性が狂言回しみたいになつて進行し、美輪明宏だとか編集者だとか三島ゆかりの人物が登場し、ところどころに三島作品の朗読付きのテロップが流される。
 
 三島が自己の劣弱な肉体にコンプレックスを抱いてゐたといふ話の中で、まづ最初の三島作品のテロップ(縦書き表示)が流れた。

 「私が人に比べて特徴的であつたと思ふのは、少年時代からの強烈な肉体的劣等感であつて、私は一度も自分の肉体の繊弱を、好ましく思つたこともなければ、誇らしく思つたこともなかつた。」(「実感的スポーツ論」讀賣新聞)

 「おお」と私は思はず叫んだ。正仮名遣ひで表記されてゐるではないか! 正仮名遣ひとはいはゆる歴史的仮名遣ひである。私を驚かせたのは、この文章は文學作品でなく、タイトル通り自分のスポーツ体験を綴つたエッセーだつたからである。

 三島由紀夫は原稿はすべて正仮名遣ひで書いた。新聞や週刊誌に発表した文章が現代仮名遣いになつてゐるのは、各メディアが現代仮名遣いに直してゐるからである。初出の際に現代仮名遣いに直された文章も、全集ではすべて正仮名遣ひになつてゐる。

 私はNHKに敬意を表して番組を見続けた。

 ほどなく、次の三島作品のテロップが朗読とともに流れた。

 「私は彼女の唇を唇で覆った。一秒経った。何の快感もない。二秒経った。同じである。三秒経った。――私には凡てがわかった。」 (「仮面の告白」)

 「 ・・・・逃げなければならぬ。一刻も早く逃げなければならぬ。」

 なんだなんだこの表記は! 現代仮名遣ひではないか! 「仮面の告白」といへば三島由紀夫の代表作である。それが哀れにも現代仮名遣ひとは。NHKに敬意を表したのは間違ひだつた。

 しばらくすると別のテロップが流れた。

 「祭の神輿は、夏ごとに生家の門前を通つたが、その熱狂と陶酔を内側から生きることは、自分には終生不可能なやうな気がしてゐた。
  ( 「陶酔について」1956年「新潮」)

 「今では私は他人の陶酔を黙つて見てゐることはできない。自分がそこから隔てられてゐるといふ悲劇的な諦念に満足するすることはできない。」

「・・・ここま書いて私は失笑せざるを得ない。こんなことを考へて神輿を担ぐ大袈裟な男は、一体どんな面(つら)をしてゐるのであらう。」

 「幼児から私には解けぬ謎があつた。あの狂奔する神輿の担ぎ手たちは何を見てゐるのだらうといふ謎である。」

 「担いだ私はこの謎を容易に解いた。彼らは青空を見てゐるのだつた。」

 神輿をかついだ体験の哲学的考察といふべき「陶酔について」といふ名高い文章である。これは正仮名遣ひで表記されてゐる。

 また、次のテロップが流れた。

 「身を起して、はるか谷間の金閣のほうを眺め下した。異様な音がそこからひびいて来た。爆竹のような音でもある。無数の人間の関節が一せいに鳴るような音でもある。」  (「金閣寺」)

 「私は膝を組んで永いことそれを眺めた。」

 「別のポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルチモンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。」

 「別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。人ト仕事を終えて一服している人がよく思うように、生きようと私は思った。」

 「金閣寺」の一節である。「金閣寺」といへば、「仮面の告白」と並ぶ三島由紀夫の代表作である。ところがこれもまた哀れな現代仮名遣ひで表記されてしまつた。

 エンディングロールのあと、最後のテロップが流れた。

 「 青年といふのはどんな時代だつてバカですよ。これは自分のことを考へて断言できることだが、ぜんぜんバカなものなのだよ。」(「青年論 ─キミ自身の生きかたを考へるために」)

 「ただ、バカではあるけれどもアイマイな状態で考へた思考といふものは、あとになつて必ず役に立つ。」

 「さういふ青年は自分の考へを整理する段階に入れば、だんだんユニークな人間になる。どくはね、青年を信じないといふことは、自分を信じないといふことだと思ふ。」

 「どんな社会でも青年は必ずオトナになるんですからね。」

 驚いた。ここでまた正仮名遣ひが登場したのである。

 「青年論 ─キミ自身の生きかたを考へるために」とは、昭和四十二年に「平凡パンチ」臨時増刊号に掲載されたインタビュー記事である。それがちやんと正仮名遣ひになつてゐる。

 この番組で取り上げた三島の文章は五本。そのうち、「仮面の告白」「金閣寺」の小説二本が現代仮名遣いで、他の三本が正仮名遣ひといふことになる。

 不思議なことがあるものである。

         (続く)










■僞惡醜日本語




 ▼市原豊太の「僞惡醜日本語」論


 

