『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十回)

◆魔女騒動(その四)
 
 ●入江を信用してゐなかつた東宮妃
 《皇室がこんな冷たいものとは・・・》発言の虚構


 東宮妃に対する東宮女官長牧野純子の教育があまりにも厳しかつたために、ついに美智子妃は牧野を「鬼ババア」と呼んだ―。これは皇太子(明仁、今上天皇)の御学友である橋本明の著書『美智子さまの恋文』に出てくるエピソードで,、皇子傅育官東園基文の甥から聞いた話として紹介されてゐる。東宮妃が女官長を鬼ババアなどと呼ぶはずもないと橋本自身はガセネタ扱ひしてゐるが、作り話にしても当時の東宮御所の空気をなにほどか反映した挿話には違ひない。

 東宮妃(現皇后)御発言録で有名なものに、「皇室がこんなに冷たいものとは思はなかつた」といふのもある。昭和天皇と香淳皇后にとつてこれほどショックな言葉はなかつたはずだ。ある意味で極めつけの皇室批判といつていいかもしれない。東宮妃の伝記めいた本には必ずといつていいほど引用され、孫引き、孫引きされてゐるうちに、今では東宮妃の言葉として定着してゐるらしい。恐ろしいことである。この言葉が「鬼ババア」発言に類した流言にすぎない。そのことに一体どれほどの人が気づいてゐるのだらうか。なにしろ、この言葉の出所はまたまた、あの虚飾に満ちた「入江日記」なのだから!

 昭和三十八年三月二十九日の入江日記を読んでみよう。

《九時過ぎに出勤。すぐ長官の所へと思ったら身体の工合がわるくて欠勤とのこと。紀尾井町の官舎でならといふので行くことにする。鈴木大夫とも落合ふ。色々聞くとこの間からのとも又一寸ちがひ「両陛下には入江さんのやうな人があるからいい、お上もある時、〝それは入江に書かせればいい〟とおつしやつたとの事、皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた」との事、大夫と一緒に東宮御所へ行きうどんを食べ、二時半から四時まで両殿下の御前に出る。よくお話下さる。お気持ちもよく分かつた。少しの錯乱もなく驚ばかりだが、その緻密な所が禍をなしてゐると思はれる。


 ここに突如出現する「皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた」といふ言葉。この部分だけ読んでも何がなにやらさつぱりわからないはずだ。このくだりには伏線があるのだ。発端は一週間前にさかのぼる。

《次長から東宮妃が予の書くものについて恨んでいらつしやるから当分内廷のことについては書かない方が無難と長官が言つた由。あきれたことである。》(三月二十二日) 

 東宮妃が予の書くものについて恨んでいらつしやる!  この言葉を聞いて入江は逆上した。これを口にした人物は宮内庁長官である。それを入江に伝へたのは次長である。次の日になつても入江の怒りはおさまらない。

《東宮妃の云はれたことくりかへし考へるが誠に不愉快である。それに更にかりにさう云はれたとしてもその事が当の予の耳に届くといふやうなことは昔の側近にはあり得ないことである。》(三月二十三日)

 自分の行状は棚にあげて、俺に対する悪口を当の俺様に伝へやがつてと、長官次長にも怒りの矛先を向ける。その次の日にも怒りを日記にぶちまける。

《又東宮妃のことが不愉快に思ひ出される。・・・・昼まで西野さんと語り合ふ。ゆふべも徳川さんが東宮職のガタガタ振りについて大いに語つてゐたとの事。》(三月二十四日)

 西野は侍医、徳川(義寛)は侍従。東宮妃への憤懣やる方なく、侍従仲間らと東宮家をやり玉にあげて鬱憤晴らしをしたと思はれる。そしてこの後、狂つたやうに東宮妃発言の追及を始める。

 手始めに東宮侍従長の山田康彦に電話で聞く。山田は学習院の同級生で入江の親友である。明仁親王の御結婚以来、東宮侍従長をつとめてゐる。入江には東宮女官長牧野―女官長保科ラインとこの山田から東宮情報が筒抜けに流れる仕組みになつてゐた。

「東宮妃が俺のことをこんな風に言つてるらしいんだが、お前、何か知つてるか?」

 しかし、電話では埓があかなかつたらしく、翌日山田を宮内庁に呼んで詳しい話を聞く。

《山田が来て、いろいろが話してくれる。やつと分かる。この間からの話が大分違つたのは、この間のがちがつたのか情勢がちがつたのか。・・・次長に明日東宮御所へ行くことになつたについて報告に行く。》

 東宮侍従長山田から情報を仕入れると、東宮御所に乗り込むことを決意する。自分が不利な状況におかれたとみるや、すぐさま反撃に出る。この爬虫類的執拗さが入江相政の性格的特徴をなしてゐる。

 さてその翌日が、冒頭の日記の場面になる。

《九時過ぎに出勤。すぐ長官の所へと思ったら身体の工合がわるくて欠勤とのこと。紀尾井町の官舎でならといふので行くことにする。鈴木大夫とも落合ふ。色々聞くとこの間からのとも又一寸ちがひ「両陛下には入江さんのやうな人があるからいい、お上もある時、〝それは入江に書かせればいい〟とおつしやつたとの事、皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた」との事、大夫と一緒に東宮御所へ行きうどんを食べ、二時半から四時まで両殿下の御前に出る。よくお話下さる。お気持ちもよく分かつた。少しの錯乱もなく驚くばかりだが、その緻密な所が禍をなしてゐると思はれる。》

 まづ宮内庁長官宇佐美毅に面談。あなたが言つた東宮妃発言は自分が聞いた話とは違ふ、と長官を吊るし上げたはずだ。次に東宮大夫鈴木菊男に会ふ。東宮大夫は東宮職のトップである。危険な攻撃性をもつた男が血相を変へて乗り込んできて、東宮妃に会はせろといふ。東宮妃に詰問でもされたら自分の立場はない。この小心な東宮大夫は入江をなだめるために、いろいろリップサービスをしたはずだ。

 しどろもどろの鈴木の説明から、入江は自分に都合のいい言葉を適当に切り張りして日記に並べた。それが次のくだりだ。

《「両陛下には入江さんのやうな人があるからいい、お上もある時、〝それは入江に書かせればいい〟とおつしやつたとの事、皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた」との事》

 例によつてほとんど脈絡不明。気の毒なのは、《皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた》といふ言葉を書き残された東宮妃である。

 東宮妃が東宮職のトップに《皇室がこんな冷たいものとは思はなかつた》などといふだらうか。東宮大夫にこんなことをいつたら、どうぞ天皇皇后にお伝へ下さいと言つてゐるのと同じである。今の東宮御所の状況を考へてみよ。鈴木も誰かの伝聞として耳にしたとしか考へられない。とすれば、それは「鬼ババア」の類ひではないか。

 はつきりしてゐるのは、東宮妃は入江相政といふ人物をこれつぽつちも信用してゐなかつたといふことだ。皇室の代弁者みたいな顔をして、皇室礼賛文章を書きまくるこの冷血男の本性を皇太子妃は見抜いてゐたと思はれる。

     (この項続く)



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プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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