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■森鷗外と三島由紀夫
 ―近代日本語の創始者と完成者と―


  ▼三島由紀夫の鷗外崇拝(第九回)

   『春の雪』に見る「文づかひ」のパロディ




 前回のブログでは、『春の雪』の、松枝侯爵邸の広大な庭園を背景にした場面で作者は、忽然と姿を現した「謎の女」に「水色の着物」を纏はせてゐることを見てきた。

 ここでわれわれは、作者の三島由紀夫が森鷗外論や対談などの中で、「文づかひ」の最後に出て来る、「をりをり人の肩のすきまに見ゆる、けふの晴衣(はれぎ)の水いろのみぞ名残なりける」といふ結句を絶賛してゐたことを思ひ起こす必要がある。

 日本の青年士官に文づかひの役割を託した美しいイイダ姫。再度王宮に上つた士官にイイダ姫は、手紙の秘密を打ち明け、そして去つてゆく。このとき、イイダ姫の着てゐたのが「水いろ」の晴衣なのであつた。

 王宮におけるイイダ姫のドレスの描写。

《 飾といふべきもの一つもあらぬ水色ぎぬの裳裾、》
 
《 姫は水いろぎぬの裳のけだかきおほ襞の、》

《 けふの晴衣の水いろのみぞ名残なりける》

 もう明らかであらう。『春の雪』の作者が、ヒロインである聰子の着物の色を「水色」にしたのは、「文づかひ」のイイダ姫の着物の色を真似たものであることが。

 どうしてそのやうなことが断定できるのかつて?

 鷗外は、イイダ姫の着物の色を「水色」と「水いろ」とに、書き分けてゐる。

 では『春の雪』ではどうなつてゐるか。

 「淡い水色」
 「水いろの着物の女」
 「水色の着物の人」

 『春の雪』の作者も、「水色」と「水いろ」とに書き分けてゐることがわかると思ふ。 
 ヒロインたちの着物の色を真似るのはいいけれど、漢字と仮名の表記まで真似ることはなからうに、と考へる読者がゐるかもしれない。

 さうではない。作者はわざとにそのやうなことをやつてゐるのだ。

 ここを読むやつが読めば、これが「文づかひ」のパクリであることがわかる筈だ、と作者は考へながら書いてゐるのだ。つまり、作者は半分遊んでゐるのである。

 ヒロインたちの着物の色ばかりではない。驚くべきことに、あの松枝侯爵邸の庭園の場面全体が「文づかひ」を下敷きにしてゐることが明らかになつてくる。

 「文づかひ」で、語り手の日本人士官がイイダ姫に初めて会ふのは、演習に行つたある村であつた。そこには近郷の民や貴婦人たちが演習の見学に来てゐた。


 「年若き貴婦人いくたりか乗り」たる馬車が停まる。士官はその中の一人の「白き駒控へたる少女」に目を奪はれる。「殊なるかたに心とめたまふものかな」とある中尉(男爵)に冷やかされる。


 やがて演習が終はり、宿舎であるドイツ人貴族の館に赴くが、士官は「さきに遠く望みし馬上の美人はいかなる人にか。これらの皆解きあへぬ謎なるべし」と物思ひにふける。

 館では、かなたの窓から、若き女性たちの姿が見えた。食堂に招かれたとき、「この家に若き姫達の多きことよ」と尋ねてみると、「もとは六人ありし」が一人嫁いで「残れる五人」とのこと。

 やがて、「おもひおもひの装ひしたる」五人の姫達が、食卓に就く、そのうちの一人が先に士官が目をとめた女性であつた。名前はイイダ姫と知れた。

 「文づかひ」ではこのやうに、演習の地でも、貴族の館でも、主人公の前に、多くの女性たちが立ち現れるのだ。
 
 『春の雪』では、松枝侯爵邸の庭園に女たちの一群が姿を現す。この場面はおそらく、「文づかひ」の演習と貴族の館の場面を合成して発想されたものと思はれる。

 「文づかひ」の日本人士官は云ふ。

《 この家に若き姫達の多きことよ。》
 
 『春の雪』における、本多のセリフ。

《 貴様の家には女が多いなあ。》

 笑つてしまふのは、『春の雪』に、「かうして二人は、若い狙撃兵のやうに窺つてゐた」といふ文言が登場することである。女たちの一群が池のかなたに姿をあらわした時の、清顕と本多の様子の描写である。

 「文づかひ」の演習の場面には、「猟兵の勇ましきを見むとて」とか「猟兵やうやうわが左翼に迫るを見て」とか、「猟兵」といふものが出て来る。「猟兵」とは狙撃兵のことなのだ。
 
 女たちの一群の様子をうかがふ比喩として、「若い狙撃兵のやうに」ではあんまりではないかとも思ふが、ここでも作者は面白がつて、「文づかひ」から拝借に及んだものだらう。

 ここまで来ると、『春の雪』における松枝侯爵邸の庭園の場面は、ほとんど「文づかひ」のパロディに近づいてくるが、しかし、それもすべて作者は計算ずみのことで、はじめに遊びの要素を入れることで、後半の悲劇性が強まると考へたのかもしれない。

    (續く)

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■森鷗外と三島由紀夫
 ―近代日本語の創始者と完成者と―


  ▼三島由紀夫の鷗外崇拝(第八回)

   『春の雪』に描かれた「水色の着物」と謎の女





 
 『作家論』に収録されてゐる「森鷗外」論は、中央公論社「日本の文学」の「森鷗外」(一)の解説として書かれたものである。「森鷗外」(一)が刊行されたのは昭和四十一年一月であるから、この解説が書かれたのは前年の昭和四十年と考へて間違ひあるまい。
 昭和四十年といふ年は、三島由紀夫の生涯を考へる上で重要な意味を持つ年である。『豊穣の海』の第一巻『春の雪』の執筆と雑誌掲載が始まつたのが昭和四十年だからである。『春の雪』は同年六月に起筆され、九月から「新潮」誌上で連載が開始されたのだ。

 森鷗外論の方は、執筆したのは昭和四十年の秋あたりと推定されるが、「日本の文学」「森鷗外」篇の解説を引き受けるにあたつては、収録作品の選定にも深く関はつてゐたと思はれるから、この年の三島はおそらく収録作品をすべて再読したと思はれる。その中には当然、「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」といふドイツ留学三部作も含まれる。


 『春の雪』の執筆を開始した時期は、ちやうど三島が鷗外の作品を改めて読み込んでゐた時期でもあつた。この事実は、『春の雪』といふ作品の成り立ちを考へる上ですこぶる大きな意味を持つ。

 『春の雪』を書き始めた頃の三島由紀夫は鷗外論に取り組んでゐた。この事実を念頭において、『春の雪』を読み直してみると、いろいろなことが見えてくる筈である。

 『春の雪』で、最初の見せ場となる場面は、連載第三回目に出て来る。松枝侯爵邸の広大な庭園で繰り広げられる絵巻物のやうな場面である。

 松枝侯爵邸は十四万坪の地所を持ち、壮麗な洋館があり、紅葉山を背景にした広々とした池がある。明治大帝の御幸を仰いだ時には、庭で天覧角力が催されたといふエピソードが語られる。松枝侯爵邸のモデルは、明治時代、東京一の名庭園といはれた西郷従道邸である。

