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 ●「Tの會」とA氏のこと





 A氏とはじめて會つたのは十七、八年前のことだらうか。

 ある政治組織が発足することになり、會合に顔を出し始めた時、A氏もそこにゐた。やがて組織が正式に発足し、A氏も私も役員になつたので、幹部会が開かれるたびにA氏と顔を合はせることになり、会合が終はつた酒の席で時々話を交はやうになつた。A氏は酒が好きだつた。
 
 A氏は不思議な存在感のある人だつた。体が立派で般若のやうな顔を持ち、飄々として、一見豪放磊落のやうに見えながら、神経の細やかなところもあつた。會合に甚平のやうな格好で現れることがよくあつて、甚平スタイルの時はいつも体に不釣り合ひな小さなポーチを手にぶらさげてゐた


 会議などでA氏はあまり発言しなかつた。出席者の発言が一巡したあと、意見の調整役にまはるといふ感じのことが多かつた。熱弁をふるふといふのでもなく、人を説得するといふのでもなかつたが、A氏が口を開くと会議のそれまでの流れが変はることがよくあつた。

 A氏が「Tの會」の元會員であることは人から聞いて知つてゐた。Tの會はかつてMが組織した私設軍隊である。酒の席でもTの會のことをA氏はほとんどしやべらなかつたが、ただ彼が「Mさんは本当に愉快な人だつた」と言ふのは何度か聞いた記憶がある。そしていつだつたか、こんな事も聞いた。「いやね、あの頃、しばらくぶりでTの會に顔を出したことがあつたんだよ。そしたらそこにMさんが来てね、なんだ、お前まだゐたのかつて、高笑ひされちやつたよ」。さう言つて笑つた。Tの會はその厳格な人選にもかかはらず、落ちこぼれ組も結構ゐたらしいから、私はこの話を聞いてから、A氏もてつきりその落ちこぼれ組のひとりと思ひ込んでしまつた。

 A氏はそのうちに事務所にも姿をみせなくなつた。病気だといふことだつた。あるとき、私が事務所で誰かと雑談をしてゐると、A氏が事務所にひよつこり姿を見せた。頭に大きなつばのついた黒い帽子をかぶつてゐる。帽子スタイルはなかなかカッコよかつたが、帽子をとると、頭には毛が一本もなかつた。病気の治療でこんなになつちやてねといひながら、受けてゐる治療と体の変化についておもしろおかしく説明してくれるのだつた。A氏の病気は癌だつた。

 この日からどのくらいたつた頃だらう、A氏が入院したことを聞いたのは。病状がだいぶ進行したころ、A氏の見舞ひに行つてきた人が語るに、A氏が「おい、飲みに行かう」といふので病院を抜け出して一緒に酒場に繰り出したといふ。
 
 さほど長くもない闘病の末、A氏は亡くなつた。葬儀の会場にはびつくりするほど多くの弔問者が来た。私には誰が誰やらわからなかつたが、聞くと、何とかの會かんとかの會など有名な組織や団体のトップがズラリと顔を揃えてゐるといふことだつた。

 A氏の葬儀からまもないある日、A氏の長男の結婚式が挙行された。「俺が死んでも結婚式は予定通りにやれ」といふのがA氏の長男に対する遺言だつたからだ。式に参列した人の話によると、式の始まる前に参列者の間で、今日はお祝ひの日なので新郎の父親のことには触れないといふ申し合はせがなされた。しかし祝辞に立つたある人が、たまらずA氏のことを口にしたとたん、会場には堰を切つたやうに涙き声があふれたと聞いた。

 A氏がTの會の落ちこぼれどころかTの會の有力幹部だつたことを知つたのはA氏の没後のことだつた。

 A氏はTの會の第一期生で、會の設立時から参画してゐて、班長もつとめ、一時は隊員の面接にも立ち合ふほどM隊長の信頼も厚かつた。やがてMM氏が會に加入してM隊長の信頼を得るやうになり、初代学生長らがトラブルで抜けた後、M隊長は二代目学生長にMM氏を任命した。M隊長の下で會員を統率したのが学生長で、学生長に就任することはいはばM隊長の片腕になることを意味した。これ以後、Tの會の活動は隊長と新学生長を中心に展開するやうになり、一方、A氏は會の活動も休みがちになり、新設された研究會の班長といふポストも閑職と受け止めた(らしい)。

 そんなある日、東京の中心に位置する、日本の防衛戦略上重要な役割を担ふ軍事施設のひとつで事件が起きた。M隊長がMM学生長以下四人の會員とともにそこに乗り込み、最高司令官を監禁し、軍人たちを集めて自分たちの主張を訴へた後、M隊長とMM学生長は腹を切つて死んだ。

 A氏はもちろんこの現場にゐなかつた。この日の前の夜、都内のある酒場にA氏はゐた。正確には日付けが変はつてからもそこにゐた(らしい)。

 Tの會は、我々が行動を起こした日をもつて解散せよとM會長は残つた會員に厳命してゐた。しかし残務整理などを理由に解散の延長を主張する會員も少ながらずゐて、そのひとりであつたA氏は野心を疑はれて、會長命令厳守派の會員と激しい対立を引き起こした。結局、Tの會は年が明けてから正式に解散式を行ひ、解散の日付は隊長らが行動を起こした日とされた・・・。

 A氏―阿部勉氏ーが逝つてから早いもので十四年になる。生きてゐれば六十五歳になるはずである。
 
 あの日―昭和四十五年十一月二十五日、M隊長―三島由紀夫―と、MM学生長―森田必勝―が腹を切つてから四十三年の歳月が流れた。

   今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは

 毎年十一月二十五日に開催される烈士の追悼祭を、森田必勝氏のこの辞世にちなんで、「野分祭」と命名したのは阿部勉氏である。

 (平成25年2月執筆)




 
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プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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