Category : 皇室
■天皇の国民に対する「背信」
 天皇のビデオメッセージの「お言葉」




 天皇が八月八日が国民向けに発せられたビデオメッセージ(宮内庁による正式名称「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」)を拝見し、その文章化されたものを何度も読むに及んで、私は次のやうな感想を持つに至つた。

 これは天皇の国民に対する背信ではないか、と。
 
 天皇に対して「背信」などといふ物々しげな言葉を用ゐたりすれば、反天皇分子と曲解されかねないが、背信とは「信義にそむくこと」(新潮国語辞典)といふ意味なのだから、ここで私が「天皇の国民に対する背信」といふのは、天皇は国民の信義にそむいてゐるのではないかといふ素朴な疑問にすぎない。
 
 ではなぜ、天皇が国民の信義にそむいてゐるのか?

    (この項続く)





     
■天皇譲位に色めきたつ「女系天皇」一派




 天皇の譲位問題を一番歓迎してゐるのは、「女系天皇」一派だらう。
 
 皇族の先細りを大義名分に、女性天皇の実現をとか女性宮家の創設をと叫んできた連中をここではひとまとめにして女系天皇一派と呼ぶ。
 
 小泉政権下での有識者会議を隠れ蓑にした女系天皇擁立計画は秋篠宮家の男子誕生とともに水泡に帰し、野田政権下で画策された女性宮家創設計画も民主党政権崩壊とともに中絶した。女系天皇一派の挫折感は深かつた。
 
 そのやうな時、天雷の如く出来した天皇の譲位問題に女系天皇一派は色めき立つた。天皇譲位は女系天皇を実現させる絶好のチャンスだ、と。
 
 女系天皇一派がどれほど、天皇の譲位問題を歓迎してゐるかは、例へば、小林よしのりと所功の次の如き対談がよく教へてくれる。
 http://ironna.jp/article/3719
 誰の感化やら知らぬがにはか女系天皇信者と化してチンドン屋的広告塔をつとめるのが小林よしのりなら、所功は一見皇室敬愛家を装つたエセ学者である。
 
 天皇譲位問題が起きて以来、朝日新聞などは、小泉政権時に女性天皇を認めた有識者会議の議論などを盛んに蒸し返してゐる。その意図は明かである。「愛子様を天皇に」の再現を目論んでゐるのだ。
 
 朝日新聞も、皇室敬愛家を装つた女系天皇一派たちも考へるところは一緒なのである。
















 
■ 天皇の「生前退位」といふ表現の陥穽
NHKスクープ報道の害毒



 
 すべては、13日午後7時のNHKスクープ報道から始まつた。正確にはその一分前にNHKが流したテロップか。
 
 《天皇陛下 「生前退位」の意向示される》
 
 後を追つた新聞・放送などのマスコミは全社が全社、NHKの表現に右へ倣へした。

 《天皇陛下 「生前退位」の意向》

 かくて新聞の見出しからからテレビのワイドショーのタイトルまで、「天皇」の「生前退位」があふれ返ることになつてしまつた。

 天皇の歴史において、「譲位」はあつたが、それが「生前退位」などと呼ばれたことは一度もない。

 「譲位」と「生前退位」といふ表現は似て非なるものだ。
 
 「譲位」とは、天皇が在世中、皇嗣に位を譲ることをいふ。「譲国」も同じ意味で、これを和語では「みくにゆづり」といつた。
 
 天皇がその位を「ゆづる」から「譲位」なのだ。

 ところが、「退位」には位を「ゆづる」といふ意味合ひはまつたくない。
 
 「退位」とは、新潮国語辞典によると、

  ①帝王の位を退くこと。
  ②官位を辞すること。
 
 「退位」には、文字通り位を退くといふ意味しかない上に、帝王以外にも使はれる言葉なのだ。

 「退位」といふ言葉には世襲、世継といふ観念が完全に欠落してゐる。

 「退位」を英語ではなんといふか?
 
 abdication
 
 退位するは、abdicate。
 
 abdicate は、王位、権利、責任などを捨てる、放棄するといふ意味だから、「譲位」にある「ゆづる」といふニュアンスなど毛ほどもないことが分かる。
 
 今上天皇が仰せられたといふ「譲位」は、天皇の位を捨てるとか放棄するといふ次元の話か。

 「天皇」の「譲位」に「退位」といふ言葉を使ふのは、無知によるものでなければ、悪意的な誤用である。
 
 (この項続く)




 

 ●明治天皇の「恋」と柳原家の家訓
 「今時の若い者はしようがない」



 大正三美人のひとりと称された歌人柳原白蓮(燁子)は大正天皇の生母柳原愛子の姪にあたる。

 柳原白蓮の恋多き生涯は、林真理子の『白蓮れんれん』 (集英社文庫)など幾多の評伝に描かれてゐる通りで、華族と結婚するも離婚、九州の炭鉱王と再婚して「筑紫の女王」と呼ばれたと思つたら、宮崎滔天の息子と駆け落ちし、絶縁状を新聞に公表したりして、大正期の「スキャンダルの女王」と呼ぶにふさはしい波乱万丈の人生を送つた。