 主人公の松枝清顕は、遊びに来た親友の本多繁邦を誘つて池でボート遊びをしてゐる。すると、水のかなたに女たちの一団が現はれるのだ。

 この場面はこんな風に描写される。

《 清顕は友の肩をつついてそのはうへ注意を向けた。本多も首をめぐらして、草間から、水のかなたのその一群に目をとめた。かうして二人は、若い狙撃兵のやうに窺つてゐた。
 それは気の向いたときに母がする散歩の一群で、母のほかは側仕への女共だけなのが例なのに、今日はなかに老若二人の客の姿がまじつてゐて、母のすぐうしろを歩いてゐた。 母や老婆や女共の着物は地味だつたが、一人の若い客の着物だけは何か刺繍のある淡い水色で、白砂の上でも、水のほとりでも、絹の光澤が、冷たく、夜明けの空の色のやうに耀(かがよ)うてゐた。》
 
 清顕の母親が女共を引き連れてたまにする散歩の一群。しかし今日は、老若二人の客人の姿が混じつてゐる。母や老婆や女共の着物は地味なのに、一人の若い客の着物だけは何か刺繍のある淡い水色」であると説明される。
 
 庭園に忽然と現れた女性。彼女の着てゐた着物の色は「淡い水色」!であつた。

 女の一群の間から笑ひ聲が聞える。しかし、清顕はこの邸の女たちの様子ぶつた笑ひ聲が嫌ひだつた。

《 清顕は水いろの着物の女だけは、さういふ笑ひ聲を立てぬだらうと信じた。》

 再び出て来る「水いろの着物」といふ表現。しかし今度は表記が「水色」ではなく、「水いろ」になつてゐることに注意されたい。

 女どもの一群が清顕と本多の目からは草のかげにかくれると、本多はいふ。

 「貴様の家は全く女が多いなあ。家は男ばかりのやうなものだ」

 女たちが飛び石を渡つてゆくのが見える。

《 女中に手を引かれながら飛び石を渡る水色の着物の人の、うつむいた白い項(うなじ)を遠く望んだ清顕は、忘れがたい春日宮妃殿下の豊かなおん項を思ひ出した。》

 またまた、「水色の着物」である。(今度は「水色」と「色」が漢字表記に戻る)

 春日宮妃殿下とは、清顕が学習院中等科のとき、宮中の新年賀会でドレスのお裾持ちをした方で、「お美しさといひ、気品といひ、・・・花の咲き誇つたやうなお姿」で、清顕が「そこに女人の美の目のくらむやうな優雅の核心を発見」したお方であつた。

 清顕をして、優雅と美の極致のやうな春日宮妃殿下を思ひ出さしめた「水色の着物」の人。彼女は一体誰なのだらうかと讀者の探求心をさんざん煽つておいて、作者はここで一転、「水色の着物」の人の種明かしをする。
 
《 ・・・清顕はそこまで熱心に目で辿つてきて、水色の着物の女の横顔に、聰子の横顔をみとめて落胆した。どうして今まで、それを聰子と気づかなかつたものであらう。一途に見知らぬ美しい女だと信じ込んでゐたのであらう。》

 「水色の着物」の女の正体は綾倉聰子であつた。綾倉聰子は和歌と蹴鞠で知られる堂上家である綾倉伯爵家の長女である。綾倉伯爵家の雅びにあこがれた父松枝侯爵によつて清顕は幼いころ、綾倉伯爵家に預けられ、二歳年上の聰子によく可愛がられた。二人はそのやうな間柄で、旧知の、幼馴染なのであつた。

 『春の雪』のこの庭園の場面は、ヒロインの綾倉聰子がはじめて登場する大事な場面である。そこで作者はそれにふさはしい状況設定をすべく、工夫を凝らしたのに違ひない。
 その工夫とは、聰子を「謎の女」として登場させることであつた。

 聰子が姿を現しても、清顕の目からは遠すぎて誰とも知れない。そのやうな設定にしたのである。

 清顕にとつて聰子は幼馴染である。聰子の姿が見える。そこで清顕が「あ、聰子さんだ」とすぐに気づき、「聰子さんが水色の着物を着てゐる」では、物語の展開のしやうがないであらう。

 そこで作者は、聰子を「謎の女」として登場させた。

 清顕は「水色の着物」の女が聰子だとは気がつかない。「水色の着物」に対する清顕の空想が宮中の妃殿下のお姿にまで膨らむ。そのとき作者は、パチンとその空想を吹き消してしまふのだ。

 「水色の着物」の女が聰子だとわかつた瞬間、清顕は落胆した。なぜ清顕は落胆したのか。

 清顕は聰子の美しさを認めないふりをしてゐた。彼は聰子が自分を好いてゐるのをよく知つてゐた。そして、清顕は「自分を愛してくれる人間を軽んじ、軽んじるばかりか冷酷に扱ふ」よくない性向の持ち主であつた。

 清顕のこの厄介な性向こそが、『春の雪』といふ悲恋物語を貫くテーマなのだが、作者は「水色の着物の女の横顔に、聰子の横顔をみとめて落胆した」といふひとことで、それを見事に表現してゐるのである。

 清顕が聰子に抱く、曖昧糊塗とした、アンビバレントな感情を表現するには、聰子を「謎の女」として登場させる方が都合がよかつたともいへる。


 主人公が女たちに遭遇する。そしてその女の中に「謎の女」が存在する。

 このやうな印象的な場面を画くにあたつて、三島由紀夫が参考にしたと目されてゐるのが、森鷗外の「文づかひ」なのである。




    (續く)

■森鷗外と三島由紀夫
 ―近代日本語の創始者と完成者と―


 ▼三島由紀夫の鷗外崇拝(第七回)

  『豊穣の海』―『浜松中納言物語』―「文づかひ」といふ連関



 
 
 三島由紀夫の『作家論』に収録されてゐる「森鷗外」論には、森鷗外の「文づかひ」について長い言及があることは前に述べた通りである。その箇所を改めて読んでみることにしたい。
 
《 佐藤春夫氏が鷗外の「初期ロマンティック短篇あるひは独逸三部作」と名付けた「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の三篇は、前二者が作者二十八歳の時、「文づかひ」は二十九歳の時に書かれた青春の香りの高い作品であり、雅文で書かれてゐる。そして世に名高い前二者よりも、私ははるかに「文づかひ」のはうが好きなのである。》


 鷗外のドイツ留学の体験から生まれた「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の三篇の中でも、「文づかひ」はもつとも地味な作品とみられてきた。「舞姫」のやうな日本人留学生と貧しい少女との悲恋物語もなければ、バイエルン王の溺死事件を作中に組み込んだ「うたかたの記」のやうな意表をつく展開があるわけでもない。

 しかし三島がぞつこんほれ込んだのは、「舞姫」でもなく、「うたかたの記」でもなく、沈静高雅な作品「文づかひ」なのだつた。

《 「文づかひ」は、ドイツに留学してゐた日本の青年士官の話であるが、演習の途次立寄つて歓待されたビュロオ伯の城で、美しいイイダ姫に会ひ、知り合つたあくる日に姫から手紙を託され、王宮の新年宴会のとき、青年士官は首尾よくその手紙を、姫の伯母の伯爵夫人に渡す。再度王宮に上つた士官は、そこに思ひもかけぬ女官姿のイイダ姫を見出し、姫から秘密の手紙の事情を、はじめて打明けられるといふ話で、最後の一行の、
「をりをり人の肩のすきまに見ゆる、けふの晴衣の水いろのみぞ名残なりける」
 といふ、余韻に充ちた結句は、私の心に鮮明に焼きついてゐる。》

