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『入江相政日記』を讀む
 ―君側の奸の宮中処世術研究―(第三回)

◆権力志向、皇室伝統改廃、蓄財についての弁明



『入江相政日記』は平成二年五月に朝日新聞社から刊行された。全六巻。侍従に就任して二ヶ月後の昭和十年一月一日の記事からはじまつて、死の前日の昭和六十年九月二十八日の記事で終はつてゐる。

 昭和六十年九月二十八日(土)
《暁方二時のを寝過ごして三時になつてから薬のむ。熱は高くても七度止り。気分もよくなり、腹も空くやうになつた。朝軽く一膳。ゆうべから今朝にかけて一杯の電話、応接に遑なし。》

 その二日前の九月二十六日に退任の記者会見をしたばかりなので、電話がひつきりなにしにかかつてきて「応接に遑なし」といふ状態が続いた。

 ところが翌二十九日に入江は急死する。寝室のベッドで意識不明になつてゐるのに家人が気づき、病院に搬送するも息をひきとつた。満八十歳。

 自殺説など死因については当時さまざまに取りざたされたが、そのことは本稿の最後にまた触れることにしよう。

 日記の出版については、死の七年ほど前に朝日新聞社との間で、天皇崩御のあとに朝日新聞社から刊行することでほぼ合意してゐる。

 昭和五十三年九月十八日の日記。

《六時迄ゆつくり相撲を楽しんで六時に出て吉兆。朝日の秦正流、一柳編集局長、中村出版部長、それに伊藤、岸田。久々で吉兆は何ともいへずおいしかつた。少し話し込んで九時半辞去。送られて帰宅。》

 吉兆で朝日新聞による接待。入江の日記の発行元がなぜ朝日新聞社なのかといふと、宮内記者会に長く在籍してゐた朝日の岸田英夫が入江日記の存在に気がついて、社をあげて入江に刊行を働きかけたからである。

 半世紀に及ぶ日記は膨大な量に及び、朝日新聞側が内容を取捨選択して六巻にまとめたのが『入江相政日記』である。朝日新聞は入江に日記の抜き書きを依頼したものの、入江はこの作業に音をあげ中途で放棄した。

 日記を毎日つけてゐたとされるが、刊行本では一ヶ月の日記のうち、五、六日程度しかない月も珍しくない。ざつとみたところ、『入江日記』に収録されてゐるのは原本の三分の一以下ではないだらうか。基本的に入江や遺族にとつて都合の悪い記述は割愛されたと考へるのが自然だらう。皇族に対するあけすけな悪口も、入江にとつてマイナスにならないと判断したからこそ公開したと思はれる。これは『入江日記』を讀む際、一番留意すべき点である。

 『入江日記』を監修した入江の長男為年は、第一巻に「父の日記」といふ文章を寄せてゐる。

《「入江は陛下のことを書きすぎる」「仲間扱いして不遜だ」と非難した人もあった。父は「恐れ多い、勿体ない、だけでは国民の方々の天皇陛下への理解は得られない。米搗飛蝗(コメツキバッタ)でよいのなら、こんな楽なことはない。非難するだけなら子供でもできる」と憤慨していた。》

《父はこうもいった。「侍従長になろうとか、なりたい、とか思ったことは一度もない。気がついたらそうなっていた、ということで、もし欲があったらこうはいかなかったろう・・・・」》

 これら入江の言葉にはどこまでも自己弁明の臭みがつきまとふ。ある時期から入江は日記を自己弁明のツールとして意識してゐたのではないかと思ふ。入江日記を権力志向、皇室伝統改廃、蓄財についての弁明といふ観点からながめてみるとなかなか興味深い事実が浮かびあがつてくるのだ。







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プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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