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『入江相政日記』を讀む―天皇側近の人間学的研究―(第十八回)

◆魔女騒動(その十二)
 
 ●天皇をワナにはめた侍従長
  霊能者が丑の刻の詛ひ


 年が明けて昭和四十六年、天皇皇后がこの年の秋にヨーロッパを訪問する日程が固まりつつあつた。

 皇后は、この訪欧に女官今城誼子を同行したいと当然考へた。一方、侍従長入江は今度の訪欧を今城を葬り去る好機と考へた。今城の訪欧同行を阻止するともに、これを機に今城を退官させようといふ作戦を練つた。しかし、皇后がこれを簡単に受け入れるわけがない。そこで入江はある策略をめぐらした。この計画に天皇を利用することを思ひついたのである。この天皇攻略作戦にはあの霊能者後藤至良が深く関与し、次のやうな手順で実行に移された。

《後藤先生からの明治さまの御像の掛物を六畳の床にかける。出勤。》(二月二日)

《五時パレスホテル。江藤淳の出版記念会。あとあるいて帰る。おどん。小木曾夫妻。入浴。すぐ寝る。二時に後藤先生のお電話。》(二月四日)

《長官室へ行き打ち合はせの結果お召で御前に出る。こまごまとしたことが終つてから外国のお供のことに触れ魔女はどうもいけない、とかくおつれになるが今度を機会に段々お遠ざけにならないといけないと申し上げたら、その通りだと仰せになつた。お立派なもの。前々からおこまりになつてゐたものを思はれる。このこと長官に報告。》(二月十二日)

《二時頃名古屋の後藤先生から電話。昨日申上げのことなど言つたら喜んでいらつしやつた。》
》(二月十三日)

 日記の文面だけ読んでもさつぱり分からないと思ふ。この文面に隠されたものを読み解くにはある物語を知らねばならない。

 この頃、天皇が案じてゐたことのひとつに、皇后の不可解な行動のことがあつた。この皇后の行動について、元侍医の杉村昌雄は『天皇さまお脈拝見』(昭和五十七年)の中で、次のやうに記してゐる。

《皇后さまは〝信仰〟をお持ちでもある。
 一時期はことに熱心になされた。吹上御所の裏の方に、小さな祠がしつらえられていて、そこには〝明治天皇〟がおまつりしてあるのだと、聞いた。皇后さまは、毎朝、そこにお参りなさるのである。
 しもじもで、願かけするとき、他人と口をきいてはならぬ、口を開いたら、その場で願いはかなわなくなる、とよくいう。
 それと同じかどうか、皇后さまも、お参りの途中では、決して口をおききにならない。
 一度、あまりに早い時刻にお出かけになり、それを係りのものが気がついた。
「皇后さま、どちらに?」
 やはり、なにも聞えぬふうをなさって、そのままお行きになったそうである。
 雨の日も、風の日も、である。あるときなぞ、御所にお戻りになった時の御様子が、おみ足ははだしで、お顔は泥だらけ。お召しのものも、びしょびしょにぬれていらっしゃる。どこかで、お転びになったのだ。・・・・》
 
 かうした皇后の行動について皇室ジャーナリストの河原敏明が詳しいレポートを残してゐる(『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』『良子皇太后』)ので、それを紹介しよう。

 皇后はある時期、吹上御所裏手の寒香亭といふ東屋に、毎朝お詣りをされてゐた。天皇の顔面痙攣に心を痛めた皇后が、天皇の痙攣症の治癒を願ふあまり、ある新興宗教に傾斜を深めて、毎朝願掛けをされてゐたのであつた。

 その新興宗教を大真協会といふ。皇后を大真協会の信仰に引き入れたのは、皇后の姪の久邇正子である。亡兄久邇朝融(あさあきら)の長女が正子。昭和四十三年十一月、新宮殿の落成の後、皇后は久邇正子ら亡兄久邇朝融の六人の子を御所に招待した。その席で皇后は、天皇の顔面痙攣について心配してゐることを話した。これを聞いた正子は、自分の信仰する大真協会の霊示について皇后に詳しく説明した。