 日本人士官が美しいイイダ姫から伯母の伯爵夫人への手紙を託される。首尾よくそれを果たし、かれは後日王宮で、イイダ姫から、自分の意に染まぬ結婚を強いられてゐて、それを回避するために伯母に手紙を書いたといふ事情を語り始める。「はや去年のむかしとなりぬ。ゆくりなく君を文づかひにして・・・」。「文づかひ」といふタイトルはここから来てゐる。

 三島に鮮烈な印象を残した結句の部分をもう少し前から引用してみる。

《 かたりをはるとき午夜の時計ほがらかに鳴りて、はや舞踏の大休となり、妃はおほとおごもり玉ふべきをりなれば、イイダ姫あわただしく坐を起ちて、こなたへ差しのばしたる右手の指は、わが触るるとき、隅の観兵の間に設けたる夕餉に急ぐまらうど、群立ちてここを過ぎぬ。姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかりゆきて、をりをり人の肩のすきまに見ゆる、けふの晴衣の水いろのみぞ名残なりける。》

 イイダ姫が着てゐたのは「水いろ」の晴衣であつた。

 彼女の衣装は舞踏会の場面で次のやうに描かれてゐる。

《 胸にさうびの自然花を梢のままに着けたるほかに、飾といふべきもの一つもあらぬ水色ぎぬの裳裾、狭き間をくぐりながら撓まぬ輪を画きて、・・・」


 それから、イイダ姫が彼を一室に誘つて語り始めたときの姿。

《 ・・・姫は水いろぎぬの裳のけだかきおほ襞の、舞の後ながらつゆ頽(くず)れぬを、身をひねりて横ざまに折りて腰掛け、・・・》

 鷗外がここで、イイダ姫の衣装の色について、「水色」「水いろ」と幾度も表現を重ねてゐることに注意されたい。

 「文づかひ」といふ鷗外作品の意味について、三島は次のやうに概括する。

《 これは明治前半の日本が、西欧のロマンティシズムの現場にやうやく間に合つて、駆けつけて参加したところの最後の証言のやうなもので、軍人といふ身分もたしかに幸ひしたのだが、鷗外以後日本の文学者は、二度とこのやうな、身自ら西欧の物語的世界に身を置く幸運にめぐり合はず、横光利一の「旅愁」が象徴するやうな、知識人の自意識を通して見た、永遠に参加を拒んでゐるヨーロッパの像が、眼前に立ちはだかるだけになる。「文づかひ」は淡々たる筆致で、世にも優雅な語り口のうちに、因襲を憎んで自由を求める代りに、更に深い因襲の墓場に身を埋めるほかに道のない一女性も像を浮彫りにしてゐるが、さういう性格描写などよりも、重要なのは、現代日本人が二度と書くことのできなくなつたこの清麗で理知的で詩的な雅文と、日本人の一人が一青年士官といふ画中の人物になつて、作中に動いてゆくことの、ゆたかなロマンティックな興趣にあるが、その士官が、客観的な温雅な、そして傍観者的な性格であることは、鷗外のあらゆる作品の主人公の性格の、最初の提示であると見られる。王朝時代から、日本文学は」、たとへば「浜松中納言物語」に見られるやうに、異国の宮廷の優雅をも、日本の完成した優雅そのもののコピーとして、おそれげもなく描写する術に長じてゐたが、鷗外はヨーロッパに対しても、これを適用いうることを実証したわけである。》


 この文章で注目すべきは最後の、《たとへば「浜松中納言物語」に見られるやうに》以下の部分なのだ。」
 
 鷗外は、異国の宮廷の優雅をも、日本の完成した優雅そのもののコピーとして描写する術に長じてゐた。日本文学にみられるその先例として、「浜松中納言物語」をあげてゐるわけである。

 「浜松中納言物語」といへば、『豊穣の海』を思ひ起こさざるを得ない。

 『豊穣の海』第一巻『春の雪』の末尾には、名高い後註がつけられてゐる。

《『豊穣の海』は『浜松中納言物語』を典拠とした夢と再生の物語であり、因みに、おの題名は、月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunditatis  の邦訳である。》

 『豊穣の海』の典拠とした『浜松中納言物語』と鷗外の「文づかひ」は、三島由紀夫の中で、なぜか密接に結びついてゐるのである。


  (續く)


■森鷗外と三島由紀夫
 ―近代日本語の創始者と完成者と―




 ▼三島由紀夫の鷗外崇拝(第六回)
  
  「最後まで持場を放棄しない人」―森鷗外



 三島由紀夫が昭和三十九年に書いた中央公論社「日本の文学」2「森鷗外(一)」の「解説」文について続けよう。


 「解説」のはじめに「鷗外とは何か」といふ問を重ねたのは鷗外論の総論ともいふべき部分で、そのあとに各論として個々の作品論が展開される構成になつてゐる。

 作品論のはじめに取り上げるられるのが、佐藤春夫によつて鷗外「初期ロマンティック短篇あるひは独逸三部作」と名付けられた「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の三篇である。

 自分は、世に名高い「舞姫」「うたかたの記」よりも、はるかに「文づかひ」が好きなのであると三島は云ひ、その理由を説明しつつ、「文づかひ」という作品の本質に迫つてゆくのであるが、「文づかひ」に関するここの記述では、あの『豊穣の海』創作の秘密の一端をおそらく半ば意識的に漏らしてゐて、『豊穣の海』の理解には重要な箇所だと思はれるので、本稿の最後に言及することにしたい。


 さて、独逸三部作の次に取り上げられるのが、あの「怖ろしい家庭の地獄」を描いてゐる「半日」である。

 作中の創作人物の中では、「半日」の「奥さん」のやうな猛烈な女性を描いたことのなかつた鷗外が、なぜ自分の妻のすさまじい言動をあけすけに公開してしまつたのか。三島の「半日」評も、作品の出来不出来などよりもつぱら関心はそちらに集中してゐて、鷗外の「透明で硬質な心」と「不透明で硬質な心の持主」である女性が、家庭とは呼べない冷え冷えとした生活を営んでゐたところに、「日本の近代といふもののふしぎな姿が現れてゐる」として、鷗外の置かれた立場が次のやうに分析される。

《 のちに鷗外の描いたし史伝物の世界では、厳格な封建倫理の下に、もつと血の通つた「家7」が営まれてゐた。そして日本の家庭といふものが、イギリスの「ホーム」のやうな安定を持たないことは、今日にいたるまでつづいてゐて、鷗外は、自分の家庭そのものからも、日本の近代の失敗を感じつづけたと言つてもよいだらう。》

 次いで、「ヰタ・セクスアリス」に触れ、それから三島がこよなく愛した短篇「追儺」と「百物語」に仕込まれた謎をそれぞれ手品のやうに明いて見せる。

 注目すべきは「青年」の解説で、この鷗外最初の長編小説に光をあて、二十歳の青年小泉純一の明澄な感情教育は「つねに衰へない清らかな魅力を湛えてゐる」と、当時の文壇でも高く評価されることのなかつた「青年」を擁護する。

 「青年」を読んで誰しもが感じる主人公の淡白さとじれつたさ。しかし、あの淡白に見えるものこそが、「どんな時代にもかはらぬ青年の潔癖と羞恥を典型的に表現してゐる」とし、「今われわれが読んで感じる主人公への一種のじれつたさは、逆にこの作品の永遠の真実をあらはしてゐるので、いつの時代にも青年はこんなもの」であると、鷗外が小泉純一に注いだ視線に理解を示し、若い読者を意識して、「私はこの作品が「坊ちやん」などよりも、現代の青年にもつと読まれるべきだと考へてゐる」と持論をつけ加へるのを忘れない。
 