 昭和三十一年発行の「特集文藝春秋 天皇白書」に、柳原白蓮が柳原愛子を追憶した「柳原一位局の懐妊」といふ手記(聞き書き?)が掲載されてゐる。

 柳原家は日野家の庶流にあたる公家で、幕末には従一位柳原光愛(みつなる)が公武合体派の公卿として名をはせ、光愛の次女愛子(なるこ)は明治天皇の典侍となり、大正天皇を生んだ。愛子の異母兄である伯爵柳原前光は賞勲局総裁、枢密顧問官、宮中顧問官などを歴任、前光と妾の芸妓の間に生まれたのが柳原燁子、のちの白蓮である。柳原白蓮にとつて、大正天皇の生母愛子は叔母にあたり、大正天皇とは従妹といふ関係になるわけだ。

 その柳原白蓮は祖父柳原光愛についてかう回想する。


 《私の祖父光愛は、娘を天皇の側近には決して上げないといふ、厳しい家訓を持つてゐた。それがいつの時代、どの先祖がさういふ事に決めたかわからない。》

 柳原白蓮が養父から聞いたところでは、祖父のいふ家憲には次のやうな由来が存在したらしい。

 何天皇の御代だかに、二人のお局が同時に妊娠し、同じ日に皇子を生んだ。先に生まれた第一皇子こそ皇太子と誰しも考へたが、天皇は双子はあとから生まれた方が兄だと、あとから生まれた皇子を皇太子と定めた。皇太子になりそこねた弟宮は七歳にて出家の身となつたが、長じて謀反を起こし、この法親王と御生母の局は遠島自殺の最期をとげた。七代祟るぞ、といふ呪ひの言葉を残して・・・・。

 柳原家にはこのやうな言ひ伝へがあつたらしく、愛子を御所にあげるやうにといふ話がたびたびあつたにもかかはらず、光愛は宮中に娘を差し上げない家憲がありますからと言つて、どうしてもお受けしなかつた。

 当時、赤坂離宮には先帝孝明天皇の皇后、英照皇太后がお住まひだつた。今度は、この大宮御所に皇太后附として上がるやうにと、御所からのお使ひが見えた。お仕へする相手は女の方だし、大勢居る女の子のひとりくらゐは御所にあげなければ、御先祖代々の御関係もあることだし、と周りから言はれて光愛もやつと承諾した。かくて、愛子十四歳にて、英照皇太后の御側に出ることになつた。

 その頃、御所が火事で焼けたため、両陛下はひとまづ英照皇太后の大宮御所に立ち退かれた。すると、帝は毎日のやうに、英照皇太后の居間にご機嫌伺ひとて成らせられた。周囲では、至尊はたとへ御母堂とて御自ら御足を運ばせられるのは異例と思つてゐた・・・。

《そこで、皇太后自身、天皇の本当の思召が察しられたのか、天皇が皇太后に打ち明けられたのか、はつきりしない》けれども、結局、天皇は皇太后から愛子をもらひうけることになつた。

 焼け跡の御所の造営がなると、天皇は宮城にお帰りになり、愛子も供奉して、宮城内のお局部屋のひとつの主となつた。官名は早蕨典侍(さわらびのすけ)。

 それをあとで知つた祖父光愛の怒りやうはなかつたと、家族一同の語り草となつた。曰く、「今時の若い者はしようがない」。その若い者といふのが、恐れ多くもかしこくも帝を指してゐるのだから、大した爺さんだと――。

 もしこの爺さん―柳原光愛が、愛子を御所に出すことは絶対にまかりならんと首をたてにふらなかつたら、大正天皇の御誕生もなく、したがつて昭和天皇の御誕生も今上天皇の御誕生もなく、天皇の系図は現在とはまつたく異なる姿になつてゐたはずである。
 














 

 ◆「皇后のあるべき姿」とはなにか
  《寄り添う》は週刊誌天皇制に媚びる宮内庁用語



 《女性週刊誌に堕した週刊新潮の皇室記事》の続き。

 週刊新潮の記事《「雅子妃」「紀子妃」の被災地ご訪問競争に「美智子さま」の苦言》に出てくる、次のやうな皇后の発言ほど私をびつくりさせたものはない。

《陛下と同時に人生を閉じることはできませんので、随分長い時間お話をさせて頂き、最終的には二人で決めたことです。》

 陵墓の合葬問題について、皇后が周囲にお話になつたとされる内容だ。

 これを読んで私は「エーッ、ホンマかよ」と思つた。「ホンマに皇后がこんなこと話されたのかいな?」

 これが事実なら大変だ。

 考へてもごらんなさい、「合葬」が検討された経緯を。宮内庁長官羽毛田信吾が昨年四月、天皇皇后の火葬と合葬を検討すると発表し、その一週間後、今度は次長が合葬を遠慮したいといふ皇后の意向を公表。結局、合葬は宮内庁にゲタを預ける形で、正式な検討議題とされたのである。
 
