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 ●明治天皇の「恋」と柳原家の家訓
 「今時の若い者はしようがない」



 大正三美人のひとりと称された歌人柳原白蓮(燁子)は大正天皇の生母柳原愛子の姪にあたる。

 柳原白蓮の恋多き生涯は、林真理子の『白蓮れんれん』 (集英社文庫)など幾多の評伝に描かれてゐる通りで、華族と結婚するも離婚、九州の炭鉱王と再婚して「筑紫の女王」と呼ばれたと思つたら、宮崎滔天の息子と駆け落ちし、絶縁状を新聞に公表したりして、大正期の「スキャンダルの女王」と呼ぶにふさはしい波乱万丈の人生を送つた。

 昭和三十一年発行の「特集文藝春秋 天皇白書」に、柳原白蓮が柳原愛子を追憶した「柳原一位局の懐妊」といふ手記(聞き書き?)が掲載されてゐる。

 柳原家は日野家の庶流にあたる公家で、幕末には従一位柳原光愛(みつなる)が公武合体派の公卿として名をはせ、光愛の次女愛子(なるこ)は明治天皇の典侍となり、大正天皇を生んだ。愛子の異母兄である伯爵柳原前光は賞勲局総裁、枢密顧問官、宮中顧問官などを歴任、前光と妾の芸妓の間に生まれたのが柳原燁子、のちの白蓮である。柳原白蓮にとつて、大正天皇の生母愛子は叔母にあたり、大正天皇とは従妹といふ関係になるわけだ。

 その柳原白蓮は祖父柳原光愛についてかう回想する。


 《私の祖父光愛は、娘を天皇の側近には決して上げないといふ、厳しい家訓を持つてゐた。それがいつの時代、どの先祖がさういふ事に決めたかわからない。》

 柳原白蓮が養父から聞いたところでは、祖父のいふ家憲には次のやうな由来が存在したらしい。

 何天皇の御代だかに、二人のお局が同時に妊娠し、同じ日に皇子を生んだ。先に生まれた第一皇子こそ皇太子と誰しも考へたが、天皇は双子はあとから生まれた方が兄だと、あとから生まれた皇子を皇太子と定めた。皇太子になりそこねた弟宮は七歳にて出家の身となつたが、長じて謀反を起こし、この法親王と御生母の局は遠島自殺の最期をとげた。七代祟るぞ、といふ呪ひの言葉を残して・・・・。

 柳原家にはこのやうな言ひ伝へがあつたらしく、愛子を御所にあげるやうにといふ話がたびたびあつたにもかかはらず、光愛は宮中に娘を差し上げない家憲がありますからと言つて、どうしてもお受けしなかつた。

 当時、赤坂離宮には先帝孝明天皇の皇后、英照皇太后がお住まひだつた。今度は、この大宮御所に皇太后附として上がるやうにと、御所からのお使ひが見えた。お仕へする相手は女の方だし、大勢居る女の子のひとりくらゐは御所にあげなければ、御先祖代々の御関係もあることだし、と周りから言はれて光愛もやつと承諾した。かくて、愛子十四歳にて、英照皇太后の御側に出ることになつた。

 その頃、御所が火事で焼けたため、両陛下はひとまづ英照皇太后の大宮御所に立ち退かれた。すると、帝は毎日のやうに、英照皇太后の居間にご機嫌伺ひとて成らせられた。周囲では、至尊はたとへ御母堂とて御自ら御足を運ばせられるのは異例と思つてゐた・・・。

《そこで、皇太后自身、天皇の本当の思召が察しられたのか、天皇が皇太后に打ち明けられたのか、はつきりしない》けれども、結局、天皇は皇太后から愛子をもらひうけることになつた。

 焼け跡の御所の造営がなると、天皇は宮城にお帰りになり、愛子も供奉して、宮城内のお局部屋のひとつの主となつた。官名は早蕨典侍(さわらびのすけ)。

 それをあとで知つた祖父光愛の怒りやうはなかつたと、家族一同の語り草となつた。曰く、「今時の若い者はしようがない」。その若い者といふのが、恐れ多くもかしこくも帝を指してゐるのだから、大した爺さんだと――。

 もしこの爺さん―柳原光愛が、愛子を御所に出すことは絶対にまかりならんと首をたてにふらなかつたら、大正天皇の御誕生もなく、したがつて昭和天皇の御誕生も今上天皇の御誕生もなく、天皇の系図は現在とはまつたく異なる姿になつてゐたはずである。
 














 

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プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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