 名作「雁」の解説においては、三島の鷗外文體論を改めて聞くことができる。

《 「雁」を読み返すたびにいつも思ふことであるが、鷗外の文體ほど、日本のとリヴィアルな現実の断片から、世界思潮の大きな鳥観図まで、日本的な小道具から壮大な風景まで、自由自在に無差別にとり入れて、しかもそこに文體の統一性を損ねないやうな文體といふものを、鷗外以外のどの小説家が持つたかといふことだ。

《 ・・・堀辰雄氏の文體は、ハイカラな軽井沢を描くことはできても、東京の雑踏を描くに適せず、谷崎潤一郎氏の文體は又、あれほどすべてを描きながら、抽象的思考には適しなかつた。どの作家も、鷗外ほど、日本の雑然たる近代そのものを藝術的に包摂する文體を持つた作家はなかつた。》 

 「雁」は大作とはいへないが、鷗外の総合的天才の作品といふ理想的形態に近づいてゐるとさへいふ。

 「雁」は、男らしい美男岡田と囲ひ者の身分であるお玉との、ついに成就することのない恋物語である。下宿で青魚(サバ)の味噌煮が出たばかりに、外遊する岡田とお玉は永久に語りあふ機会を逸する。

《 すべは静かな、宇宙の惑星の運行のやうな、必然の動きのうちに物語られ、登場人物は一時代の学生と一人の妾に他ならないが、人間と人間との相會ふことのない運命への、つきぬ痛恨が尾を引く。
 ・・・
 お玉の心理にしても、岡田の心理にしても、作者は或る遠慮を以て、醜いものを一切堀り出さずに書きながら、しかも無礼な分析以上のものを、語らずに成就してゐる。》

 この解説文の最後に三島は、「resignation 」といふことに言及した鷗外の「予が立場」(明治四十二年)の一節を掲げる。

《 私の心持をなんといふ詞(ことば)で言ひあらはしたら好いかと云ふと、resignation だと云つて宜しいやうです。私は文藝ばかりではない。世の中のどの方面に於いても此心持である。それで他所(よそ)の人が、私の事をさぞ苦痛をしてゐるだらうと思つてゐるときに、私は存外平気でゐるのです。勿論 esignation の状態と云ふものは意気地のないものかも知れない。其辺は私の方で別に弁解しようとも思ひません。》

 鷗外は自分の心持を「resignation」と云つた。自分の立場を傍観者と云つたこともある。多くの人々は、resignation といふ言葉を鷗外の消極的姿勢のあらはれと受け取つた。

 しかし三島は、鷗外から発せられたresignation といふ言葉を次のやうに理解した。

《 彼の resignation とは、最後まで持場を放棄しない人の、平静さの勇気と、心の苦さとを、一つ言葉で語つたものと考へてよいのである。》

 「最後まで持場を放棄しない人」であつた森鷗外の中に、三島由紀夫は、武人としての姿も見てゐたのではなかつたかと私は思ふのである。

     (續く)









■森鷗外と三島由紀夫
 ―近代日本語の創始者と完成者と―




 ▼三島由紀夫の鷗外崇拝(第五回)

 「かくまで完璧で典雅な現代日本語をつくりあげてしまつた天才」


 



 三島由紀夫による森鷗外論の集大成と呼ぶべきものが、中央公論社「日本の文学」2「森鷗外(一)」(昭和三十九年刊)の巻末に掲載された「解説」の文章であらう。

 この解説は、著者の死の前月(昭和四十五年十月)に中央公論社から単行本として刊行された『作家論』にも収録され、その冒頭に置かれてある。単行本の「あとがき」には、「本書は、私批評ともいふべき「太陽と鉄」と共に、私の数少ない批評の二本の柱を成すものと考へられてよい」とある。

 中央公論社「日本の文学」の森鷗外篇は(一)と(二)があり、(二)には「阿部一族」や「澀江抽斎」など歴史小説や史伝が収録され、(一)はそれ以外の小説や評論が収録されてゐる。三島が解説を担当したのは(一)の方で、(二)は大岡昇平が解説を書いてゐる。

 「日本の文学」2「森鷗外(一)」に収録されてゐる作品は次の通りである。

 「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」「半日」「追儺」「魔睡」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「金貨」「青年」「ル・パルナス・アンビュラン」「普請中」「花子」「あそび」「妄想」「雁」「百物語」「不思議な鏡」「藤棚」「羽鳥千尋」「余興」「予が立場」「歴史そのままと歴史離れ」「空車」「なかじきり」

 「森鷗外とは何か?」―といふ書き出しでこの解説は始まる。

《 戦前の日本では、「森鷗外とは何か?」などといふ疑問がそもそも起る余地がなかつた。鷗外は鷗外だつた。それは無条件の崇拝の対象であり、とりわけ知識階級の偶像であつた。大ていの軟文学を頭からバカにしてゐる人たち、世間で実際的な職業に携はり、相当な高い地位にをり、小説などは婦女子の弄び物だぐらゐに思つてゐる人たちでさへ、鷗外だけは別格に扱つて、尊敬してゐた。・・・私も亦、さういふ鷗外崇拝の空気の中に育つたのである。》

 しかし、鷗外は「自明の神」ではなくなつた。明治政府の理念の理想的具現であるやうな鷗外像、その家父長制の理想のやうな知的男性像は、今の若い世代の脳裏からは消え去つた。そして「より通俗な」漱石が依然若い世代にも人気を保つてゐる。

 「森鷗外とは何か?」と再び自問する。

《 あらゆる鷗外伝説が衰亡した今、私にとつては、この問ひかけが、一番の緊急時の思はれる。・・・すべての伝説が死に、知識の神としての畏怖が衰へた今こそ、鷗外の文學そのものの美が、・・・純粋に鮮明にかがやきだす筈だと思はれる。》

 鷗外文学の美とは何か? 「この簡浄は古代支那の古典の美と力とを領略した人のたやすく行ひうる殊色である」といふ日夏耿之介の言葉(「花子」の解説)がすべてを尽くしてゐると三島はいふ。

《 我々は徳川封建期の煮詰められた暗い漢学の匂ひよりも、奈良朝に輸入された当時の支那文化の、新鮮なハイカラが、みごとに融和したそのまぎれもない日本語の文體に酔ふのである。》

 その例証として、「花子」の導入部、ロダンの仕事場の書き出しを取り上げる。

《「日光の下に種々の植物が華さくやうに」
 と鷗外が形容するとき、すでにわれわれは鷗外のフレグランスと詩と音楽のとりこになつてゐる」。その芳香はただの芳香ではなくて、・・・硬質の大理石に彫られた花の・・・大理石の花の芳香であり、いささかのあいまいさもない「明晰さの芳香」であり、明晰さの詩である。未完成の彫刻群が、「日光の下に種々の植物が華さくやうに」とさりげなく形容されるとき、その「植物」といふ語によつて、藝術的創造が、自然の生成に転置されて、創造の苦闘が浄化されて、自然ののびやかなエネルギーに転化され、しかも「花」と書かず、「華」と書くことによつて、「花」の柔らかさの代りに、より硬質な、そして複雑で典雅な「華」が暗示されるのである。》