 昭和の時代に市原豊太といふ佛文學者がゐた。一高教授、東大教授などをつとめ、プルーストなどの多くの翻譯があり、随筆家でもあつた。この人に、「僞惡醜日本語」といふ文章がある。昭和四十一年に書かれたものである。のちに文藝春秋社の「人と思想シリーズ」の一冊として市原豊太『内的風景派』が刊行され、「僞惡醜日本語」といふ文章もこの中に収録されてゐる。

 明治の文人三宅雪嶺に「僞惡醜日本人」といふ文章があり、この顰(ひそみ)に倣つて「僞惡醜」といふ言葉を使つた、と「僞惡醜日本語」の冒頭にある。

 市原豊太が「僞惡醜」と表現した日本語とは何か。
 それは、
《昭和二十一年十一月十一月の内閣訓令の「當用漢字」と「現代かなづかい」、更にその後の「漢字の音訓表」と「送りがな」及び「外国語地名人名表記法」などで定められた表記法による日本語》
 にほかならない。

 「僞惡醜日本語」の概要を記せば以下の如くである。

   * * * * *

 漢字制限や「現代かなづかい」は、それ自体が「僞惡醜」であるばかりでなく、それを決めた過程も「僞惡醜」である。

 敗戦の翌年である昭和二十一年の秋は、国民は貧窮と混乱の極にあつて苦しんでゐた。その十一月十六日に、内閣訓令第七號「当用漢字表の実施に関する件」と同第八號「現代かなづかいの実施に関する件」が内閣総理大臣吉田茂の名で発令されたのだ。それには内閣告示として「一八五〇字の当用漢字表」と「現代語音にもとづいた現代かなづい表」が附けられてゐた。これは一般国民にとつては全く寝耳に水の沙汰であつた。

 そもそも国語・国字と変革するといふ事は、一国の文化・教育にとつて、百年千年の将来にかかる最も重大な事件である。その重大な問題が、文部省の国語審議会といふ一委員会の手によつて、提案から決定まで僅か五カ月で片附けられたのである。

 国語審議会を牛耳つてゐたのは、ローマ字論者とカナモジ論者であつた。彼らは前から考へてゐたことを、好機到れりとばかりに、国民が貧苦と苦悩にあへぐ時、どさくさ紛れに、正に火事場泥棒の如く実行したのであつた。

 心ある達識の士がこの後相ついで反対論を発表したにも拘らず、文部省は頬被りを極め込んでゐた。

 フランスは国語を大切にする国で、「アカデミー・フランセーズ」といふ国立の言語研究機関を設け、新語を正統のフランス語として認めることに頗る厳格慎重である。翻つて日本の国語政策を見ると、杜撰で、軽率で、無謀極まりない。

 戦後の「僞惡醜」の決め方をした国語審議会の決定を、御破算にして、白紙に還して、慎重に、百年千年の日本文化のために、悔いを残さぬやうな再審議をするべきである。

   * * * * *
  
 以上は「僞惡醜日本語」の概要にすぎない。本文には、「現代かなづかい」と漢字制限により破壊され、乱りに乱れた日本語の事例がふんだんに挙げられてゐる。
 
 市原豊太は国語審議会の第七期の委員でもあつた。審議会では「大部暴れた」ものの、大勢を動かすには至らなかつた。この一文の副題を、「鱓(ごまめ)の歯軋り」とした所以である。

 市原豊太が、三宅雪嶺の顰に倣つて「僞惡醜日本語」を書いたやうに、小ブログも市原豊太の顰に倣つて「僞惡醜日本語」を綴つてゆくことにしよう。











■三島由紀夫の流儀  




  ▼ われわれはかすり傷も負ひたくないといふ時代に生きてゐる


  * * * * * * * * 

 この間の金嬉老事件で私がもつともびつくりぎやうてんしたのは、金嬉老、及びそのまはりに引き起された世間のパニックではなかつた。それは金嬉老の人質の中の数人の二十代初期の青年たちのことであつた。彼らはまぎれもない日本人であり、二十何歳の血気盛んな年ごろであり、西洋人から見ればまさに〝サムラヒ〟であるべきはずが、つひに四日間にわたつて、金嬉老がふろに入つていても手出し一つできなかつた。
 われわれはかすり傷も負ひたくないといふ時代に生きてゐるので、そのかすり傷も負ひたくないといふ時代と世論を逆用した金嬉老は、実にあつぱれな役者であつた。そしてこちら側にはかすり傷も負ひたくない日本青年が、四人の代表をそこに送り出してゐたのである。

 ( 「若きサムラヒのための精神講話」  昭和四十三年 )

   * * * * * * * *




 「若きサムラヒのための精神講話」は、雑誌「POcketパンチOh!」に昭和四十三年六月から翌年五月まで連載されたエッセイ(口述筆記)で、若い人の耳に入りやすいやうに、砕けた表現で、精神や道徳の問題を語つてゐる。