 大真協会は函館に本部があるミニ教団(神道系)で、会首である椿麗寿の暗示・神霊術を看板に信者を増やしてゐた。久邇正子は二十年来の信者で、婦人部次長をつとめてゐた。

 皇后はこの後、幾度か正子を御所に召し、大真協会について詳しく説明を受け、「よろしく頼みます」と正子に伝へた。たびたび召された正子は、北白川女官長には帰り際に睨むような目をされ、御所に上がりにくくなつた。しかし女官の松園英子も実は大真協会の信者だつたので、皇后は松園を介して指導を受けるやうになる。松園英子は久邇家の親戚筋にあたり、やはり正子が入信させてゐた。

 皇后は雨の日も風の日も毎朝、寒香亭に熱心に詣でられた。やがてこれに気づいた天皇が、「宮中には賢所があるから、わざわざお詣りする必要はない」と数度にわたつてたしなめた。しかし皇后は寒香亭参拝をやめようとはしなかつた。皇后からすれば大真協会のことも、ましてや願かけの目的も天皇に告白できるはずもない。天皇には、なにかに憑かれたやうに詣でる皇后の姿が不可解、かつ不気味に映つたにちがひない。

 丁度この頃、訪欧の計画が浮上したのである。入江にある計画がひらめいた。それは、「皇后の寒香亭参拝は魔女=今城の仕業である」と天皇に信じ込ませるといふ奸計である。

 以上のことを頭において、先の入江日記の記事を検証してみよう。

《後藤先生からの明治さまの御像の掛物を六畳の床にかける。出勤。》(二月二日)

《五時パレスホテル。江藤淳の出版記念会。あとあるいて帰る。おどん。小木曾夫妻。入浴。すぐ寝る。二時に後藤先生のお電話。》(二月四日)

《長官室へ行き打ち合はせの結果お召で御前に出る。こまごまとしたことが終つてから外国のお供のことに触れ魔女はどうもいけない、とかくおつれになるが今度を機会に段々お遠ざけにならないといけないと申し上げたら、その通りだと仰せになつた。お立派なもの。前々からおこまりになつてゐたものを思はれる。このこと長官に報告。》(二月十二日)

《二時頃名古屋の後藤先生から電話。昨日申上げのことなど言つたら喜んでいらつしやつた。》
》(二月十三日)

 巧妙な手品のナゾを解くカギは、「午前二時」「明治天皇御像」「おこまり」― という三つのキーワ―ドである。

 まづ入江が、教祖後藤から送られてきた明治天皇の御像の掛物を床に掛ける。皇后が詣でる寒香亭に祀られてゐるのが明治天皇の御像であることを想起されたい。つまり、今回のまじなひは皇后の寒香亭参拝に関係してゐる。

 その二日後、後藤から「おさとし」の電話を受ける。時刻は午前二時。このあと、天皇拝謁の翌十三日、後藤からの電話があつた時間も午前二時なのは偶然ではない。

 午前二時は丑の刻。丑の刻参りの時刻である。丑の刻参りとは、丑の刻(午前一時から午前三時)に、憎い相手に見立てた藁人形を神社の御神木に五寸釘で打ち込むといふ呪術である。誰かに呪ひを懸けるために、後藤はこの時刻を選んだのであらう。呪詛されたのは今城誼子か皇后か?

 さて、舞台装置を整へてから、入江は天皇拝謁に臨んだ。ここで入江は、後藤から教示されたことをしやべつたはずだが、もちろん日記には尻尾をつかませるやうなことは全部カット。日記には肝腎の話がすつぽり抜け落ちてゐる。皇后の寒香亭参拝のこと。そのことと今城の関係について。《前々からおこまりになつてゐたものを思はれる》といふのは、実は皇后の寒香亭参拝のことを指すのだ。

 要するに、入江=後藤連合軍は天皇に対して、皇后の寒香亭参拝を今城の仕業と思はせることに成功したのある。

 (この項続く)





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プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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