 このやうに緻密極まりない分析を展開し、見事に鷗外の文體の魅力を浮び上らせるのだ。

 「鷗外とは何か?」 三島は三たび自問する。

《 鷗外は、あらゆる伝説と、プチ・ブルジョアの盲目的崇拝を失つた今、言葉の藝術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創成期にかくまで完璧で典雅な現代日本語をつくりあげてしまつたその天才を称揚すべきなのだ。》

 三島由紀夫にとつて森鷗外とは、「かくまで完璧で典雅な現代日本語をつくりあげてしまつた天才」なのであつた。


   (續く)




■森鷗外と三島由紀夫
 ―近代日本語の創始者と完成者と―




 ▼三島由紀夫の鷗外崇拝(第四回)

  三島「西欧人にはわからない鷗外の言葉の美しさ」





 雑誌「文藝」は昭和三十七年八月号で「森鷗外特集」を組んでゐる。メインの企画は「森鷗外と現代」と題した座談会だ。

 昭和三十年代といふのは日本の国語教育といふ観点から森鷗外が脚光を浴びた時代であつた。それは森鷗外の「舞姫」が高校の国語の教科書に登場したからである。あの文語体の「舞姫」が高校の現代国語の教科書に示し合はせたかの如く一斉に掲載され始め、これ以降、「舞姫」は高校国語教科書の定番教材化したのである。

 「文藝」の座談会の出席者はといふに、伊藤整、唐木順三、中野重治、野田宇太郎、三島由紀夫の五人。

 はじめに各人が森鷗外を読み始めた体験を語り、三島は自分にふられると、「いちばんミーハー的なファンですが」とはじめに断りをいれてゐるが、これは他の四人の出席者がみな明治の生れで、森鷗外論まで出した中野重治をはじめ鷗外にはいづれも一家言をもつ文学者たちであつたからである。

《 中学のとき教科書で「山椒大夫」を讀んで、その頃は谷崎さんのものに夢中になつた時代で、なんとつまらないスカスカした文章だらうと思つて、・・・

 だんだん谷崎さんなどを讀みつくし、大学へ入つてからですがね。大学へ入つて二年目、戦争が終はつた頃から、だんだん鷗外に興味を持ちだした。それまでスカスカしていたものが急に美しく透明に見えだした。そのときが「花子」だろうと思うのです。「花子」のような短篇はよく読むと、今までこんなのは読んだきとがないような気がして、それから、これは読まなければならんというので、あれを読みこれを読み、「澀江抽斎」も読み、「澀江抽斎」で奥さんが風呂場から泥棒を腰巻一つで追つかける、あすこに本当に感動した。「青年」などを読んだのはいちばんあとで、「青年」のような出来の悪いものが、中途半端なものまでが好きになつた。》

 座談会の後半では、三島は次のやうな発言もしてゐる。

《 少年時代に母親的なものにとらわれていたときには谷崎さんが好きで、大学に行つて父親的なものに関心をもちだして鷗外が好きになつた。自分の中の鷗外的なものが・・・。うちのじじいが田舎から出た明治の官僚ですから、僕はそういう一家の家風に反抗してきたせしよう。しかし逆に、それが面白くなるほど客観視するようになつた時分、鷗外を読むほど鷗外の言葉づかいとか、口やかましさが似ているのですね。山の手文学でしよう、だいたいが。それで、なるほどなという気がして、そういう官僚主義にとても惹かれたのですね。官僚主義でも、ここまで洗練されるものであろう、官僚主義的文化主義も、こんなに美しい表現を得るのであろうかということを無意識のうちに感じていたんではないですかね。文章自体が明治新官僚の美学のようなものでしよう。高級で品がいい、という要請をすべて叶えている。》

 明治国家の官僚主義文化は森鷗外にいかなる影響を及ぼしたか。三島の鷗外への最大の関心はそのことにあつた。四年後に書かれた「日本の文学」鷗外編の解説ではこのテーマへの深い考察を見ることができる。


 座談会はやがて、「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の三部作のと雅文體の話になり、三島は「文づかひ」のラストの、「けふの晴衣の水いろのみぞ名残なりける」といふ文章を、「本当にきれいです」といふ。

 次いで戯曲の話になり、三島は「戯曲の文體はもつと顧みられていい」と主張して、鷗外の戯曲の文體を絶賛する。

《 日本の近代戯曲はほんとうの文體をもたないですね。文體をもつたのは鷗外の戯曲と久保田万太郎の戯曲で、鷗外は明治の山の手言葉です。久保田先生のは大正までの下町言葉です。この二つがあるわけです。鷗外の翻譯戯曲は、「おあねえさま」とか「助(す)けてちやうだい」とか「よくお寝つておいでだ」とか言つている。
 ・・・・・
 鷗外のオリジナル戯曲では「生田川」が好きだな、簡浄で透明で。》

 それから鷗外の文體論になり、「今の日本語、正統派日本語というものに鷗外はずいぶん関与した」といふ中野重治の発言を受けて、三島はいふ。

《・・・とにかく開かれた言葉で、なんでも言える言葉だろうと思う。・・・鷗外のつくつたスタイルなどは、国家社会のことを言つても、お料理がうまいまずいを言つても、女のいい悪いを言つても、全部それを言えちゃうような言葉ですからね、・・・どうしてあんな自由自在で、しかも骨なしでない文体ができあがつたんだろうか。》


 座談会の最後の方で三島は、これほど美しい森鷗外の文章が「西洋人にはどうしてわからないのでしようね」と疑問を呈してゐる。

《・・・僕は美しいということだけだな。美しいことが西洋人にわからないのはどうかしている。
 ・・・
 古典的教養から出た文章の美しさに感性的魅惑を感ずる。それが西洋人に絶対にわからないらしいな。》

 外国人の日本文學研究者には絶対理解できない森鷗外の文章の美しさ。これは、鷗外文學を考へる上で重要なテーマともいへるのに、この座談会では、この問題に言及してゐるのは三島由紀夫ただ一人である。


   (續く)




■森鷗外雜記



  ▼大日本帝国陸軍第二軍軍医部長森林太郎(其一)

   田山花袋の「陣中の鷗外漁史」





 田山花袋は『東京の三十年』の中で、日露戦争当時、広島で森鷗外と邂逅したときのことを「陣中の鷗外漁史」として回想してゐる。

 陸軍第二軍軍医部長たる森林太郎はまもなく宇品を出航すべく広島にあり、一方、田山花袋は第二軍の私設写真班に志願して広島に赴いたのであつた。

 花袋は写真班に志願はしたものの、実際に従軍できるかどうかはつきりしなかつた。そこで不安にかられ第二軍司令部に行くと、参謀次長から「連れて行くかどうか俺は知らんよ。一体誰が請け合つたんだ」とあしらはれる始末だつた。

 花袋は鷗外に逢はうと決意する。森林太郎は第二軍の軍医部長、軍医のトップである。とても逢へまいとあきらめてゐたが、ここで追ひ返されくらゐならと、思ひ切つて名刺をもつて鷗外が滞在してゐた旅館を訪うたのである。

《「閣下ですな」
 かう言つて、そこにゐた看護卒らしい兵士は私の異様な服と名刺とを比べて見て、「ちよつと待つて・・・」
 かう言つて奥に入つて行つた。
 すぐ戻つて来て、「此方へ」
 かう言つて縁側の處まで伴れて行つて、
 「閣下はその二階にをられる」》