 金嬉老事件は昭和四十三年年二月に静岡県で起きた。

 在日韓国人二世の金嬉老が、清水市のクラブで暴力団員二人をライフルで射殺して逃走、寸又峡温泉の旅館で宿泊客ら十三人を人質に立て籠もり、四日後に、記者に扮した警察官に逮捕された。

 犯人がマスコミを集めてたびたび記者会見し、それがテレビを通じて全国に流されるといふ日本初の劇場型犯罪で、金嬉老は記者を前に、自分がどれほど朝鮮人として差別されてきたかを語つた。これを真に受けたマスコミは民族差別事件として扱ひはじめ、「あなたの声を真つ向から受けとめたい」と声明まで出す進歩的文化人まであらはれた。

 しかし三島由紀夫がこの事件で注目したのは、そのやうな「世間のパニック」ではなかつた。

 人質籠城といつても、金嬉老は警戒などのために屋外に出てゐることも多かつた。屋内では英雄気取で過ごし、風呂にも入り、人質を厳重監視することもなかつた。人質たちがその気になれば、金嬉老を取り押さへることもできたし、逃走することもできたのである。

 そして三島由紀夫を「びつくりぎやうてん」させたのは、「手出し一つ」しなかつた人質のなかに、血気盛んな二十代の若者が含まれてゐたことであつた。

 「泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに男がどうあるべきかといふことを忘れてしまふ。 金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、日本もいつかあのやうな事件の非常に拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。」




■三島由紀夫の流儀  




  ▼ マッカーサー憲法の醜悪な文章


  * * * * * * * * 
 
 ここで口語文について、われわれの現代の文章にもつとも深い影響を与へてゐる翻訳文のことを述べなければなりません。皆さんは終戦後のマッカーサー憲法の直訳である、あの不思議な英語の直訳の憲法を覚えておいでになると思ひます。それはなるほど日本語の口語文みたいなもので綴られてをりましたが、実に奇怪な、醜悪な文章であり、これが日本の憲法になつたといふところに、占領の悲哀を感じた人は少なくなかつたはずです。

  ( 『文章讀本』  昭和三十四年 )

   * * * * * * * *



 『文章讀本』は「婦人公論」の昭和三十四年一月號の別冊附録につけられ、同年単行本として刊行された。口述筆記に拠る。

 『文章讀本』で、口語文について述べられた一節。ここでは英語の直訳のマッカーサー憲法を日本語の見地から語り、「実に奇怪な、醜悪な文章」と唾棄してゐる。

 戦後の偽善と道徳的頽廃の元凶としてマッカーサー憲法への呪詛を三島が本格的に語り始めるのはもつとあとのことになる。

  醜悪な文章でつづられた憲法をいただく日本は、言葉に対する日本人の安易な態度と照応してゐる。

 「・・・戦災によつて灰燼に帰した東京から、また新しく木造建築がドシドシ建てられるやうに、われわれの言葉に対する考へでも安易な、すぐ立て直せるやうなものがどこかにひそんでゐます。戦後行はれた言語の改革と称するもの、制限漢字や新かな遣ひも、一片の法令で行はれるやうなさういふ改革は、日本人の革新といふことに対する安易さをよくあらはしてゐます。」









■三島由紀夫の流儀 




  ▼ 「純粋」とは「人に金をもらはぬ」といふことに尽きる


  * * * * * * * * 

 小生政治の分野に首をつつこんで、「純粋」とは、「人に金をもらはぬ」といふことに尽きることを知りました。ほかに定義は一切ありません。

   ( 中村光夫宛手紙 昭和四十四年六月十三日附 )

   * * * * * * * *



 中村光夫は元「鉢の木会」の仲間で、胸襟を開いて話せる数少ない友人だつた。

 上掲の前の文面。

 「日本文化会議には絶望してゐます。この間、「市民大学」といふ広告が来、て岡潔提唱で、文化会議の先生方がほとんど名をつらねてゐますが、よく見ると、原理研究会の文化活動で、資金は明らかに右翼系から出てゐるのです。」

 日本文化会議は日本文化の再興を掲げて保守派の知識人たちが発足させた組織。三島も参加したが、会の方向が定まらず、ほどなく愛想を尽かして脱会した。

 この手紙の前年、民間防衛組織構想を抱いてゐた三島は、堤清二の紹介で日経連常務理事の櫻田武と面談した。櫻田は「きみ、私兵をつくつてはいかんよ」と云つて、いくばくかの金を差し出した。三島は金を拒絶して席を立つた。これ以降、財界からの援助には見切りをつけ、自民党首脳からの資金提供の申し出も拒絶した。












 
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Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト・評論家。皇室問題やフェミニズム問題に取り組む。三島由紀夫研究家。國語問題研究家。


フェミニズム論の著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

皇室関連の著作としては『天皇を喰ひ物にした侍従長』『天皇と宮内庁の「背信」』など。

執筆には正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を使用、当ブログも正仮名遣ひを用ゐる。

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