 天皇と皇后が《二人で決め》られなかつたからこそ、天皇と皇后の御意見の相違が無様な形で国民に露はになつてしまひ、合葬の検討がスタートしたのではなかつたか。

 この類ひの、《宮内庁関係者》なるものの話にはいつも眉に唾をつけて読むから、この宮内庁関係者の話も、皇后がそのやうな発言をなさるはずがない、ガセネタであると私も思ひたい。

 ところが、この《宮内庁関係者》は、こんなことも言つてゐるといふ。今回の表明において、皇后が最もお示しになりたかつたのは「妃のあるべき姿」だつた、と。

 《それは皇室における『妃』のありかたに他なりません。夫である殿下を常に立てるべき立場であり、決して同等ではない―。この点、両妃にいま一度のご自覚を促すべく、皇后さまは身をもって、範を示されたのです。》 

 つまり、皇后が合葬を遠慮したいといふ御意向を今回改めて公表したのは、皇后が天皇を「立てた」態度を両妃とも少しは見習ひなさいと「範」を示すためだつた、とこの記事はいひたいらしいのだ。

 ここで私は、先の宮内庁発表後、新聞の紙面に踊つた《寄り添う》といふ見出しを苦々しく思ひ起こす。天皇と皇后の御陵が《寄り添う》。

 御陵が《寄り添う》といふ気色悪い言葉は、宮内庁が発表した「今後の御陵およびご葬儀のあり方」の中に出てくる。

《○両陵の配置
 (1)一つの敷地に作る。
 (2)同一敷地内に寄り添うように配置する。
 (3)陵域全体を一体的に整備する。》

 同時に宮内庁が発表した「両陛下のお気持ち」によると、合葬問題に関する皇后の御意向は次のやうに説明される。
 
《 ただ、御陵の大きさや配置に配慮することで、ご自分方をはじめとし、せめて昭和天皇を直接間接にお身近に感じ上げている世代の方々が、昭和天皇、香淳皇后のお近くにお鎮まりになることができれば、とのお気持ちは皇后さまも陛下と共通してお持ちであり、その上で、用地の縮小という観点、また、合葬をとの陛下の深いおぼしめしにお応えになるお気持ちからも、皇后陵を従来ほど大きくせず、天皇陵のおそばに置いていただくことは許されることであろうか、とのお尋ねがあった。》

 《天皇陵のおそばに置いていただく》。この皇后のお気持ちの具現化を、宮内庁流に表現したのが《寄り添うように配置する》といふことになる。

 週刊誌天皇制が好きな宮内庁が、悪ノリして、マスコミが飛びつきさうな言葉を使つた。それが《寄り添う》の正体だ。

 しかし、天皇の御陵と皇后の御陵が《寄り添う》か、《寄り添》はないかなんて、御陵の本質とは何の関係もない。仁徳天皇陵には一体どなたの御陵が寄り添つてゐるといふのか。昭和天皇陵と香淳皇后陵は寄り添つてゐるのか、ゐないのか。

 《天皇陵のおそばに置いていただく》といふ皇后の《お気持ち》は理解できる。しかし、その《お気持ち》を国民の前に披瀝することとはまた別な話である。

 天皇皇后といへども夫婦である。夫婦の部分はある。《天皇陵のおそばに置いていただく》といふのは、夫婦の部分に属する事柄ではないだらうか。夫婦の部分に属する事柄を国民の前に公表されたこと自体、適切であつたとは言ひ難い。

 況してや、皇太子妃と秋篠宮妃に「範」を示されるために、この種のことを公表されるなど、あつてはならないことである。

 両妃に御意見がおありなら、お二人に直接お伝へすればよい。皇后と両妃との問題に国民を介在させるには及ばない。国民の間に無用の混乱と憶測を惹起するだけである。私には、御陵問題における皇后の御発言は「皇后のあるべき姿」からは遠いやうに思はれる。




 
プロフィール

tensei211

Author:tensei211
ちば・てんせい。ジャーナリスト、政治評論家。フェミニズム論、天皇論を中心に執筆活動を展開してゐる。

北海道芦別市生まれ。千葉県在住。

フェミニズム論をまとめた著作として、『男と女の戦争―反フェミニズム入門』(展転社)など。フェミニズム関係の共著に『男女平等バカ』(宝島社)、『夫婦別姓大論破』(羊泉社)などがある。

執筆には、正仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)を用ゐる。

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