 部屋に入ると、軍服に身を固めた鷗外がそこにゐた。

《 鷗外氏は、「まァ、ここに来たまへ。花袋君だね、君は?」
 この「花袋君だね、君は?」が非常に嬉しかつた。
 鷗外氏の個人主義は、私は昔から好きだが、かういふふうにさつぱりした物に拘泥しない態度は、何とも言はれない印象を若い私に与へた。》

 広い十五六畳敷の明るい二階の一間で、戦争の話や文壇の話をする。「君の他に、文壇の人で従軍するものがあるのかねえ? 日々の黒田君? ふん、黒田だれだらう」と鷗外は首を傾げた。

 陣中で、「尊敬してゐた」鷗外との面談がかなつた新進作家田山花袋の感激はいかばかりだつたか。

《 私は文藝の有難さを感ぜずにはゐられなかつた。それに、私はまだ作家として何もしてゐやしない。それにも拘らず、佐官でも滅多には逢つてくれないこの戦時に、軍医部長が別に不思議もないやうにしてかうして逢つてくれるとは! 》
 
 鷗外は与謝野鉄幹が主催してゐた詩歌雑誌「明星」に上田敏とともに賛助を与へてゐた。田山花袋の森鷗外に「お目にかからうとする心」をいつも遮つたのはこの事実だつた。なぜなら、田山花袋の「わる口をよく言つた雑誌」が「明星」だつたからである。




■森鷗外と三島由紀夫
 ー近代日本語の創始者と完成者と―


   ▼三島由紀夫の鷗外崇拝(第三回)
 
    三島由紀夫『文書讀本』に現れた鷗外文學の感化




 
 三島由紀夫の鷗外観といふべきものをまざまざと示してくれる文献として、三島由紀夫の『文書讀本』を取り上げてみたい。

 『文章讀本』は昭和三十四年に、雑誌「婦人公論」の別冊付録といふ一風変つた形で発表され、同年中央公論社から単行本として刊行された。初出時は口述筆記で、単行本化の際改稿された。

 『文章讀本』は谷崎潤一郎が書き、川端康成も書いた。そこで出版社としては当代最高の文章鑑賞家とされる三島由紀夫先生に、三島版『文章讀本』を依頼した。しかし作家は渾身の書き下ろし長編『鏡子の家』と格闘中で、他にもたくさん仕事を抱へてゐて多忙を極めてゐた。そこで出版社が提案した。「それなら口述筆記でお願ひしたい」。口述筆記となつたのは、そんな事情だつたのではないか。これは私の推測。

 三島版『文章讀本』の特徴といへば、讀む側からの文章讀本といふ点に限定したことにあるだらう。すなはち素人文學隆盛に阿つた「だれでも書ける文章読本」の弊を避け、あくまで一般読者が文章を味はふための文章読本だつたのである。

 「小説」を味はふのではない。大事なのは「文章」を味はふことなのである。「文章を味はふといふことは、長い言葉の伝統を味はふといふことになるのであります。」
 
 かうした観点から、「文章のさまざま」「小説の文章」「戯曲の文章」「評論の文章」「翻譯の文章」「文章技巧」「文章の実際」などについて、綿密な文章論と文體論が展開されるのだが、圧巻なのは、我が国における文章の特質を論じた「文章のさまざま」の章であらう。

 日本語の特質とは何か。一方で漢文学の影響による理知的な男性言語があり、一方に平安時代に確立した情念的な女性言語があつた。そして日本文學の主流は圧倒的に後者の支配下にあつたといふ二元論が、源氏物語、和漢朗詠集、万葉集、平家物語、西鶴、近松などが縦横に引用されつつ、いとも明快に解説されるのだ。

 さてそれでは三島版『文章読本』において、森鷗外の文章はいかなる位置を占めてゐるのであらうか。

 著者はまづ「小説の文章」といふ章において、小説の二種類の文章を引用する。一つは、森鷗外の「寒山拾得」の一節であり。一つは泉鏡花の「日本橋」一節である。

 掲げられた「寒山拾得」の一節。

《 閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて來いと命じた。水が來た。僧はそれを受け取つて、胸に捧げて、ぢつと閭を見詰めた。清淨な水でも好ければ、不潔な水でも好い、湯でも茶でも好いのである。不潔な水でなかつたのは、閭がためには勿怪の幸であつた。暫く見詰めてゐるうちに、閭は覺えず精神を僧の捧げてゐる水に集注した。》
 
 次いで、泉鏡花の「日本橋」の一節も掲げられるが、こちらは「盛の牡丹の妙齢(としごろ)ながら、島田髷の縺れに影が映(さ)す・・・・」といつた、鏡花調としかいいやうがない、「寒山拾得」とは対蹠的な文章である。

 まづ、「寒山拾得」の一節について、次のやうに説明する。

《 この文章はまつたく漢文的教養の上に成り立つた、簡潔で清浄ね文章でなんの修飾もありません。私がなかんづく感心するのが、「水か来た」といふ一句であります。この「水が来た」といふ一句は、全く漢文と同じ手法で「水来ル」といふやうな表現と同じことである。しかし鷗外の文章のほんたうの味はかういふところにあるので、これが一般の時代物作家であると、閭が小女に命じて汲みたての水を鉢に入れて来いと命ずる。その水が来るところで、決して「水が来た」とは書かない。まして文学的素人には、かういう文章は決して書けない。このやうな現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけいなものを全部剥ぎ取り、しかしいかにも効果的に見せないで、効果を強く出すといふ文章は、鷗外独得のものであります。鷗外の文章は非常におしやれな人が、非常に贅沢な着物をいかにも無造作に着こなして、そのおしやれを人に見せない、しかもよく見るとその無造作な普段着のやうに着こなされたものが、たいへん上等な結城であつたり、久留米絣であつたりといふやうな文章でありまして、駆け出しの人にはその味がわかりにくいのであります。》

《・・・ただ鷗外がなんの描写もせずに、「水が来た」と言ふときには、そこには古い物語のもつ強さと、一種の明朗さがくつきりと現れます。さういふ漢文的な直截な表現を通してわれわれはその物語の語つてゐる世界に、かへつてぢかに膚を接する思ひがするのであります。》

 「水が来た」といふただの一句から、これだけのことが語られ、われわれは鷗外の文章の本質とその魅力に目を見開かされるのである。

《・・・彼はあいまいなものに一切満足できなかつたのであります。・・・鷗外は人に文章の秘訣を聞かれて、「一に明晰、二に明晰、三に明晰と答へたと言はれてをります。これは作家の文章に対する決定的な態度であります。》

 『文章読本』を読み進めて行かう。

 第七章の「文章技巧」の「行動描写」といふところで、再び鷗外の名前が出て来た。

《 ・・・森鷗外は日本の作家のなかでは行動描写に非常に秀でた人でした。彼は潔癖な論理的性格をもつてゐたので、人間の内面にかかはる懐疑主義を軽蔑し、むしろ封建時代の武士の行動的な純潔さに愛着を感じ、「阿部一族」その他の小説を書きました。彼の「澀江抽斎」は連綿としてつきない日常瑣事の年代的叙述に充ちた退屈きはまる小説とも見えますが、ある瞬間、火花のやうに行動描写がほとばしつて、退屈な日常のなかから人間のエネルギーが一瞬にして奔出する人生的体験をわれわれに与へます。》

 このやうに説明してから三島は、「澀江抽斎」のなかで最も有名な場面、すなはち抽斎の妻五百が腰巻ひとつで武勇をふるふあの場面の描写を長々と引用するのである。

       * * * * * 

 刀の欛に手を掛けて立ち上つた三人の客を前に控へて、四畳半の端近く坐してゐた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣つた。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
 五百は僅に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であつた。口には懐剣を銜へてゐた。そして閾際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであつた。小桶からは湯気が立ち升つてゐる。縁側を戸口まで忍び寄つて障子を開く時、持つて来た小桶を下に置いたのであらう。
 五百は小桶を持つたまま、つと一間に進み入つて、夫を背にして立つた。そして沸き返るあがり湯を盛つた小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜へてゐた懐剣を把つて鞘を払つた。そして床の間を背にして立つた一人の客を睨んで、「どろばう」と一声叫んだ。
 熱湯を浴びた二人が先に、欛に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。

      * * * * * 

 さらに、このすぐあとに出てくる「文法と文章」といふ項目では、「人称をどんどん省いて行く簡潔な文章技法」の例として、森鷗外の「青年」から、次のやうな文章が引用されるのだ。

      * * * * * 
 
 顔を急いで洗つて、部屋に這入つて見ると、綺麗に掃除がしてある。目はすぐに机の上に置いてある日記に惹かれた。きのう自分の実際に遭遇した出来事よりは、それを日記にどう書いたといふことが、当面の問題であるやうに思はれる。記憶は記憶を呼び起す。そして純一は一種の不安に襲はれて来た。それはきのうの出来事に就いての、ゆうべの心理上の分析には大分行き届かない処があつて、全体の判断も間違つてゐるやうに思はれるからである。夜の思想から見ると昼の思想から見るとで同一の事相が別様の面目を呈して来る。
 ゆうべの出来事はゆうべだけの出来事ではない。これから先きはどうなるだらう。自分の方に恋愛のないのは事実である。しかしあの奥さんに、もう自分を引き寄せる力がないかどうだか、それは余程疑はしい。ゆうべ何もかも過ぎ去つたやうに思つたのは、瘧の発作の後に、病人が全快したやうに思ふ類ではあるまいか。又あの謎の目が見たくなることがありはすまいか。ゆうべ夜が更けてからの心理状態とは違つて、なんだかもう少しあの目の魔力が働き出して来たかとさへ思はれるのである。


      * * * * * 

 小説を書く時、自分は鷗外から何を学んだかについて、三島はこのやうに説明する。

《 この鷗外に学んで私は、かへつて小説を書くときには、努めて人称をはぶくやうに気をつける場合があります。
 次に私が森鷗外から学んだのは擬音詞(オノマトペ)を節約することであります。》

 『文書讀本』では、森鷗外の翻譯文についてもさまざまに言及される。

 まづ、明治期、翻譯文がまだ雅文體がつかはれてゐた時の代表的名文として、鷗外の「即興詩人」の一節が引用される。
 
      * * * * * 

 ここはわが心の故郷なり、色彩あり、形相あるは、伊太利の山河のみなり。わが曽遊の地に来たる楽しさをば、君もおもひ遣り給へといふ。

     * * * * * *

 そして次のやうに言ふ。

《 このやうにいともみやびやかな文章であります。このみやびやかな雅文調のなかに、読者は十分に日本の風土と、日本の社会環境とはちがつた、西洋の事物に対するエキゾチシズムを満足させられたのであります。》


 三島由紀夫は「翻譯された小説は、その国の国語における一個の藝術作品でなければならない」といふ確固たる考へをもつてゐた。

 翻訳の二つの態度がある。一つは個性の強い文学者の翻譯になるもの、もう一つは、良心的な語学者の才能と文学者の鑑賞力をあはせもつた人の試みる翻譯であるといふ。そして、文学者の翻譯の代表として、鷗外の「即興詩人」「ファウスト」、日夏耿之介の「サロメ」やポウの詩の翻訳、神西清の「コント・ドロラテック」(風流滑稽譚)の抄訳、斎藤磯雄のリラダンの翻譯などをあげてゐる。

 興味深いのは、ここにあげられた翻譯はすべて三島由紀夫自身が深く影響を受けたものだといふことだ。

 三島が文體を構築する上で、西洋語翻譯文體から蒙つた恩恵ははかりしれない。

 そして鷗外の場合、三島由紀夫に対して、その数々の創作に加へ、その翻譯文も多大な影響を与へたといふことになる。

 三島由紀夫の『文書讀本』は、彼の小説作法や文體の秘密を解き明かしてくれる本として読むと興趣がつきないが、もし森鷗外といふ存在がなければ、三島文学も少なくとも今われわれが見てゐるやうな形ではありえなかつたといふことだけは確実に教へてくれるやうに思ふ。


  (續く)







■森鷗外と三島由紀夫
 ー近代日本語の創始者と完成者と―


 ▼三島由紀夫の鷗外崇拝(第二回)
  「明治以来もつとも美しい文章を書いた鷗外」



 三島由紀夫が森鷗外を正面から論じた文章としては、昭和三十一年の「文藝」臨時増刊号「森鷗外讀本」に寄せた「鷗外の短編小説」があり、昭和四十一年の中央公論社「日本の文學」の「森鷗外(二)」に書いた解説がある。

 このほか、森鷗外の文体論として重要なのが、昭和三十一年に書かれた「自己改造の試み―重い文體と鷗外への傾倒」であらう。これは自分のどの作品にどの作家からどのやうな影響を受けたかを実例をもつて自己分析に及んだもので、実例として挙げた九つの作品のうち実に四つの作品に森鷗外の名前が登場するのである。これは森鷗外を単独で論じた文章ではないが、三島文学に及ぼした森鷗外の影響を知る上での最重要文献といへるだらう。
 
 さらに森鷗外の文體の魅力を縦横に語つたものとして、「文章読本」(昭和三十四年)も逸することができない。

 このほか、三島由紀夫が評論、エッセー、対談などのなかで、鷗外に言及した文章は少なくない。例へば、「私の遍歴時代」(昭和三十八年)に出て来る次の述懐などはよく知られてゐると思ふ。

《 「仮面の告白」のやうな、内心の怪物を何とか征服したやうな小説を書いたあとで、二十四歳の私の心には、二つの相反する志向がはつきり生まれた。一つは、何としてでも、生きなければならぬ、といふ思ひであり、もう一つは、明確な、理知的な、明るい古典主義への傾斜であつた。

 ・・・私はかくて、認識こそ詩の実体だと考へるにいたつた。
 それとともに、何となく自分が甘えてきた感覚的才能にも愛想をつかし、感覚からは絶対的に訣別しようと決心した。
 さうだ、そのためにはもつともつと鷗外を讀まう。鷗外のあの規矩の正しい文體で、冷たい理知で、抑へて抑へて抑へぬいた情熱で、自分をきたへてみよう。》

 これと同じやうに、二十代半ばにレイモン・ラディゲから森鷗外に向かつたといふ同じ文脈で語られた文章をあと二つほど紹介しておかう。

●「ラディゲに憑かれて―私の読書遍歴」(昭和三十一年)

《 私が鷗外を好きになつたのは、大学に入つてからである。ほぼ戦後になつてからである。それまで私は鷗外のどこがよいのかわからず、学校の教科書で出てくる「山椒太夫」など無味乾燥もいいところだと思つてゐた。それが法科なんかへ入つて、イヤな法律の勉強をしてゐるうちに、ふと鷗外が好きになり、今度は濫読でなしに、一つの短編をじつくり味はつたり、「澀江抽斎」を味読したりした。鷗外には、成人を魅するふしぎな力があり、鷗外の美に開眼したことは、自分が大人になつたといふことでもあつた。今でも、明治以来のもつとも美しい文章は、鷗外の書いたものだ、といふ確信は崩れない。
 鷗外は私のラディゲ熱をさましてくれた。私はラディゲの魔力を抜け出した。そして鷗外は又、私がそれまで関心を持たなかつたドイツ的な世界へ連れ出してくれ、トーマス・マンの小説の、真にドイツ的な味はひなどにだんだん目をひらかれるやうになつた。今世紀の作家で、やはり私がもつとも傾倒する作家はトーマス・マンである。》


●「わが魅せられたるもの」(昭和三十一年)

《 しかし戦争がすんでしばらくすると、私もだんだんラディゲから覚める日がやつてきた。そのころ私は森鷗外を讀んだ。森鷗外はラディゲと違つてりつぱなおとなである。彼は一生を非常な知性の抑制のもとに送った人物で、感情を軽蔑してゐた。・・・しかし鷗外はいかなる点からも感情に訴へなかつた。・・・鷗外の感傷を侮蔑する態度、非常な冷たさ、非常な知性的な優越感、その裏にひそむニヒリズム、完全な無感動、かういふものにだんだん魅力を感じてきたのである。といふことは逆にいふと、私はラディゲに対する魅力だけでは、戦後の危険な奔流に対して抵抗する足場を見出せなかつたといふことになるかもしれない。
 しかし鷗外はララディゲ以上に模倣しがたい先生であつた。これはあまりにもでき上つたおとなであり、明治時代そのものであり、東洋と西洋の教養の偉大な総合者であり、またあらゆる悪魔的なもの、あらゆる暗いものへの知識も裏ではちやんともつてゐた人だと思はれる。たとへば短編「百物語」などには、私が少年時代に憧れたワイルドの悪魔主義よりももつと強烈な悪魔的なものがチラと顔をのぞかせてゐたのである。
 私は徐々に文学の上で知的なものと感性的なもの、ニイチェのいつてゐるアポロン的なものとディオニソス的なもののどちらを欠いても理想的な藝術ではないといふことを考へるやうになつた。》


 前者に見られる次の言葉、

「今でも、明治以来のもつとも美しい文章は、鷗外の書いたものだ、といふ確信は崩れない。」

 三島由紀夫はなぜ森鷗外を崇拝したのか? その理由をこの言葉ほど簡潔に言ひ表したものはない。

  (續く)


■森鷗外と三島由紀夫 
 ー近代日本語の創始者と完成者と―



  ▼三島由紀夫の鷗外崇拝【第一回】



 三島由紀夫は森鷗外を崇拝してゐた。――こんなことを書くと安直極まりない文藝評論の言ひぐさみたいけれど、三島由紀夫が森?外を崇拝してゐたといふのは、すこぶる正確な表現なのである。なにしろ三島由紀夫自身がさう明言してゐたのだから。

 河出書房から出てゐた雑誌「文藝」は昭和三十一年七月、臨時増刊号として「森鷗外讀本」を特集した。

 この中に三島由紀夫の「鷗外の短編小説」といふ評論も掲載されてゐる。

「鷗外の短編小説」はさほど長くないものだが、三島が鷗外作品についてはじめて本格的に書いた文章で、『百物語』『花子』『寒山拾得』『追儺』『普請中』などを取り上げ、これらの作品の魅力をいとも鮮やかに剔抉して見せてくれる名評論である。

 さて「森鷗外讀本」では巻末に、作家、評論家、劇作家、詩人、歌人、俳人、学者らを対象にしたアンケートが載ってゐる。回答者は百人ばかり。

 アンケートの質問項目は、次の三つである。

一、あなたは森負鷗外の文學をどう思われますか?
一、森鷗外の作品で何が一番好きですか?
一、森鷗外からあなたの學んだものは?

 三島由紀夫は次のやうな回答を寄せた。

一、絶体崇拝。
一、『澀江抽斎』
一、感受性を侮蔑すること。

 単なる「崇拝」ではない。「絶対崇拝」と書くところがいかにも三島的である。
 
 
「現代日本文学の背骨」「大へん立派」「最も高級な文学」
「敬慕してゐます」「
「高雅であり、尊敬しています」(田中千禾夫)

 回答の中には、「格式の高いもの」「寸分の隙もない立派なもの」「一級品」といつた具合に?外文學礼賛の言葉が並び(無感動・無共感といふ回答も少なからずある)、「わが文學の師表」「敬慕してゐます」「尊敬してゐる」といふ回答も見受けられるが、?外を崇拝するとまで回答したのは三島由紀夫ただ一人である。

 鷗外崇拝といへば永井荷風のことが思ひ起こされる。

 荷風は部屋で誰かとくつろいで談笑してゐるやうな時でも、話が?外に及ぶと姿勢を改め居住まひを正したといはれる。荷風が昭和三十四年に市川市の自宅で急死した時、枕辺にあつた書物の一冊は森?外全集の『澀江抽斎』であつた。永井荷風が「?外先生」(と彼は呼んだ)に対する姿勢もほとんど崇拝に近いものがあつたと思ふ。

 さて三島由紀夫に戻ると、文學を志した十代の三島を呪縛したのはレイモン・ラディゲであつたことは周知の通りである。

 「ドルチェル伯の舞踏會」といふ天才のみが書きうる作品を残したレイモン・ラディゲに対して、ある時期、三島由紀夫は「盲目的信仰」を抱いてゐた。それでは、三島由紀夫はレイモン・ラディゲを崇拝してゐたのだらうか? 

 いや、それは崇拝といふ感情とはちよつと違ふやうに思ふ。

 少年三島は「ドルチェル伯の舞踏會」には完全にイカれてしまつてゐたけれども、半ば作者への「嫉妬と競争心」をもつて、自分も何とか二十歳前にこんな傑作を書いて死んだらどんなにステキだらうと夢想してゐたのであつて、対ラディゲの感情は崇拝といふ素朴な感情とは明らかに異質なものであつた。

 三島文学を最も簡単に図式化すると、「盗賊」を書いた昭和二十三年を境にして、前期、後期と分けると理解しやすい。

 レイモン・ラディゲの呪縛下にあつたのが前期。レイモン・ラディゲの呪縛から解き放たれたのが後期にほかならない。

 ラディゲ体験の総決算として書いたのが「盗賊」で、これは三島由紀夫の「ドルチェル伯の舞踏會」ともいふべき作品だ。

 それでは、レイモン・ラディゲの呪縛から解き放たれた三島由紀夫は一体どこへ向かつたのだらうか? 森鷗外である。

 後期の三島文学は「もつともつと?外を讀んで文体を鍛へなければならない」といふ自覚から出発してゐる。そこから「禁色」も生まれ、「金閣寺」も生まれた。

 最後の「豊穣の海」に至る二十年に及ぶ後期三島文学は、鷗外文學の存在なくして考へることはできない。


 (續く)

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Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト・評論家。皇室問題やフェミニズム問題に取り組む。三島由紀夫研究家。國語問題研究家。


フェミニズム論の著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

皇室関連の著作としては『天皇を喰ひ物にした侍従長』『天皇と宮内庁の「背信」』など。

執筆には正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を使用、当ブログも正仮名遣ひを用ゐる。

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